彼の前髪は、繊細さとしなやかさを有していた。
何度梳こうとも真っ直ぐ滑り落ちる、その滑らかな触り心地を、藍染は指先で丹念に味わいながら、彼の寝姿を眺めやる。
彼の寝顔もまた、彼の前髪同様柔らかで素直なものだった。
密やかに世界を乱す寝息に聞き耳を立てながら、藍染は彼の端正な寝姿に改めて感嘆する。
今まで、数々の人間を褥に招き入れてきたものだが、一糸乱れることなく眠り続ける人間を見たのは初めてだった。
ますます、想像通りだ。
藍染はゆったりと笑み、指先に絡めた彼の髪を掴む力を更に強める。
だからこそ、手離せない。


彼を起こさぬよう、息を潜め、藍染は彼の口元に自分の頬を寄せる。
彼の寝息を、そのそよぎを、満喫するためには、このくらい接近しなければ意味がない。
彼の頬にそっと手をあてがい、静かに撫で下ろしていく。
首筋から肩甲骨へ。肩甲骨から二の腕へ。
胸の内に、名状しがたい熱の塊が発生し、藍染を苦しくさせる。
それは、愛しさや恋しさといった、生易しい感情ではない。
もっと強烈でもっと毒々しい、熱としか名づけようのない何かだ。


自分とはなんだろう?
ずっとわかっているつもりでいたのだが、彼と出会ってわからなくなった。
自分に厳しく人に優しく、やや自信過剰なところはあるが、本質的には公平で穏やかな人間だと藍染は自分を評していたし、 周りの自分に対する評価も、僅かな差異こそあるものの、おおむね同じようなものだった。そのはずだった。
だが、彼と出会ってから、わからなくなった。
いや、まるで太陽のように執拗かつ意味深な彼の視線に灼かれているうちに、知らずと冒されてしまったのかもしれない。
気がついたとき、既に藍染の内には、あくどさの芽が芽生えていたことは事実だった。
果たして、それは、彼と出会ったことで生まれたのか。それとも、今まで気づかなかっただけで、昔からあったものなのか。
何より深く追求したい疑問にまず直面した藍染だったが、責任の所在を認識したところで、どうにもならないことではあることに気づき、 溜息を漏らす他なかった。
その間にも、そのどす黒い感情は、転がる雪球のようにさまざまなものを吸収しては、際限なく膨らんでいき、 藍染は成す術もなく、それを眺めることしかできなかった。
自分の内に眠るこの醜さに恐れ戦きつつも、だがしかし、藍染はどこかで陶酔感を覚えてもいた。
この不快故の快さは、いったいなんだ?解き放たれたような気すらしてくる!
だが、酩酊にも似たこの快感はあくまで一時的なもので、一定時間をすぎてしまえば、あっという間に、自己嫌悪に覆い被さられる。
まるでジェットコースターに乗ったかのような目まぐるしさは、しかし、藍染の本意ではなかった。
こんな感覚など知りたくなかったのだ、本当は。
もう一度、かつての穏やかな日々を取り戻したい。
あの日々を、退屈だとどこかで思っていたから、罰が当たってしまったのだろうか。
心を入れ替えるから、もう一度チャンスが欲しいと願っても、知ってしまった以上、もう戻ることはできない。
これが、もしかしたら、堕落ということなのかもしれないが、もうどうにもならない。
ただ、ひとつだけわかっていることといえば、自分が変化してしまったということだけだ。
そして、もはや、信じられるものなど何一つないのだということを。


これほどまでに彼に執着するのは、彼が自分を歪ませたくせに、彼自身は揺るぎなく存在し続けているからだ。
その真っ直ぐな存在感は、愛おしく憎らしい。
この暗澹たる衝動以外、自分を自分だと規定できない以上、彼を失ったら、 打ち捨てられた砂の城のように自分は瓦解してしまうだろう。
そう思ったから、だから、彼を拐かして、この部屋に連れ込んだのだ。


溺れる者が藁をも掴むように、藍染は彼の輪郭を撫でる。
彼にあてがう掌と、彼を見つめる両目と、彼の吐息を吸い込む鼻と、彼に触れる唇と、胸に淀む不可解な熱さがあれば、 少なくとも自失の恐怖からは逃れられる。
息が詰まるほど狭いこの部屋は、拘束の役目を担ってくれるだろう。
もう何も考えられないし、考えたくもない。
ただ、ここにいることができさえすればいい。


やがて、彼はゆったりと目を開ける。
己が置かれている状況が把握できない彼は、不思議そうに自分を見やる。
ついに完璧に覚醒した彼は、頬を引きつらせる。
「変態」
ゆっくりと彼の唇が動き、彼はしかし不可解な笑みを漏らす。
変態。なるほど、そうか。
では、この部屋で、自分は変態として生きていこう。
そんな決意を伝えるために、藍染が手を伸ばして彼の髪を押し潰すと、彼は深い溜息をつき、再び目を閉ざした。





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