「遠くへ」
傍らで蒼天に浮かぶ雲の動きをじっと見つめていた彼女が、唐突に口を開いた。
小さな彼女の口から零れたのはその口の大きさにふさわしい小さな声だったので、市丸は危うく彼女の言葉を聞き逃すところだった。
「何?」
「遠くへ」
視線をべったりと天に張り付かせたまま、彼女はもう一度、同じ台詞を口にする。
まるで、そこには雲の代わりに自分の言葉の続きが浮いているとでも言いたげな彼女の佇まいにつられ、市丸もまた空を仰ぐ。
……地上の穏やかさは、上空とは必ずしも比例していないようだった。
頭上を覆う鮮やかさの中に身を置く自らを恥らっているかのように、雲は一時も休まることなく、形を変えては流れている。
市丸は一瞬、傍らの彼女の存在すら忘れ、茫然と雲の動きを目で追った。
「行っちゃうつもりなのね?」
まるで市丸の隙を的確に見定めたかのようなタイミングで、そのとき彼女は一息にそう言った。
市丸が不意を突かれて彼女を見つめると、彼女は初めて市丸を見返り、顔を覗き込んだ。
自分を見つめる彼女の瞳は、ひどく澄み切っている。純真の象徴として、抉り取ってどこかの美術館に寄贈したいほどの透徹さだ。
だが、それは、彼女の興味の対象が、自分にまるっきりないからだということを、市丸はよく知っている。
気が向くと、自分が一番好む菓子を持って、屋根の上を散策する。そうすると、大概、同じように菓子袋を手にした彼女とどこかの屋根で出くわす。 出会えば、なんとなく互いの菓子を交換し合って、胃の中を甘いもので満たし、満足したところで別れる。
そんな菓子のみで繋がっている希薄な関係だからこそ、彼女は自分を無心に見つめることができるのだ。
そして、そんな彼女と過ごす時間は、市丸にとってひどく心地よかった。
だが、それも今日で終わる。
まるで付箋紙のように壁に貼られた彼の死骸を、近日中に誰もが見るだろう。
そのために、彼はせっせと自らの斬魄刀を見せびらかせていたのだ。
「誰かから何か聞いたん?」
「誰にも聞いてないよ」
やちるは肩を竦めた。
「なんか、わかっちゃったんだもん」
「……やちるちゃんは、エスパーみたいやな」
市丸がそう言うと、やちるはうふふと面映そうに目を細めて笑った。


何の感情も宿していない真っ直ぐな瞳で見据えられると、なぜだかひどく心が落ち着いた。
あの男の過剰に感情を含んだ眼差しに翻弄され続けていたからこそ、頓にそう思ったのかもしれない。
「あのさ、ギンギン」
足裏に尻を乗せた姿勢をとったやちるは、両膝に両肘を立て、両手で頬を覆った姿勢を取りながら、かくかくと顎骨を動かした。
その幼い仕草は、市丸の頬に笑みを浮かべさせる。
「何?」
「剣ちゃんと戦ってあげてね」
市丸は瞠目し、思わずまともに彼女の顔を見やる。
彼女もまた、まっすぐ市丸を見つめ、にっと破顔した。
「ねっ?約束」
彼女は指きりの形を取った手を、市丸に差し出した。
市丸は彼女のふっくらとした、まだ幼さの残る手をじっと見つめる。
……市丸がどこかへ去ろうとしていることも、市丸が彼女が心から愛している十一番隊隊長が今後敵対するだろうことを、的確に言い当てた彼女の洞察力は、まったく驚くべきものだった。
だが、目の前の男との別れを予期しながら、彼女は今も、ここにはいない自分にとって大切な存在のことを考えているのだった。
何度なく菓子を交換し合い、食べつくすと空を見上げながら会話を交わした男との別れが永劫なものになるかもしれないという事実を漠然と感づきつつ、 彼女は自分にとって最上のあの男のことしか考えていないのだった。
市丸は、なぜだか少し寂しくなる。
「十一番隊隊長さんは、ええなー。こないに、やちるちゃんに思われて」
本音に明るさと軽さをたっぷりとコーティングした台詞を市丸が呟くと、やちるはきゅっと眉根を寄せた。
「ギンギンは違うの?」
言葉に詰まった市丸に、やちるは更に詰め寄る。
「ギンギンは付いていこうって思ったんでしょ、その人に?なのに、大切と思われないし思ってないの?」
「なんで、わかるん?僕が、誰かに付いていこう思うてること」
「なんか、わかっちゃったんだもん」
先ほどと同じ言葉をもう一度あどけない声で繰り返したやちるは、だが妙に大人びた表情で再び空を見上げる。
「……僕は、もうわからんわ」
やちるの言葉に誘われるように、市丸は呟く。
「しがらみが多くなりすぎてしもうて」
「よくわかんない」
やちるはいかにも不可解だというように、首を捻った。
「大切だから、一緒に行きたいって思うんでしょ?一緒にギンギンをどっかに連れて行きたいって思うんでしょ?」
「そないに単純やったらええねんけどな」
「剣ちゃんとあたしだって、別に単純なわけじゃないよ」
やちるは膨れっ面をして、市丸を睨んだ。
「ごめんごめん、そういう意味とちゃうねん。ただ、なんちゅうか……」
「素直になれないの?」
「……素直になれへんっちゅうより、素直っちゅうんが、何なんかようわからん」
「ふうん」
淡白に、やちるは相槌を打つ。
……たぶん彼女だから、関係が解消されても割り切れるくらいの距離感がある彼女だから、 市丸の核心を突けるのだろう。
そして市丸もまた、彼女の的確な指摘に首肯しえるのだろう。
また、それをわかっているからこそ、ひとつの意見として彼女の言葉を謹聴しつつも、彼女の言葉を契機にして自分の決心が ぐらつくことはないのだろう。
副官である彼や大切な彼女は、恐らく気づくことはないし、気づいても指摘することはあるまい。
距離が近すぎるが故に、互いが互いを思いやるが故に、思考の改竄や自制や諦念を交えてしまうから。
「いろいろ、複雑なんだね」
「そうそう」
軽く応じると、途端にぎろりとやちるに睨まれる。
「ギンギン、あたしのこと子供だからって馬鹿にしてるでしょ」
「してへんよ」
慌てて首を振ると、やちるは不審げに市丸を見やった。
「嘘!」
「ホンマにそう思うてるって」
市丸がそう言い重ねると、やちるは本当?とでも問いたげに首を竦めた。
「いや、だから、その人にとっては正しいことが、僕にとって正しいとは限らへんしな」
「わかんない」
やちるはあっさりとそう言い放った。
「あたしにとって、剣ちゃんはいつだって正しいもの」
迷いなくきっぱりとそう言い切れるやちるを、市丸は羨ましく思う。
自分は、彼に付いていこうと決めた今も、彼が正しいのかどうかすらわからない。
市丸は自嘲気味に笑い、頭上を覆う青すぎるほど青い空を眺める。
「正しくないんだったら、どうして付いていこうと思うの?」
やがて、やちるは静かにそう尋ねた。
「なんでやろな」
浮かべる表情を見出せなかった市丸は、曖昧に笑みを浮かべた。
「その人のことが、好きなの?」
「そんなんともちゃうねん」
やちるは非難するように市丸を見た。
「素直じゃないね」
「そうか?」
「そうだよ」
「そうなんかもしれへんけど、ようわからん」
前髪を右手で押し潰すと、市丸の手首の先でやちるが哀れむような目をしていた。
「どうして素直になれないの?」
「最初から、そんなん知らへんし」
「素直になることを?」
「そうやね」
「なんで?」
「わからへん」
彼女はまた、はぐらかされたと頬を膨らませるだろうか。
答えながら、市丸はちらりと思う。
だが、それが心からの本音なのだ。
そんな曖昧な言葉でしか表現できていないけれど、本当に正直な気持ちを彼女には伝えていることをわかってほしい。
欺瞞や嘘で塗り固めた言葉ばかり口にしてきた自分が、 彼女の前には幾許とはいえ、素直な感情を取り戻せているのだと知っていてほしい。
近いうちに向かう世界は、おそらく、嘘を弄び、嘘を是とするような世界が待っているだろうけれど、 そして、それは己が積み重ねてきた今までの生活の総決算故なのだろうけれど、 それでも、こうして微少ながらも本心を吐き出せた自分がいたことを、彼女には覚えていてほしい。
親しくなどなかったと、そう認識していたからこそ、こうして素直に本心を吐露できるのだと薄々気づいていながら、 それは卑怯なことかもしれないけれど、もはや彼女しかいないから。
「ふうん」
やちるはただそう呟き、それ以上、何も言わなかった。
「そろそろ、行かな」
「あ、そう」
市丸が菓子の屑を払い、立ち上がっても、やちるは屋根の瓦に視線を落とし、淡白な返答を寄越すばかりだった。
しめっぽい別れなど望んでいなかった市丸は、やちるの冷めた物言いに心地よさを覚えながら、
「じゃあな、やちるちゃん。さよなら」
と、一言言って、踵を返そうとした。
「もしも本当はその人に付いていきたくないなら、十一番隊に来てもいいんだよ」
「えっ?」
背後から突然かけられた思いもよらないやちるの一言に、市丸は言葉を失いながら振り返る。
「でも、違うんでしょ」
やちるは首を傾けた。
「だってギンギン、今まで1回もさよならなんて言ったことなかったよね」
やちるは言葉を重ねる。表情ひとつ変えずに、ただ淡々と。
「でも、さよなら」
やちるは小さくそう呟き、やがて微かに笑んだ。
「素直になれてよかったじゃん」
そして彼女は、残像のみを残して、市丸の目の前から消えた。
もしかして。
ふと脳裏に閃いた思考を打ち消すべく、市丸は首を激しく振る。
彼女が、自分の願望に即すべく、あえて自分に興味がない態度を取っていたのではないかと。
彼女が、自分に対し、友情を覚えていたために、自分が去ることを悲しんでいたのではないかと。
だが、掠めたそんな仮定に身を没する時間など、もはや残されてはいないのだ。
市丸は、散々食い散らかされ、所在なげに佇んでいる菓子袋を拾い上げ、溜めていた息を吐き出すと、 藍染が待つ五番隊へと歩き出した。





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