目の前を歩く青年の背が、唐突に藍染の心を打った。 これまで、ずっと彼の後ろを歩いていたはずだった。 たまたま向かう方向が一緒らしいということすら思わず、ただ彼の後ろを数十メートルの間隔を持って歩いていたに過ぎなかったのだ、さっきまでは。 なのに、彼の背から目が離せなくなった。まるで一目ぼれのように突然に。 若干痩せ気味なきらいはあるが、ごくごく普通の後ろ姿である彼の背のどこに、不意打ちの予感が眠っていたのかはわからない。 春特有の朧ろな天候と快適な気温に誘われるがままそぞろ歩きに興じていた藍染だったが、適当な頃合をみてそれを切り上げ、五番隊の執務室に戻るつもりでいたのだ。 先ほどまで、一時ながらも煩雑で陰気な業務から解き放たれ、己の足の向くまま歩く気ままさに心地よさを覚えていたのに、今ではその曖昧さが寧ろ藍染を惑わせる。 彼の背に気づいてしまったが最後、彼の背を眺めることなく、彼の向かう方向を意識することなく、完全なる自分の判断で歩む方角を決定することはひどく難しいことのように思えた。 だが、そんな藍染の葛藤などどこ吹く風で、彼は歩く。ひたすら歩き続ける。 愚痴を交換し合う女たちを、怒号を応酬し合う男たちを、傷を舐め合う老人たちを、取っ組み合う子供たちを、巧みに避けながら、黙々と歩き続ける。 彼からは人が孕む存在感という名の騒がしさを否定する、奇妙に頑なな静けさが薫っていた。 彼に目を奪われたのは、それが理由なのだろうと、彼に遅れぬよう、彼に追いつかぬよう、注意深く足を踏み出しながら、藍染はしみじみと彼の背中を眺める。 自意識ばかりが蔓延るこの世を切り裂くように無心に歩む彼は、瞬かないことで人々の目を奪う黒い光のように、逆にくっきりと浮かび上がってしまっているのだ。 頭を揺らすことなく、ただまっすぐ前だけを見据え、歩くことだけに集中しているようなのその姿は、一方でひどく無防備にも見えた。 頼りない茎を一心に天へと伸ばしている若草のような不安定さとでも言い換えるべきか。 すんなりと伸びた背筋や肩口でけぶる凛とした雰囲気は、煩瑣な世界の内では、逆に安定性を欠いているように見えてしまうのだった。 ああした歩み方をする彼が辿り着くのは、いったいどこなのだろう? ゆらりと立ち上がった想像に、藍染は身を浸す。 買い物や所用では、興を削ぐばかりでいただけない。 かといって、親しい友や恋人の所というのも、なんだか味気ないような気がする。 ひたすら歩き続ける業を背負っているとか、このまま魂の回帰する場所へ向かうとか、 そうした不可思議な道を辿っているという設定の方が、なぜかしっくりくるように思えた。 弛んだ世界を真っ二つに分断するように泳ぐ彼の後背は、真摯ゆえに、そんな妄想をも受け止めてくれるような隙もまたあるのだった。 ……つけるつもりがなかったといえば、嘘になる。 だが、彼の存在を自覚してしまった今、方向転換をするのもわざとらしいように思えたし、一方で、 このまま道を歩き続けたら、ますます彼の背から目が離せなくなりそうだった。 どっちつかずの気持ちのまま、藍染は彼の背中を見つめつつ、機械的に足を動かし続けていた。 もしかしたら、魅入られたという表現が一番相応しい状況かもしれない。 ふと、彼の背が放つ馨しい雰囲気にぴったりの想像を藍染は思いつく。 彼が鬼であればよいのだ。 人気のない場所まで藍染を誘い、振り返る。 そうして、藍染の魂を食らい、満足げに微笑むのだ。 この歩みを、この背を、この雰囲気を持つ彼が、自らの魂を貪欲に啜り込む様を想像し、藍染は陶然とした。 そんな死が我が身に訪れたら、なんと魅惑的なことだろう。 「何か用ですか?」 彼が振り返ったのは、ちょうどシロツメクサが満開の草原を突っ切る道の真ん中だった。 街外れにあるこの草原は、本来用があるような場所ではない、いわゆる僻地だ。 彼の歩き方がどうしてこれほど自分の心を打つのか、その理由を探ることに熱中しすぎたとはいえ、 こんな場所まで暢気につけてきた自分の愚かさに藍染は内心で嘆息した。 ちょうど彼の歩調に完全に同調できつつあったところだった。 歩くことに夢中になりすぎていた。 だが、これでは、つけている自分に気づいてくださいと言っているようなものだ。 今更とぼけるには些か無理がありすぎるように思えるが、藍染は言い逃れの文句を探す。 「いや、誤解だ。変な意味はない」 だが、結果的に浮かんだ言い訳は、明らかに不審者ですと言わんばかりの口上で、藍染はしみじみと情けない気持ちになる。 道を曲がるチャンスなど、幾度もあったはずなのに、そうしなかった時点で、すでに変質者の仲間入りをしているのだが。 「それ」 彼は目敏く、藍染が腕に巻いている隊章を見やった。 「五番隊隊長さんでおられましたか。ええと、藍染さん、でしたよね?」 今更のように、隊章を取っておかなかった自分の迂闊さを悔やんでも、後の祭りだった。 反射的に隊章を掌で覆おうとした藍染は、まるで罪を認めているかのようなその仕草に赤面し、行き場のなくなった手を頭へと持っていく。 彼は一連の藍染の仕草を冷静に眺めていた。表情には隠しきれない嫌悪が匂った。 「それで、五番隊隊長さんが僕に何の用が?」 「いや、シロツメクサの咲き具合が知りたくてね。好きなものだから」 理由を求めて辺りを見回し、群生するシロツメクサの存在に気づいた藍染が、彼の意識を可憐な白い花へ向けるために指で指し示すと、彼は僅かに首を傾げ、口角を吊り上げた。 一見すると笑っているように見える表情だったが、頬の辺りに隠し切れない不信感がこごっている。 「五番隊隊長さんにあらぬ疑いを持ってしもうて、ホンマ申し訳ありません。 変な奴につけられること多いもんで、警戒心が強うなってるんです」 麻衣のようなさらさらとした言葉を吐きながらも、長い前髪の隙間から伸びる彼の視線は痛いほど強かった。 言葉とは裏腹の、探るような目線をまともに受ける勇気はない。 藍染は視線を咲き誇る白い花々へと逃がしながら、何気なさを装って尋ねる。 「そんなによくつけられるのかい?」 「ええ」 藍染もまた視線のみで彼の顔色を窺ったが、つけられ慣れているゆえか、彼の表情は表面的には穏やかなものだった。 「いっつも同じ奴やったら、まだ、身の振りようがあるんやけど、 ほとんど毎回、知らん奴やさかい、僕としても何ともできひんのです」 「……それは災難だね」 表立っては頷きつつも、寧ろ藍染は彼の後を追う人間の感情のほうに同調していた。 彼のしんとした存在感を見せられ、蜜を求める蝶のようにふらふらと舞いたくなる気持ちはよくわかる。 要はないものねだりなのだ。 日常に嫌気を差している人間は、彼のような歩みをする人間に先導され、どこかに行き着きたいと思っているのだ。 待ち受ける世界がどんな地獄であろうとかまわないのだ。 ただ、皮膚呼吸を邪魔する粘っこい空気を払う力を持つ人物のあとを追いたいのだ。 「たぶん、僕がそないな性質なんやと思うんですけど」 だが、彼は、幾分、自嘲気味にそう言い放つ。 「性質?」 「そういう変人みたいのを引き寄せるんやろ」 彼は他人の話をするように、言葉を投げ捨てる。 しかし、彼の自覚のなさは彼の歩みに覚えた感覚を蘇らせ、藍染は知らずのうちに息をつめる。 静寂の中を駆け抜ける風が、ざわりとシロツメクサの花を震わせた。 草々がこすり合う音が、藍染を我に返らせる。 「シロツメクサ」 彼は甘ったるい菓子を口にしたあとのような、もったりした口調で呟いた。 「もしかして、摘んで執務室あたりに飾るおつもりでしたか」 そう言いながら、彼がシロツメクサから藍染へと視線を転じると、 長い前髪が優しい春風になぶられ、その瞬間、ふわりと持ち上がった。 彼の双眸は、ひたりと藍染にすえられている。 その瞳が宿す色は、先ほどまで彼が漂わせていた場違いな静謐さを湛えていて、藍染はどきりとする。 当たり前すぎるほど当たり前な自覚が、その瞬間、漣のように藍染へと這い寄る。 先ほどまで歩いていた彼と、今、こうして、ひっそりとした視線を藍染へと注ぐ彼は、紛れもなく同一人物なのだと。 「ああ、そうなんだ」 「なら、僕も手伝いましょう」 「ところで、君は、なぜこんな所にまで?」 彼をつけているときから抱えていた疑問から楽になりたい一心で、藍染は問う。 「つけられてると思うたから、最初は逃げようと思うててんけど」 彼は肩をすくめた。 「歩いてるうちに、もうどうにでもなれって気になって、思いついた先がここやったんです」 「へえ、きれいな所だね」 無意識にそんな言葉が口をついた。 うっかりにも程がある己の言に赤面する藍染を横目で見た彼の表情に、ふっと笑みの兆しが差し掛かった。 笑いはやがて漣のように彼の顔を打ち寄せ、ひいては声帯をも乗っ取った。 喉を仰け反らせて、笑い声を立て始めた彼を、藍染は羞渋として見やる。 「すんまへん」 やがて彼は殊勝な表情を浮かべて謝罪の言葉を発したが、未だ湧き上がる笑いの衝動を押さえつけているのか、肩先が微妙に揺れていた。 彼はどうにか笑い声を喉元で堰き止めながら、かがみこんで手近にあったシロツメクサの茎を手折る。 「これ、どうぞ」 差し出された花弁は妙に白く可憐に藍染の目に映った。 |