愛している、と彼は言った。
これでもう、何度目になるだろう。
愛の言葉を一心不乱に喚き立てる彼は恐らく、繰り返す度に意味が徐々に解体され、粉々になっていくことに気づいていない。
市丸はもはや応える気にもなれず、ただ無感動に視線を逸らす。
そもそも、彼自身、市丸を愛したことなど一度もないくせに、よくもまあ、いけしゃあしゃあと愛なんてうそ寒い言葉を持ち出せるものだ。
……最初は些細な言い争いだった。
本当にちょっとした、取るに足らない行き違い。
だが、絶好の機会とばかりに、彼が例のごとく追い詰められた己の哀れさを声高に喧伝し始め、いい加減聞き飽きた市丸がそれとなく彼の訴えを聞き流しているうちに、口論は横に逸れだしたのだ。
「責任はとるつもりでいますよ」
体内に残っているだけの優しさをかき集め、市丸は言う。
「せやから、そんな陳腐な言葉でごまかすんはやめてください」
自分なりの誠意を総動員したつもりだったが、彼は寧ろ打ちひしがれたように肩を落とした。
「どうしてわかってくれないんだ?君を愛してるんだ!」
彼の叫びは悲痛だったが、あまりに悲痛すぎて、市丸は思わずふきだしそうになる。
もはや、笑うしかないとはこのことだ。
飢えに喘ぐある少年と出会った彼が義憤に燃えて立ち上がったとき、少年と彼の間には温かい感情の結びつきは確かにあった。
だが、衝動の維持を求め、彼が暴力的にかつて少年であった青年を組み敷いた瞬間から、その柔らかい共感は終わりを告げたはずだ。
その後、憎しみと痛みとを応酬し合うことで目的を純化してきた自分たちの間に、今更愛などねじ込まれても、市丸にとっては笑止でしかない。
不信こそが、自分たちを結び付けてきたはずだ。
わざと寝首をかかれない行為を互いに行い合って、情とか信頼から程遠い場所に身を置くことで、 互いが互いの目的を達成するための道具へと仕立て上げたのではなかったか。
なのに、今までの努力を無にするように、なぜ、愛などという耳障りのいい、その実、安っぽいフレーズを持ち出そうとするのだろう?
「安心してください。僕はあなたを見捨てるつもりはないですから」
本来なら、愛していると返して安心させるべきなのかもしれないと、市丸はちらりと思う。
健全な視点で我々の関係を眺めることを望んでいる健全な彼が、不健全この上ない現状と折り合いをつけるために、 苦肉の策として選んだ手段が、愛という響きのよい思考停止にはもってこいの魔法の言葉を用いることならば、そうとわかりながら乗ってやるのが、場を収めるにあたって恐らく一番いい方法なのだろう。
だが、市丸はどうしても、その言葉を口にすることができない。
愛という一見甘美な響きに酔いしれて自分がどうしようもなく孤独であるという事実から目を背けようとする彼が、そのために利用される自分が、市丸には哀れでならなかったのだ。
王の椅子に座すことは代償なしに済むわけがないことくらい承知してしかるべきだろうに、 今更になって孤絶を嘆いたところでもう後戻りはできないことくらい理解してしかるべきだろうに、 なぜ、今になってまだ足掻こうとするのだろう?
「見捨てるとか見捨てないとか、そんなことはどうでもいい」
彼は喘ぐ。胸を膨らませては萎めるその様は、飼いならされた野生の鳩のようにみずぼらしい。
「今の僕にとって重要なのは、君が僕を愛しているのかいないのか、それだけだ」
「そうやって自分を価値付けようとするわけですか?僕に愛されれば、神に相応しい人格になれると?馬鹿馬鹿しい」
「君は卑怯だ」
求めるものを与えられず、飢え餓えた彼は、闇雲に息を荒げる。
「僕のことを愛してもいないくせに、僕の修羅の道へと歩ませんとしている」
「僕を愛してもいないくせに、愛してると嘘をつく藍染さんかて同じでしょうに」
「君は僕を利用したいだけだ。自分が苦しむことなく、自分の望む世界を構築したいだけなんだ」
「藍染さんこそ、僕を利用して、高みへと舞い上がりたいだけやろ?」
決して噛み合うことのない会話は、しかし市丸を安心させる。
このディスコミュニケーションこそが、我々を我々たらしめてきたのだ。
蜘蛛がその身から糸を出して獲物を絡め取るように、互いに憎しみの糸を吐き合って、互いの身を縛りあってきたのだ。
それなのに、まるで袋から飴を掴み出すように愛などという概念を思い出したように持ち出し、この関係性を別の何かに変換しようなんて、虫のいい話だ。
そんな甘い結びつきなど唾棄すべきだ。
そう、愛なんて綿菓子のようにふわふわとして、空気という名の付け入る隙をたっぷり孕んだ見掛け倒しのものでしかない。
もっと激しく強固な紐帯でなければ、意味がない。意味などないのだ。
そのとき、彼の顔を覆ったのは、確かに絶望の色だった。
未だ絶望できるというのか。市丸は些か驚いた。
絶望するということは、今、この瞬間まで、希望を持っていたということだ。
ついさっきの問答で彼の希望はすべて打ち砕かれたはずだと思った。少なくとも市丸はそのつもりで、なるべく残酷に響く言を舌先に乗せたつもりだった。
それでも彼はあっという間に希望を引きずり出し、それに縋らんとしていたのだ。
一体、あの会話のどこに、希望が生まれる余地があったのだろうか。
市丸は先ほどの会話を反芻し、やがて内心で首を振る。駄目だ、自分にはまるでわからない。
「僕は、君が望む王になりたいと切実に願っている。それが愛ではないと君は言うのか」
「それは僕らの目的やないですか。愛とは言わへんでしょう」
彼は嘆息し、掌で額を押さえる。その様はやはり、市丸には絶望しているように見えた。
どれだけ摘んでも生えてくる彼の中の希望が、市丸には不可思議でしかない。
そして彼が縋るような視線を向け、愛とか希望とか、そんな抽象的で曖昧模糊としたものを引きずり出してくる場所が、 この自分であるという事実が市丸を更なる疑問へ押しやる。
右の手を持ち上げ、市丸はまじまじと二の腕を眺めてみたが、もちろんその肌は普段と何も変わらずひたすら沈黙している。
この虚ろな肉体の中に、この虚ろな精神の中に、所有者すらも期待に値しない我が身のどこかに、しかし彼の希望が未だ眠っているのか。
眺めていた腕をそろそろと唇に近づけ、市丸は肌にそっと歯を立ててみる。
強く噛み締めると痺れるような痛みとともに、ぷつりと何かが切れる感覚が神経を伝わり、どっと鉄臭い液体が口腔内になだれ込んでくる。
ふと視線を上げると、彼は驚愕の色をその目に宿していた。
「そうやって君は僕を脅すんだ!」
叫号が彼の声帯から迸る。
流れ込む血を舌で受け止めながら、市丸は彼の発した言葉の意味を考える。
しかし、今しがた行った自分の肌を噛み破るという行為が、彼にとって脅しとイコールで結ばれるということを市丸は理解できなかった。
自分はただ、彼の期待の元を探り、根絶したかっただけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「わかったよ。わかった。君の気持ちはよく」
やがて、彼は目を伏せ、重い息を吐いた。
「君はその身を犠牲にしてでも、僕を追い詰めようというのであれば、僕はその願いに応えなければならない。それで満足かい?」
「願い?」
二の腕から唇を離し、市丸は再び、それを眺める。
噛み破った箇所からは血が流れている。だが、それだけだ。ここのどこに、自分の願いが宿っているのだろう?
ここのどこに、彼が願いと表現したものが顕現しているのだろう?
「なぜ、そんな不思議そうな顔をするんだ?すべて、君の計画どおりだ。何もかも!この流れに君の願望がなかったなんて言わせないよ、ギン。 そして、僕は君に殉じて、孤独の椅子に座る。君の傀儡として、世界を統治する」
「僕が望んだわけやあらへん。それは藍染さん、あなたの願望でしょう」
「じゃあ、その血は何のために流されたんだ!」
「別に意味なんてあらへん」
「そうやってごまかして、すべてを思い通りにするんだ」
まるで食傷して吐き気を催したかのように、彼は顔を伏せて嗤う。
やがて顔を上げた彼の口の端には吐瀉物の代わりに、気取った科白がべったりと張り付いていた。
「まあいい。なんせ、僕は君を愛しているんだからね。君の思い通りの世界を構築しよう。君のために」
だが、愛という全能な言葉に目を眩ませられ、目的が堕落することを市丸は望んでいなかった。
一個人の願望という形で収束される目的なら、それは単なる我儘だ。
何のために自分たちはいがみあい、傷つけあい、罵りあってきたのだ。
我々はそうやって、革命を革命たらしめようとしてきたはずではなかったのか。
なぜ、我々のこれまでを彼は否定しようとするのだ。
それでは、今までのことはすべて無意味に。
「くだらない」
閃きかけた想像を否定するために、市丸はそう吐き捨てる。
その瞬間、まるで嚥下に難儀するほどの硬く大きな異物を喉元に押し込まれでもしたように、一度だけ彼の喉仏が大きく震えた。
実際、彼は飲み込んだのだろう。彼にとっては劇物に等しい言葉を。
……つまらぬ自分本位な感覚すらももしも愛という言葉に簡単に変換できてしまうのであれば、すべてが終わったそのあとにいくらでも口にしてやる。
だが、今はその時期ではない。少なくとも今は。
代わりに市丸は彼の耳殻を掴み、引き寄せた。
近づいたその唇に、己の唇を重ねる。
ただの行動でしかないにしろ、言葉を重ねるよりはまだ、なし崩しにこの場を収束できる。
寧ろ感情を孕まずとも、何かの意思表示と錯覚させられる分、行為は有効だろう。
……彼が重ねたであろう欺瞞の反動をも、すべて担う覚悟はあるのだ。だがそれも、今はその時期ではない。
既に限界を越えているであろう体内に蓄積する汚物の吐逆に、彼には堪えてもらわなければならなかった。
何も感じないことに対する罪悪感から、市丸は舌を絡め、大きく息を吸い込んだ。
せめて、今、彼の喉で蟠っている苦悩くらいは、飲み下そうと思ったのだ。









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