「行かなあかん所があるんです」
急いた様子でその華奢な体を無粋な着物で覆い始めた市丸に、何事かと声をかけると、彼は振り向きもせず、口早にそう答えた。
とうの昔に夜半は過ぎ、もうそろそろ空が白みだす時刻に、いったいどこへ行こうというのか。
彼の意図を問うべく口を開いた藍染だったが、帯を締めるという単純作業すらもたつくほど焦るあまり、時折舌打ちを織り交ぜながら、せかせかと着替えを進めている市丸から立ち込める、一切の問いかけを阻む雰囲気に気圧され、反射的に口を噤む。
あっさり怖気づき、自ずと自粛の方向へと流れ出す疑問の欲求に割り切れないものを感じたものの、藍染は結局、衣服を纏っていく市丸の様を漫然と眺めることしかできなかった。
そもそも藍染は、自分より先に誰かに服を着られることが好きではない。
余韻に浸っているのは自分だけだと暗に言われているようで、居たたまれない気持ちになるからだ。
しかし、この自分のつまらない不快など感づきもしていないといった態の市丸は、服を着ることに全神経を集中させていて、藍染は明らかに1人で布団の中に取り残されているのだった。
慌てているせいでたどたどしい手つきではあるものの、着々と身支度を整えていく市丸の横顔は、その流れに正比例して徐々に社会性を帯びていく。
完全に衣服を着終えたとき、彼は先程までの媚態を忘れていることだろう。
……ひどく寒々しい気持ちになった藍染は、胸元にかけていた布団を肩先まで持ち上げ、より一層深く包まってはみたが、市丸からの反応が皆無であったため、諦めて身を起こすことにする。
独り相撲をとったところで、虚しさが募るだけだ。
黙々と身支度を始めた藍染をちらりと横目で見て、市丸がふと皮肉な笑みを漏らしたが、それが何を示すのか、藍染はまるで見当もつかなかった。
ただひたすら、嫌な予感だけが胸を過ぎった。



町外れにある荒涼とした丘を登り始めたのは、ちょうど朝焼けが最後の夜の欠片を飲み込もうとしている頃合だった。
隊舎を出た頃はまだ恥ずかしげに頭頂部を覗かせていただけに過ぎなかった太陽は、今や堂々と全身を世界へ晒している。
だが、朝陽が放ついかにも暖かげなオレンジ色の光と、先程から顔中をぴりぴりと刺激する冷気とは、まったく噛み合わないものだった。
そんな朝に対して覚える感覚は、媚態はまるで一連の流れを壊さぬための演技であったと言わんばかりに、すました顔をして帯を締めることに夢中になる彼や、今もこの嘘くさい大気の中を悠々と泳ぐことのできる彼に対して覚える感覚と、ひどく似通っているように藍染には思える。
胡散臭いと言い切るには親密すぎるその感情は、しかし冷静に吟味してしまった途端、彼が他人めいて見えることに対する孤独感という一言で収束されてしまいそうだ。
警告のように肌を震わすこの微かな違和感は、切り捨ててしまうには不穏すぎるのだが。
……苛立ちと不安とが押し合いながらせり上がり、気道を塞ごうとする。息が苦しくなる。頭の芯が白く染まる。
わななく肺を宥めるために、藍染は大きく息を吸い込む。
清々しい空気が喉を滑り、だが、なぜか自分がひどく汚されたような気がした。
……ちらりと目線を正面に注いだ途端、藍染の目に彼の肩先が目に飛び込んできた。
歩幅を乱すことなく、頭を揺らがすことなく、藍染の数歩前を彼は歩いている。
そんな端正な彼の背は、すぐ後ろで瘴気を放つ藍染の動揺や憤懣を端から拒絶しているようだった。
回れ右できたら、どれだけいいだろう。
半ば彼の後背に引きずられるように足を動かしながら、藍染は思う。
本当は、こんな嫌みったらしいほど清冽な早朝のうちに、外へなど出たくはなかったのだ。
朝の息吹を感じつつも、周辺に残る夜だけを胸に抱きしめ、時間の許す限り、惰眠を貪っていたかったのだ。
そして、それは決して、孤独感を覆い隠すための言い訳ではない。


頂上まで登りきった2人を迎えたのは、1本の若木だった。
荒廃の空気を纏うこの丘にはまったく相応しくない瑞々しさを備えたその木は、その違和に気づいているだろうに、そ知らぬ顔で、生命力の権化たる粒をびっしりとその細腕に纏わせている。
一足早くその木に辿り着き、身動ぎひとつせずそれを見上げていた市丸の横で、藍染もまた立ち止まった。
こっそりと横目で傍らの彼の様子を窺うと、彼は白い頬を微かに上気させ、いとおしむように目を細めていた。
「この木」
やがて、市丸は厳かともいえる所作でゆるゆると両腕を持ち上げると、丘の頂上で1人屹立するその木の幹にそっと指先を宛がい、静かに額を押し付けた。
「この木が、なんなんだ?」
「ここはあなたが愛さなかったものたちの墓場」
市丸は低い声でそう呟き、白い息を吐きながら頤を木へと差し出すように喉を仰け反らせた。
つられて彼の仕草に倣った藍染の視界を埋め尽くしたのは、縦横無尽に伸びる木の枝だった。
逆光のせいで黒々と見えるそれらは、空に浮かんだひびのようにも見える。
「そして、僕の墓標」
まるでひび割れた空から滴ったような市丸の声がつむじから脳に染み入った。
体内に押し入った途端、それは不安となり、藍染の首筋から肩先へと伝う。
「遅くなってもうて、ごめんな」
市丸は静謐な声で幹へ語りかける。
気味が悪い。
ただの若木にしか見えないその木に、並々ならぬ執着心を持っている様子の市丸を、普段の自分ならその一言で片づけてしまうだろう。
実際、普段どおりに処理してしまいたかった。
市丸をこの木から引き剥がし、もう一度、自室に戻って、布団にくるまってしまいたかった。
いつもどおりの朝をやり直したかった。
なのに、どうしても、踵を返す力が湧かない。
「かつて、あなたが僕を殺して埋めた場所ですよ」
視線を若木へ粘つかせたまま、市丸は密やかにそう言い放った。
納得しそうになるのは、この荒れた雰囲気のせいに違いなかった。それ以外、あり得なかった。
実際、目の前にいる彼の唇は今も白い吐息を漏らしている。それは生の象徴で、それは疑いようもないことだ。
だが、ともすれば、そうかもしれないという思いに傾きそうになるのは、なぜだろう?
「この日付、この時刻、この天気、この寒さ」
膨れ上がる実体のない罪悪感に喘ぐ藍染を黙殺し、まるで詩でも諳んじているかの如き口調で、市丸は淡々と呟く。
「何もかもお誂え向きに、あの日と同じやのに」
「ギン!」
「そして、この木は僕の死を養分にここまで育った」
制止の意図をもった藍染の呼びかけを無視して、市丸は続けた。
まるで、別人のように強張った横顔からは、彼の本心は見出せない。
「じゃあ、ここにいる君はいったい誰だと言うんだ?」
「ただの抜け殻です」
まるで言葉の虚ろさが彼自身を乗っ取ってしまったかのような薄ら寒い笑みを、市丸はあっけらかんと浮かべてみせた。
それはついさっきまで親しく肉体を捧げあったことなど嘘のように遠い表情だった。
足元に突如開いた断絶は、他意がないが故に美しさを孕んでいることを藍染はこの瞬間に知った。
まるで湧き出したばかりの清水のように透明で、純粋なる美しさを。
「忘れてしもうたんですか?」
奥底にまで沈んでしまった言葉を探すように、市丸は俯いた。
「何を言い出すかと思えば」
市丸の周囲でとぐろを巻く禍々しさを吹き飛ばすべく、藍染は笑い声を立てる。
だが、本人の感情に忠実なそれは乾ききっていて、少しの風に煽られただけで、あっさり落下してしまう。
両腕をゆるく持ち上げ、市丸はしばしの間、朝の空気に全身を浸すかのように弛緩した。
まるで、藍染の話など聞いていなかったといわんばかりのその態度は、遠回しに記憶を手繰ることを強いているようで、藍染に焦燥感を齎す。
「現に君は今もこうして生きているじゃないか」
結局、口をついたのは、あえて口にする必要などない、寧ろ口にしてはならなかった類の現実的な言葉だけだった。
果たして、市丸は嘲るような笑みを口元に漂わせ、藍染の失敗を決定的なものにする。
「あなたは、僕を殺したんや」
市丸は微かに笑んだだけで、不穏な空気を呼び寄せてみせた。
ゆっくりと立ち上がり、背後から静かに迫り、覆い被らんとするそれは、不可視でありながらも、生々しいまでの存在感を持っていた。
……うまく息が吸えなくて吐き気がする。
「思い出せへんのやったら、それはそれでかまいません」
市丸は未だ尾を引く嘲笑の残骸を漂わせたまま、藍染を振り返った。
まるで木と同化するかのような密やかな息遣いは、藍染に更なる不安を促す。
「この木も僕そのものなんです。せやから、一度、藍染さんの目に入れておきたくて」
……彼は恐らくこの木に取り憑かれ、精神の均衡を欠いてしまったのだ。
打ち捨てられた場所に似つかわしくない生命力を撒き散らしているこの木が、他の木々のように穏やかな生を歩んでいるとは思えない。
己の生命を維持するために貪欲にすべてを食らいながら、だが自らの行為の無意味さに打ち拉がれ衰える、そんな循環を繰り返しているこの木のどこかの部分に市丸の意識が同調してしまったのだろう。
この木は彼を見初め、彼はこの木を見初めたのだ。
そして、同調してしまったが故に末広がりになってしまった彼らの妄念は、自覚的に無自覚的に、藍染を取り込もうとしているのだ。
妄想に縋らなければならない状況に追い込まれた彼らの某かの痛みと、そんな彼らを恐れつつも、粘る彼らの思いの強さとに絡め取られ、身動きが取れない。
ふと過ぎる一片の思惟。
もしかしたら、自分は本当に彼を。
……まさか。
藍染は市丸に気づかれないよう、拳を握りこんで、掌に爪を立てる。
目の前で、彼ははっきりと存在している。伏せた瞼を震わせ、時折、小鼻を膨らませながら。
そこに疑いを抱いてしまったが最後、自分の世界は粉々に砕けてしまうだけだ。
……しかし藍染の胸奥深くで、何かがじくじくと疼く。
もしかしたら、自分は重要な何かを忘れているのかもしれない。
彼の得体の知れない妄想を育てる種として、地中深くに自分の記憶が眠っているのかもしれない。
徐々に安定性を欠き始める足場を確かめるために、藍染は右の足底で地を叩いてみる。
「僕は殺していない。君のことなど、断じて」
硬い地面は確かさを反響してきたことに勇気づけられて、喉に力を込めたつもりだったが、吐き出した言葉は冷気に震えた。
「……名前を」
無慈悲とも言えるほど淡白な口調で、市丸は小さく呟いた。
「この木に名前をつけてやらな」
「何のために?」
名前など必要など必要ないだろう。今までも、そして、これからも。
日の光が絡む木の枝を見あげながら、藍染は舌打ちを堪える。
この木は、いつまでも一介の木でしかないはずだ。
花粉の代わりに存在の意味を撒き散らし、勝手に憔悴し、衰弱して、いつしか死んでいくようなたわいもない木のはずだ。
市丸の狂いの果てしなさを思いやり、藍染は眩暈を覚える。
いつから、彼は病んでいたのだろう?
普段と何ひとつ変わらぬ様相を表皮に浮かべつつ、静かにひっそりと、だが着々と、彼は病んでいったのだ。
「このままだと報われないやないですか」
市丸は、木に向かって顎をしゃくってみせた。
「藍染さんが思いつかへんのやったら、僕が代わりにつけましょう」
しばしの沈黙のあと、尖った顎を持ち上げ、彼はゆるりと目を閉じた。瞼には、気だるさが翳った。
「絶望」
彼はもったりと薄い唇を動かした。
「僕が狂うたと思わはって、それで楽になるんなら、それもええでしょう。せやけど、僕は正常や。泣きたくなるくらい正常や」
やがて、刻むような笑みを彼は浮かべた。
「さて、狂うたのは、いったいどっちでしょう?」





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