明かり取りのために大きく切り取られた天窓からは、空の様子が窺えた。
層状に重なり合った分厚い雲の隙間からは、幾条もの光が帯のように差し込んでいる。
まるでつい先ほど神の子が生まれ落ちでもしたかのような、仰々しいまでの荘厳さだ。
髪に差し掛かる熱の感触に気づき、歩を止めた藍染は、冴え冴えと厳かな光景を目の当たりにし、思わず息を飲んだ。
視線を巡らさずともこの場には自分しかいないことくらい知れていたが、それでも呆然としてしまった自分の迂闊さに腹を立てた藍染は、頬を歪めて笑みを作ろうとして、果たせず、目を伏せる。
「世界は変わったんだ」
聖性を帯びた光から無防備に目を背けてしまった自分に自信を恢復させるべく呟いた独語だったが、広すぎる廊下内ではどうしても虚ろに響いてしまう。
焦燥はまるでおくびのように喉に詰まり、藍染は急き立てられようにして、もう一度同じ語を繰る。
「世界は変わった」
今度は先ほどよりも力強く、噛み締めるように言ってみたが、生じるのは空しさのみだ。
……確実に世界は変わったはずだった。
ある少女の体内で眠っていた崩玉という名の莫大な力を開放し、世界を変革する。
当初は壮大すぎたきらいがあったその計画は、しかし立てた本人すら驚くほどすくすくと成長し、一度の反抗期を迎えることもなく今日まで来てしまった。
そのお陰で平穏無事に約束の地に辿り着けたはずだが、今になって、藍染は途方に暮れていた。
崩玉を使って破面たちを生み出した後、尸魂界を完膚なきに叩き潰し、新しい世界を形成する。
そう、既に今後辿るべき道筋も決まっているのだ。今更、何ひとつ惑うことはない。
だが、この順調さが藍染を寧ろ不安に陥れる。
……ただの不幸慣れに違いない。
意を決して面を上げ、藍染は祝福の色に満ちた天を見上げる。
物事には必ず作用と反作用があるとか、幸福のあとには不運が必ずやってくるなどといった、古人たちの警句をひくまでもなく、 事柄は何よりも平衡を好むことを、藍染は経験上、よく理解していた。
しかし、天の王となった以上、人間という頚城から脱した藍染は、もはやその格言を恐れる必要などないはずだった。
少なくとも彼は、ともすれば人間の範疇で物事に捉えられがちな藍染に、再三再四、人間の感覚で何かを判断してはならないと暗に警告し続けてきたのだ。
だが、立ち上がったばかりの幼子が一歩を踏み出そうと試みているかのような不安感は、藍染の背後にぴったりと張り付いている。
やがて、再び視線を伏せながら、否が応でも藍染は気づかざるを得なくなる。
藍染に不安感を齎しているのは、彼が祝福の言葉どころか、嬉しそうな顔ひとつ見せに来ようとしないという事実であることに。


虚圏に来てからというもの、彼は滅多に自分の前へ姿を現そうとはしなくなった。
もともと広い場所の上、死神は3人しかいないときているのだから、 意識的に顔を合わせようと思わなければ、偶然行き当たる可能性は僅かと言えた。
だからといって、話し合うことは山のようにあるのだ。彼が一人で放浪していい理由はない。
それとなく注意をしようとは思うのだが、勝手のわからない場所に置かれている今、 彼の行く場所などおいそれと思いつくものでもないし、 虚たちの仮面を外すことが最優先事項である以上、消えた彼の姿を追い求めている時間などない。
「放っておくべきでしょう」
……それとなく藍染が彼の不在を言及すると、東仙はにべもなくそう言い放った。
視線は藍染が握る崩玉から離れようとしない。
1体の虚の体を使い、崩玉の能力を計るための実験を試みようとしている最中だ。
彼の真摯な眼差しも、寧ろ冷たく響いたその言も、当然といえば当然なのだった。
だが、崩玉を虚へと近づけるそんな些細な肉の動きすらも億劫になり、藍染は崩玉を手にした右手をだらりと下げた。
これほどまでに、彼に依存していたのだろうか?
内心を過ぎった自問は不快を煽るばかりなのに、再び腕を持ち上げる気にはどうしてもなれない。
東仙は微かに吐息を漏らした。
「彼はきっと、何か勘違いしているのです」
やがて彼の口から発された言葉は、ひどく優しいものだった。
穏やかに、柔らかに、滑り落ちかけた彼の神を玉座へと舞い戻らせんとする慰撫の響き。
しかし、その慈愛の裏に東仙と自分との距離感が、自分を神と規定したがる東仙のエゴイズムが、透けて見え、藍染の不快を煽るのだった。
「我々は物見遊山でここに来たわけではない。それより、研究を最優先すべきです」
確かに東仙の言うとおりだ。でなければ、ここに来た意味が霧散してしまう。
だが、藍染は不安になるのだ。
彼の不在は、自分への何らかのメッセージなのではないかと。
……彼はいつだって、そういう人間だった。
何ひとつ自発的に意見を述べようとはしない。
彼は常に意味深に目を細め、意味深に笑い、無意味な言葉をばら撒くだけだった。
そのくせ、気が向いたときには、藍染さえ思いもよらぬ藍染の本心を鮮やかに突いてみせる。
そんな彼の性格を少なくとも東仙よりは熟知しているという認識は、藍染に邪推を促す。
彼は何か不満を抱えて、どこかを徘徊して回っているのではないか、と。
本来、そんな慮りなどいの一番に唾棄すべきなのだ。
天を統べる者として存在している今、余計なことに気をとられるなど得策ではない。
だが、一方で不安を掻き立てんとする市丸の行動が、その意図が、気になりすぎて、東仙が言うところの「研究」の手が止まりがちになる。
そうして、まるでその間隙を縫うように、一度捨てたはずの疑念がゆらゆらと煙草の紫煙のように立ち上る。
顔を俯け、このところより一層痩せた感のある体を、ふわふわと殺風景な世界にその身を泳がせている彼の姿を思い描くだけで、 藍染はいても立ってもいられない気持ちになるのだ。
まだ何もないこの世界に身を晒すには、彼の華奢な体は無防備すぎる。
……いや、そんな優しい感情などではない。自分はそんな思いやりのある人間ではない。
浮かんだ想念を、藍染は首を振って霧散させる。
自信がないだけなのだ、単に。
彼の透徹な眼差しは、この世界に住むべき価値があるかどうかを冷静に吟味しているはずで、自分は何よりそれを恐れているのだ。
自分の思い描いた世界ではなかったと、彼が言い捨て、去り行く様を想像するだけで、吐き気を催す。
この壮大な箱庭は、彼のために作り上げたといっても過言ではないのだ。
……そう、すべては彼のためだった。
彼の願いを叶えるべく、今の自分は存在しているのだ。
彼が願ったから、彼が望んだから、彼が欲したから、世界を構築した。
ふらふらと彷徨う彼に対して恐怖を覚えるのは、この作り上げた世界が彼の意向に沿っているのか不安だからだ。
つまらなそうに鼻を鳴らし、薄笑いを浮かべ、彼が踵を返す様を見たくはなかったからだ。
わがままな、それでいて繊細な彼だからこそ、自分は彼の後姿を見送ることしかできないだろう。
彼のか細い精神が耐え得ない世界など、もはや無意味なのだから。
「すまないが、少し席を外す」
藍染は手にしていた崩玉を台にそっと置く。
返す手に痛みを覚え、視線を延ばすと、東仙がしっかりと手首を握り締めていた。
「市丸がどこにいようと、そして何を思おうと、あなたには関係のないことではありませんか」
そう言い募る彼の声色が想像以上の切実さに染まっていることに、藍染は一瞬、たじろいだ。
「要、手を離しなさい」
それでも押し出すようにして拒絶の言葉を吐くと、東仙は顔を引き攣らせた。
「藍染様、間違ってはいけません。市丸がこの場にいないことをあなたは咎めるべきであって、 決して、後を追っていいお立場ではないのです」
「いいから、離せ」
そう怒鳴ると、藍染の手首を掴んでいた手を離した東仙は、形式的に一礼を施しつつも、尚も補足する。
「あなたは支配者なのです。こんな些細なところで動揺していては、今後、目覚める破面たちに示しがつかない。 市丸のことなど放っておくべきです。寧ろ、放っておかなければならないのです。 そして、仮に破面が生まれたあとも彼が自分本位な態度を取り続けるのであれば、あなたはそれなりの裁きを下さねばならないのです」
敬虔な巡礼者のように厳しい表情を、東仙はこちらへと向けている。
胸を突き上げる激しい衝動がそのとき藍染を襲ったが、東仙に踵を返すことで、その欲求を拡散せんとする。
今は何かを言い返す暇すらない。
なにより、彼に会わなければならないのだ。
どうしても、彼に会わなければ。
どうしても、彼と話をしなければ。


彼を求めて無闇やたらに歩き回る時分を、藍染は我ながら惨めだと思った。
まるで魔性の笛の音色に魅了され、ステップを止められない哀れな子供たちのように、 彼の姿を見つけ出すべく、闇雲に足を動かしている自分は。
それでも拭いようのない不安は、今も尚、藍染を貫き続けている。
……東仙の言っていることは、全面に正しいのだろう。
それでも、嵐の中で形を変える雲のように怒涛のような変化を強いられている状況の中、 放浪という形で以前の己を保ち続けんとする市丸が、今の藍染には必要だったのだ。


もしかしたら、という感覚はあった。
尸魂界にいた時分も、よく彷徨っていたのは、その辺りであったから。
……果たして、市丸は、藍染のいた建物の屋根で、ぼんやりと空を仰いでいた。
「ギン」
ほっとして藍染が声をかけると、市丸は曖昧な笑みを浮かべつつ、ゆっくりと藍染の近くまで歩み寄った。
身をかがめて上から藍染の顔を覗き込み、ふと目を細める。
「なんや、えらい心細げな顔してはりますな」
彼の言葉が揶揄なのか、本気で心配しているのか、藍染には判断がつかなかった。
「君がいなかったからだ」
捜し回りすぎて疲れていたせいだと言い訳しながら、彼の耳には単なる軽口として響くような明るい口調で、藍染が本音を披瀝すると、 市丸は一瞬、しかしはっきりと表情を強張らせた。
その表情は示すものは、明白なる拒絶。
なぜだ。
藍染は恐慌状態に陥る。
なぜだ。なぜだ。なぜなのだ。
共犯関係を積み重ねるようにして、ここまで行き着いたはずだ。
彼の行動はすべてわかるはずであり、だからこそ、この広い虚圏の中、こうして彼を見つけられたはずだ。
なのに、なぜ彼は、一瞬とはいえ、顔を強張らせた?
「本当に君にとって、この世界は正しいんだろうか?」
胸中に淀む不安が深さを増した。藍染は寧ろ、現実を否定するために、問いを重ねる。
もはや、体面をかまっている余裕すらもない藍染の言葉は、口の中で何度も縺れたせいで、無様に裏返った。
「何をおっしゃるのかと思えば」
取り繕うように市丸は笑った。
「疲れてはるんやないですか?どうです?少し休んだら」
そんな優しさを市丸が見せることなんてありえない。少なくとも今までは。
だからこそ、藍染は市丸の顔に一瞬だけ射したあの拒絶が、彼の本心であることを受け入れざるを得なくなる。
だが、どうしても認めたくない藍染は更に問う。
「私は本気だ。君とって正しいのか否か?聞かせてくれ、忌憚なき意見を」
市丸は眉を顰めた。
「勘違いしないでください」
やがて、市丸は低い声でそう宣う。
その不穏な響きは、藍染に混乱を齎す。
「僕はもはや、あなたの構成する世界の一部になったんです。あなたに隷属すると決めた瞬間から、 もう、僕は存在しない。あなたがすべてを決定付け、あなたがすべてを掌握しはるんです。僕の意見など聞かないでください」
仕草ですべてを悟らせようとする市丸にしては、よく喋った方だった。彼もまた、自分とは違うものであったにしろ、 何かの感情を持て余し、吐き出す機会を求めていたのだ。
わかりすぎるほどわかった。その発散の欲望だけは。
だが、肝心の彼の言葉の意味が、藍染にはまるで掴めなかった。
「ならば、なぜ、不用意に歩き回ったりするんだ!」
思わず藍染が声を荒げると、市丸は戸惑ったように藍染を見た。
恐らく彼も、今自分が感じたものを、肌に感じている。
柔らかに、放った言葉を押し返すスポンジのような、2人の間に立ち塞がっている壁の存在を。
「僕がどこぞやをほっつき回ることなんか、あなたには慣れっこでしょうに」
やがて、溜息をひとつ漏らし、まるで遥か彼方の人間を見るかのように市丸は目を細めて藍染を見た。
「しかし、今、君は私の一部が自分だと言っただろう!ならば、持ち主の意志を越えた行為をする権利を、 君は持っていないはずだ」
「僕の言うたことは、もののたとえでしょう?そないなことくらい、とうに暗黙の了解やと思うててんけど」
「卑怯だ、君は」
「じゃ、僕はどうしてたら満足なんですか、藍染さん?あなたの傍らで、いつでも馬鹿みたいにへらへら笑うてたらええんですか?」
「そんなことは言っていない」
正体の知れぬ、しかし、禍々しい空気を孕んだ何かが己の背後に密集していく感覚に、藍染は襲われる。
彼の口調は普段と変わらず人を食っているようでいて、何かが普段とは違う。
かつてのディスコミュニケーションすらも、懐かしく思えるほど、今の自分たちは遠く隔たってしまったのか。
「気に入らないのなら、はっきりそう言ってくれ」
「気に入ってへんこともないですよ。清清しいほど殺風景で、居心地がええ」
「嘘だ。ならばなぜ、私を避ける?君は何か言いたいことがあるんだろう?」
「何もあらへん」
「嘘だ!」
荒々しくそう断定すると、市丸は皮肉っぽく唇を吊り上げた。
「そうして、かつて僕を蔑むことで自分のプライドを保っていたあなたが、今度は僕に縋ろうとするわけですか」
「そんなことを思ったことなど一度もない。君が僕を神へと祀り上げたんだ。その責は担うべきだ」
「責」
反芻するその口調が童子のようにあどけなかったせいで、市丸の無表情が幼く見えた。
「なあ、藍染さん?僕、尸魂界での生活が、ここと同じもんだと思うてたらあかんと思うててん」
「…………」
市丸が切り出そうとする話の意味を図りかねた藍染は沈黙する。
「あなたは天に立つと、そう宣言しはったわけでしょう?なら、その言葉に責任を持たなあきません。 あなたは切り放たれたんや。僕みたいな、東仙さんみたいな人間が蠢く世界から。せやから、 僕のことなんかに心を動かされてはあかんのやし、こんな弱音みたいなこと、僕に言うてはあかんのです」
噛んで含めるような市丸の物言いが、しかし藍染はまったく理解できなかった。
「ギン、君は僕に失望したのか?」
思わずそう尋ねると、市丸の表情が一瞬だけ翳る。
「僕を尺度にするんは、やめてください」
「世界の変革を望んだのは君のためだ」
「それでも、決心したんは藍染さん、あなたや。そして、その決心を持続させるために、 僕を犯したのも、あなたや。そうして手に入れたあなたの世界が今、目の前にあるんや」
「君は僕を恨んでいるのか?」
「そんな話はしてへん。僕があなたを恨もうと恨むまいと、あなたの世界は現前にそこにある、いう話をしてるんです」
「…………」
「あなたは支配者で、あなたはこの世界を理想どおりに構築する必要がある。 そして、僕は支配者やない。その差異が、その隔たりが、どれだけ大きいものか、あなたは自覚せなあかん」
敬虔な巡礼者のように厳しい表情を、市丸はこちらへと向けている。
揃いも揃ってなぜ、似たような表情でこの自分を見るのだ?
膨れ上がる苛立ちを反射的に噛み殺し、藍染は顔を背ける。
わかっている。わかっているのだ。
ともすれば、市丸に縋かんと蠢く内心の動きくらい。
それが、自分が成した行為の重さ故であることくらい。
だが、それの何が悪い?
誰からも手を差し伸べられないような岸壁に追い詰められたわけでもあるまいに、彼らはなぜ、 共感を拒もうとするのか?
「そうだな。すまなかった」
藍染はそう呟き、踵を返す。
どんなに高尚な理由を掲げようとも、結局のところ、彼らにとってこの自分は、己が望む世界を再構成するために、それだけのために、 祀り上げた、仮初の神に過ぎないのだ。
いつかもっと神に相応しい人物が誕生したら肥料になるだけの僭称者でも、彼らがその役割を自分に期待しているのであれば、望みどおりの神を演じる以外ないのだ。
……背に視線の痛みを感じたような気がしたが、恐らくそれは己の願望が成せるわざに違いない。
背後の彼が自分以上の痛みを覚えているはずなどないのだ。
市丸から遠ざかるべく黙々と足を動かしながら藍染は、それでもまだ逃亡の手段を持っている自分を幸福だと思おうとした。





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