辺りに、ビターアーモンドに似た匂いが立ち込めているような気がした。 この匂いがすると、恋が報われなかったのだとつい思ってしまうと書いたのは、いったい誰だったか? いや、寧ろ、この匂いを嗅いでいるということ自体、もしかしたら錯覚なのかもしれない。 彼に手ひどく罵られる未来を想定して、この匂いを嗅いでいるような気になっていることは、実際、ありえることだ。 彼は身を縮こませて眠っている。いや、もしかしたら、寝たふりをしているだけかもしれない。 もしも自分が彼の立場なら、到底、眠ることなどできないだろう。 だからといって、目を開けて、この自分を見つめることなどできはしない。 今の彼にはこうした曖昧な態度を取る以外方法がないのだ。彼が本当に熟睡しているのか、本当は覚醒しているのかはさておき。 藍染は、壁掛け時計に刻まれた時刻を確かめる。 針が指し示している時は、彼が既に立ち去っているはずの時間だった。 少なくとも、この計画を漠然と妄想していたときは、彼に去られた痛みと空白の時間を持て余しつつ、自分の身の振り方を思案しているはずの時間帯だったはずなのだ。 だが今の今まで彼が自分の元にいる。その事実は、藍染を狂わせる。この状況は果たして幸なのか不幸なのか、それすら判断できないほどに。 ……そう、藍染もまた、身の振り方に困惑していたのだ。 結局、一睡もできず、身じろぎすら躊躇い、障子が太陽の光を透かすのをじっと待ちかねていた。 障子が光を滲ませたと同時に飛び起きたはいいが、そのあと、どうすればいいのかわからなかった。 ただ、彼の眠る布団からなるべく離れたくて、無意味に窓辺に近寄り、ずっと襖の隙間から外を眺めていたのだった。 その間に、木々は揺れ、葉は落ち、人々は歩き、光は強くなる。 想像していた以上に、景色は移ろいいっているのだとしみじみ思い、だが、そんな詩的ともいえる感慨に身を没しようとしたところで、 背後の彼は現前と存在している。それだけは事実なのだ。惑乱できるはずもない。 何度となく溜息を飲み込み、景色に身を浸そうとしては失敗する。そんなことを、何度繰り返しただろう? どうせ、罪悪感からは逃れられないのだ。 外界を照らす目映い光に目を細め、藍染は首を振り、細く開いていた襖を完全に閉める。 今日、日付が変わったから、正確に言えば昨日だが、自分は彼を犯した。 完全に完璧に彼を支配下に置きたくて、強引に彼をねじ伏せた。 そうするしかなかったのだと、ついそう付け加えてしまうのは、この現状において、卑怯この上ないことだろう。 彼もまたそれを望んでいたと、ともすれば、そう考えてしまう思考回路も。 抗わんとする彼の、その力が幾許か弱かったようなしなくもなかったことも、罪を軽減したいと欲する己の願望故なのだろう。 だが、実際、そうであった気が、無性にしてならないのだ。 もしかしたら、彼は、自分とともにあらんと、その決意を秘めて、あの瞬間、意図的に力を抜いたのではあるまいか? 藍染はちらりと背後の彼に視線を注ぐ。 某かの答えが、救いが、得られればという願望は空しく、彼はひたすら寝入っている。寝入った素振りをしている。 しかし、彼が何かのアクションを起こしたところで、それが罪悪感の軽減になるわけではない。 なんといっても、彼は若く優秀で、限りない可能性があるはずで、その可能性の芽の一つなり二つなりを、己の欲望のまま、あっさり摘んでしまったことは事実なのだから。 ……杯へと伸ばす彼の手首が、あまりにもしなやかだったから、酒を飲む彼の喉が、あまりにも艶やかだったから、 酒精が回って僅かに紅潮した彼の頬が、あまりにも健やかだったから、思わず、彼に救いを求めてしまったのだ。 彼の手首がたやすく掴めるほどか細くなければ、彼の喉が噛み付きたくなるほど白くなければ、彼の頬がそうと察せられるほど不快に翳っていれば、 こんな昏い衝動が湧き出すこともなかった。 だから、こうなったのは、自分のせいばかりではあるまい。 ……ああ、また、気がつけば、彼のせいにしようとしている。 今、彼に口汚く罵られたとしたら、責任は負うつもりではいるという大義名分を振りかざし、彼を黙らせようとするだろう。 元々、果たすべき約束だったはずなのに、すっかり忘れたふりをして、明るい部分のみを殊更、見せびらかし、 自分を、幸運に恵まれれば彼をも、目眩ませようとする。 そもそも、いったい、あの瞬間、自分は彼と交わることで、何を得ようとしていたのだろう? あの瞬間に発露した自分の凶暴性が、いったいどこから来たのだろう? それこそが自分の求めている某かであるはずなのに、あのとき、確かに手にしたと思ったはずなのに、その一片すら思い出せない。 そして、自分さえ持て余しつつある状況下で、確実に自分の被害者たる彼が横たわっている。その事実だけがすべてなのだ。 ……そう、彼は横たわっていた。横たわり続けることで、曖昧な時間を引き延ばしていた。 彼が目を開くまで、緩やかな地獄はこの場に居座り続ける。その事実が耐えられない。 ……ふと、ジジジと小さな音を藍染の耳は聞き分ける。 次いで、たんぱく質が焦げる微かな匂いが鼻を突いた。 視線を転じた藍染は、蝋燭の窪みにはまり、蝋の海の中で火に炙られながら、苦しげにもがく1匹の揺蚊を見た。 まるで、何かの啓示のような絶妙なタイミングで目撃したその様から、藍染は目が離せなくなった。 それは、救済ではあった。ともすれば、彼へと向かいそうになる思考を留める意味においては。 だが、藍染は安堵と、それ以上の辛苦を、同時に焼かれる虫に覚える。 揺蚊はただ愚かで無知であったのだと断じてしまうことが、どうしても今の藍染にはしかねたからだ。 この虫は、唯一の光を目指し、焔に向かって身を投じる以外に生きる術を見出せなかっただけではないのか? だからこそ、その行為が矛盾であることを知りつつも 己が焼き焦げる未来すら厭うことなく、真っ直ぐに頭から飛び込んだのではなかったか? もしかしたら、自分はこの虫と同じなのかもしれない。焼き尽くされると知りながら、1つの約束に向かって飛び込んだ自分は。 ……だが、それでも彼にはまだ、自分とは違い、拒否という可能性を有している。 それは、藍染にとって、恐怖でもあり、同時に救いでもあるのだった。 本当は、一刻も早く、目を開けて自分を見据えてほしい。自分の傍らで、自分といつまでも共にあると一言、どんな形であれ言ってほしい。 その一方で、藍染の内のどこかに、別の願いを唱える自分がいる。 それでも、自分を魅了した、しなやかな腕を、健やかな喉を、潤んだ瞳を、いつまでも気連のないまま世間に曝してほしい。 どれほど汚されようとも清廉なまま、あの愛らしく可憐な幼なじみと、煩悩に塗れた自分には到底到達できない彼岸で、いつまでも微笑み合っていてほしい。 ……がさりと低く衣擦れの音が響く。 息を詰めて、藍染は目を閉じる。 この部屋で、報われぬ恋の痛みに耐えかねて散っていった者は、いったい、どれほどいるのだろう? この部屋にいるだけで、彼らの嘆きの重みが体にめり込んでくるようだ。 恋という言葉を目晦ましにして、この行為を些細な色恋沙汰の成れの果てとして処理しようとしている自分の罪悪感の重みとともに。 ……確かに漂うビターアーモンドの香りを嗅ぎながら藍染は、この部屋で死した全ての存在に哀悼の意を表しつつ、己の未来を探る手を止めることにした。 |