神に愛された者とは、彼のことを言うのだと思う。
僕が彼の立場なら、こんな所で無防備に眠り込むなんて考えもしないだろうから。
つまりは、そういうことなのだ。
「志水君」
肩先をそっと揺らすと、彼は重そうな睫毛をゆっくりと押し上げ、ぼんやりとした目で僕を見た。
「加地先輩?」
「そろそろ風邪を引くんじゃないかと思うんだけどね、さすがの君でも。それに」
僕は辺りをぐるりと見回し、彼に今いる場所を自覚させんとする。
彼は僕の仕草を真似たが、からくり人形のようなその動きと、未だ眠りの精に支配されているその瞳からも、僕が意図したほどには現状を理解をしていないことがわかる。
要するに、こういうことなのだ。
「ここは眠るには物騒すぎる」
僕は思わず溜息をつく。
……この巡り合いは、僕にとってラッキーなはずなのだ。
前の学校の知人に借りっぱなしだったCDを返しに行った帰り道、滅多にない気を起こして、何気なく公園まで足を伸ばした結果、 ベンチに頬を押し当て、すやすやと眠る彼を見つけられたのだから。
学年も学科も違う彼と僕が会う確率は高くはなく、実際、彼の姿を目にするのは、5日ぶりだったことも踏まえると。
だが、溜息は勝手に僕の唇から零れ、無様に足元でひしゃげた。
掬い取る術を見つけらないほど完膚なきまでに粉々になったそれを、僕は呆然と見る。
真冬の夕暮れ時に、僕はコートすら纏わない状態でベンチに寝転がろうとは思わない。
それは、生活を基盤とする理性に今までの経験を足した結果、導き出された、つまらない自己防衛だ。
だが、彼はやすやすと眠りこけていて、それが僕を打ちのめしたのだ。
彼の脳裏には恐らく、このまま眠れば風邪を引くとか、誰かにひどい目にあわせられるとか、そういう類の懸念が過ぎりもしないのだろう。
なぜなら、彼のこの小さく華奢な体のほとんどすべてが、音楽にのっとられているから。


彼は何度か瞼を瞬かせると、鼻をひくつかせる。
「夕暮れの感触がします」
「感触?」
「冷たい空気が鼻をツンとして、でも、どこか優しい肌触りがします」
「……そうなの?」
「ええ」
断定的に彼は頷き、その感触を味わっていない僕を寧ろ不思議そうに見やる。
どうして、こんな心地いいことを、僕が体験しようとしないのだろうと、彼は心底、いぶかしんでいるのだ。
鼻に意識を集中させるくらい、どうってことないのだけれど、感覚に生きる彼と同調できるほどに、 僕は現実を捨てきれない。
それが、才能の差と直結するとは思えないけれど、でも、今の僕は、彼との違いがすべて、才能の違いで 片付けてしまいたくなるほど、弱っているのだ。
どうにか、割り切れるようになったと思ったから、憧れの音を奏でる彼女のいる学校に転入した。
音楽科がある学校だということは、重々承知していた。
だから、転入は一種の賭けで、僕はとどのつまり、賭けに負けたのだ。
……その学校は僕の想像以上に、音楽で満たされていたし、豊かな才能を持った人間たちで溢れていた。
過剰すぎるほど想像を広げていたつもりだったけど、現実はいつだって想像を凌駕する。
……いや、それは違う。
自分の目をくらませようとする涙が出るほどお優しくも忌々しい心の動きを、僕は無理やり封じ込む。
現実逃避を最も得意とする僕でも、いくらなんでもそろそろ、現実を見据えなければならない時期に来ていることくらいわかっていた。
それは、同時に、たわいない摩り替えや自己暗示くらいじゃ自分を洗脳しきれないほど、のっぴきならない状況に追い込まれているだけに過ぎないと言い換えられるのだけれど。
そう、例えば、文学だ。
僕は実際に顔をしかめそうになるのをこらえる。
かねてから文学に興味があったことに嘘はない。
本を読むのは昔から好きだったし、もっともっと、文章の生み出す魅惑的な力に惑溺したいと思うし、 文章に携わる仕事につくのもいいかもなんて、夢想してみることもある。
でも、時々、文学をただの言い訳にしているような気がして、一方でひどく疚しい気持ちになる。
音楽に対して覚える憧憬は痛みすら覚えるほどなのに、文学に対して覚える欲望はひたすら胸を甘く焼き、僕を逆に不安にさせるのだ。
才能がなくてもそれでも求めてしまうほどの熱狂を、文学に対して、果たして僕は覚えているのだろうか?
結局、僕は音楽を手に入れられない現実から逃れるために、文学を利用しているのではないだろうか?
敬愛している作家の研究では他の追随を許さない教授のいる大学に行くためには、前の学校に通い続けていた方が確実に有利だったのに、そのためにあの学校に入ったというのに、それでも諦めきれずに、 こうして彼女のいる学校にわざわざ、転入してきている時点で、既に矛盾してしまっているのだろうけれど。
……彼女の音色を聞いた時点で、そのくらいのこと、本当は予測できたはずだった。
この場合、罵るべきは僕自身の浅はかさだ。
彼女の音色に魅了されすぎて、とうの昔に捨てたはずの可能性を、まるで衣替えみたいに箪笥の奥から引っ張り出してしまったのだ。
もしかしたら、彼女の音色に引き摺られて、ありえない音色が奏でられるようになるかもしれない、なんて。


だけど、想像に翼を与えられることはなく、代わりに失望という形に変わって、僕の内で燻り続ける。


そして、目の前の彼は、僕に現実を直視させる最たる人物だった。
辺りかまわず寝入ったり、すっとんきょうなことを口走ったりするくせに、一たびチェロを手にすれば、ぞっとするほど完璧な音色を僕につきつける。
自己の才能への過剰な期待や夢と紙一重の願望を、最初の一音で霧散させてしまうほどの強烈な音を。
彼のふわふわと柔らかい髪に絡みついた落ち葉の欠片を払ってやりながら、まるで母親のような自分の甲斐甲斐しさに一層、嫌悪感が募る。
素直に彼が僕の手に髪を委ねていることをいいことに、この現状に満足感を覚えてしまいそうだ。
今にも、こんなお節介が、自分が彼の音楽の役に立ったと思ってしまいそうだ。
子供に依存する母親の心境がわかってしまいそうだ。
本当は、僕は、こんな形で彼と関わりたくはないのに。


「耳がよくて」
どんな絡みつき方をしたのか、しぶとく彼の髪に纏わりつく一片の落ち葉に意識を集中させた途端、彼はふっと呟いた。
「えっ?」
「耳がよくて」
続きを促すために僕は聞き返したつもりだったけれど、彼は律儀に最初の言葉をもう一度繰り返した。
「それなのに、自己評価が低いんですね」
「……それって、もしかして、僕の話なのかな?」
決定的な言葉を避けるために婉曲に尋ねた僕の気持ちなどまったく察しようとしない彼は、まっすぐに僕を見て、迷いなく頷いた。
その眼差しは僕に傷つく隙を与えないほど清冽で、僕は涙が出そうになった。
「それなのにって何?繋がってないよ、文章が」
なんとなく彼の言いたいことは察せられたけど、僕は苦笑いしながら、彼との会話を一般的な会話に近づけるため、あえて疑問を差し込む。
このあたりの言葉の扱い方は、彼の場合、理屈ではなく感覚で体得させるべきだろうという判断があった。
この先、彼を不自由させないためには。
「変ですか?」
不思議そうに彼は首をひねる。それでも別の言葉に置き換えようと、小さな頭を悩ませている。
いい傾向だ。僕は微笑みながら、彼の口元を見つめる。
せめて、彼のそばにいられる限られた時間くらいは、彼の持つ音楽を歪めない範囲で、彼に一般的な生活を教えてあげたい。
それは愛しさにも似た願い。
この先、現実で行き詰って、彼の内で芽生えた極上の旋律を手離してしまうことのないようにしてあげたい。
彼が現実の迷路に迷い込んで苦しまないように、足掻くことのないように、僕が今、持っているすべてを彼に注いであげたい。
……でも、それは、彼に自分の叶えられなかった思いの一端を無理やり仮託してしまっているだけなのかもしれない。
堂々巡りはまたしても僕を縛る。葉を払う手が一瞬止まる。
「耳がいいのも、才能だと、僕、思うんですけど。でも、加地先輩の場合、自分の演奏にだけは、 自分の耳が生かされてませんよね」
硬直した僕の手を見上げながら、彼が口にしたのは、僕が想像していた言葉とはまったく別の言葉だった。
「それ、どういう意味?」
いい加減、彼の曖昧な糾弾に苛立ち、尋ね返す言葉に、思わず険を含ませてしまう。
演奏が不出来だと、才能がないのだと、そう言いたいのなら、はっきり言って欲しかった。
「いえ、そういう意味ではなくて」
茫洋とした彼の表情に、少し焦りの色がひらめいた。
滅多に見ることのない表情だ。
「自分の演奏を客観的に聞けないのかな、と思って。あんなにいい演奏するのに、せっかくの演奏が、 押し潰されている気がします。ええっと……」
彼は視線を地に落とし、しばらく沈思する。
「そう、理性」
合点がいったというように、彼は1人頷き、ひたりと僕の目に自分の視線を合わせる。
「理性が、加地先輩の演奏を殺しています」
ふっと彼の手が僕の頬に伸びる。
彼の指先が僕の皮膚を撫でた瞬間、自分の内に聞いたこともない音色が聞こえたような気がした。
「あなたの中にある音楽を、僕に聞かせてください」


……そう言って微笑んだ彼の笑みは果たして本当に清らかだったのか、今となっては僕にはわからないのだけれど。







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