ノックもなしで扉を開けたのは、滅多に崩れることはない彼の表情を崩してやりたいがためだった。 自分ばかりは彼岸に身を置いているような彼の冷静さは、時折、無性に気に障るのだ。 そんなときは、幼子の無邪気な行為レベルの悪戯を仕掛け、 むしゃくしゃする気持ちを収めようとする。それが、彼に対する市丸の行動パターンだった。 果たして、振り返った彼は、不快げに眉間に皺を寄せていた。 「何の用件にしろ、ノックはすべきじゃないのか、市丸」 「ようわかったな、僕やて」 彼の厭味を適当に受け流し、市丸は彼の部屋に無遠慮な視線を向けた。 それは元々、彼の不快感を煽るための行為でしかなかったのだが、私室にしてはあまりにも整然しすぎた室内の様子は、 寧ろ、市丸をうんざりさせた。 更に市丸を不愉快にさせたのは、この完璧な部屋の居住者がどうやらつい先刻まで、熱心に剣技を鍛えていたらしいことに気づいたからだった。 さすがに斬魄刀こそ手にしていなかったものの、木刀を手に額に汗している彼の姿はいかにも彼らしく、 市丸の気持ちを否応なしに負へと傾けた。 例えばこれが、自慰行為の真っ只中であれば、もう少し彼を愛せるのだが。 「こんな失礼な入室の仕方をするのは、君くらいのものだろう」 「そら、そうや」 彼の咎めに応じながら、市丸がわざと大きな音を立てて扉を閉めると、東仙の眉間に寄った皺は、より一層深さを増した。 叛乱前も叛乱後も、彼と会うときは、大概、藍染を含めた3人であったのは、恐らく偶然ではあるまい。 少なくとも市丸は、東仙と話があるときは適当な理由をでっちあげて藍染を巻き込もうとしたし、 また東仙が、市丸程妙な画策を行わないまでも、態度の端々で市丸との2人だけの対話を 回避せんとしていたことに、何となく気づいていた。 つまり、圧倒的に、絶対的に、徹底的に、自分たちは相容れないであろうことを、何より互いがよくわかっていたのだ。 「パパが僕らに息子を自慢したいんやて」 生活感のなさすぎる彼の部屋を乱すべく、どさりとベッドに腰掛け、枕をこねくり回しながら、市丸が言うと、 「パパ?」 まったく諧謔を解さない東仙は、額の汗を丁寧に布切れで拭い取りながら、不思議そうに聞き返した。 「藍染さんのことに決まっとるやないの」 「……失礼にも程がある」 できるだけシーツに皺を寄せるべく、市丸が無意味に身じろぎしながら答えると、東仙は吐き捨てるようにそう言った。 「君が個人的に藍染さんと親しくしていることに関しては、勝手にしろとしか言えない。 だが今回、君が携えてきたお達しは、公的なものだろう?ならば、破面が生まれたから藍染様がお呼びだ、とでも言うべきだ」 いかにも彼らしい回りくどい言い回しだ。市丸は口角を吊り上げる。 「親しい?何、その気取った言い方?はっきり言うたらええやないの、セックスの相手って」 「……藍染様を侮辱する気はない」 東仙の言葉は苦しげだった。 ありとあらゆる欲望から解き放たれた存在として、藍染を妄信したい彼にとっては、 日々、藍染の閨に通う市丸こそ、邪魔な存在だろう。 市丸からすれば、寧ろ求めるのは彼であると言い訳したいところだったが、東仙の清廉さに反骨心めいた気概が働き、 口にすることを意図的にやめた。 「混ざりたいんなら、僕としてはかまへんけど。藍染さんにも伝えておこうか?」 「話を飛躍させないでくれ。勝手にしろと、先刻言ったはずだ」 「そもそも僕かて、藍染さんを侮辱なんかしてへん。事実を言うただけや。要は東仙さんが僕の言い方を気に入っていぃひんだけの話やろ」 東仙は溜息を漏らし、首を振った。 「前々から思っていたが、君は公私の混同が甚だしいように思う。今や、藍染様は、 神を体現される方であらせられるのだから、もう少し、言動に気を配った方がいい。 今はまだいいが、破面が理解力を獲得したとき、彼らの前で同じような言動をすれば、 それは藍染様の立場の揺らぎに繋がる」 彼の言はまったくもって正しい。言い訳などひとつも思いつかない。 だが、それ故に、市丸の心は不快にさざめく。 「そないに堅苦しいこと、よう好かん」 「君の好悪に関して議論しているわけではない」 きっぱりと、東仙は市丸の反論を切り捨てる。 ……吐き気がする。 確かに彼の言葉は正論だ。市丸は二の言を繋げない。 しかし、それが正論過ぎるが故に、市丸は彼に反発したくなるのだった。 彼のようにすべてを整然と処理することができることが叶うのであれば、藍染が毎晩のように自室へ市丸を誘うこともあるまい。 熾火のようなちっぽけな衝動に、時には不安や苦痛をも投げ込んで、せっせと炎にせんと尽力する藍染の姿を、 例え私的な場所でであれ見てしまったが故に市丸は、藍染を誰にも行き着けない高みへと追い詰めることに躊躇してしまうのだった。 なんでもない顔で神を自認することの懊悩が、どれほどのものか、彼は知っているのか? 自らを神の器ではないと知りながら、 それでも神を僭称することが、どれほどの決意と諦めが必要か、彼は知っているのか? これから増えるであろう破面たちに示しが付かないという彼の言い分はもちろん正しいのだろうが、 結果、神的な不遜さと人間的な脆弱さを同時に抱え込み、キメラ化した藍染の内心は、どう折り合いをつければいいのだろう? 神と自らを称した人間にとって、それは負うべき贖いかもしれない。 だが、市丸はどうしても、それができない。 押し潰され、いいように扱われる痛みを知っている以上、そして、元々それを唾棄せんため藍染が叛乱を意図した以上、黙って見過ごすことなどできないのだ。 「なあ、要」 市丸がわざとらしく彼の名前を呼ぶと、彼は再び、不快そうに眉間に皺を刻む。 「自分、藍染さんの何を知ってるんねや?」 「君こそ」 市丸は笑い、大きく息を吸い込むと、息を吐く代わりに決定的な言葉を吐き出した。 「僕は人間的な、あまりに人間的な姿を」 「私は完璧なる正義を実現する支配者の姿を」 東仙もまた、市丸の言葉の響きを倣うようにして、かつ幾分優越的にそう返答した。 同じ存在を通じて共謀した以上、相容れる点があってもいいはずなのに、自分たちはなんと隔たっていることだろう。 その絶望的な断絶は、思わず市丸に天を仰がせる。 ……だが、恐らく、この差異こそが、彼ではなく自分を、いつか破滅へと導くことだろう。 次いでふと冷めた感慨が、市丸の裡で点滅した。 神という重みを背に乗せた藍染がどんなに煩悶しようと、世界の支配者として君臨するためには、今後生まれ落ちるであろう破面たちに指針に与えるためには、 東仙のような思考回路こそ、今の藍染には最も必要なのだった。 本人が望もうと望むまいと、藍染に今不足しているものが神としての威厳である以上、市丸は人間としての彼の側面には積極的に目を瞑るべきなのだった。 だが、ずっと傍らで藍染を見続けた市丸は知っている。 元々カリスマとなるには優しすぎる気質であった彼が、反作用である孤独と重責に悶えながらも、それを彼の元来の性質である責任感の強さと痛みに対する耐久力の強さでどうにか必死にカバーせんとしてきたことを。 だからこそ、彼の苦悩を流せない。見逃せない。 ……我ながら、大した言い訳だ。 だが、一見高尚な己の理屈の裡に潜む矛盾に、市丸はおかしさを禁じえない。 もともと、彼の座す椅子を高い位置へと据えるため、さまざまな画策に頭を巡らせてきたのは、当の市丸本人のはずだ。 それなのに、重要な局面を迎えた今になって、たたらを踏んでいる。 結局のところ、今の自分を縛っているのは、藍染と遠く隔たってしまうことに対する恐れのみではないのか? 藍染を失うというその恐怖に基づいて、東仙の忠告に不快を覚えているにすぎないのではないのか? しかし、徹底的に王であらんする藍染を真摯に信ずるだけの意志の強さを持ちえず、彼の痛みにこそ同調してしまったが故の末路であろうとも、 彼を奪い去られる運命を嘆くだけで、自分の弱さを踏み躙れなかったが故の惨状であろうとも、もはや今やどうでもいいことではあるのだ。 決定的なときによろめいてしまった時点で、市丸が神の従者を名乗る資格を失ったのだという事実が、目の前に粛然と屹立しているかぎり。 ……市丸の頭の中で鐘が鳴り響く。 市丸にとっては警鐘でしかない耳障りなその音のテンポに合わせるようにして、口々に似たような賛美の言葉を口にしながら、豪奢な椅子に腰を落ち着けた藍染の元に、我先にと押し合いへしあいしながら整列する破面たちの姿が、先陣を切って跪く目の前の彼の姿が、 市丸の脳裏にまざまざと浮かぶ。 崇め、奉る。 そんな神と下僕の世界は、著名な画家が描いた絵のように完成された世界となることだろう。 この場合、そこに無駄な筆を揮わんとする市丸こそが、間違っているのだ。 純粋に藍染を信じる東仙と、自分たちを作り出した者というその一点において予め藍染に対する信仰心を植えつけられている無邪気な破面の手によって回転する閉じた世界が成立したかくなるうえは、市丸のごとき存在など、あっさり排斥されてしまうに相違ない。 「いつか、こんな日が来ると思うててんけど」 独りごちた市丸に対し、東仙は訝りの表情を向けた。 「実際、現実化してしもうたら、想像以上にきついもんやな」 「一体君は何の話をしているんだ?」 「別に」 市丸は視線を塵ひとつない床へと落とし、僅かながら笑うことに成功する。 よかった。その瞬間、安堵が滲む。 こうした決定的な瞬間に笑みを浮かべたいがために、そのためだけに、これまで無意味に笑みを作り続けてきたのだ。 笑みを用意しておくことで運命を阻む努力を予め放棄している自分は、そもそも最初から藍染の腹心として失格なのかもしれないが。 しかし、それでも。 市丸は溜息の代わりにそう思う。 革命という化け物が目覚めた今、矮小な己が持ちえる盾などこれ以外あるまい。 やがては消え去る脆弱な防具でも、少なくともしばらくは何かを庇える。 ……今、この世を覆う一切の常識を転覆させるためには、まず、がつがつとすべてを貪り食らわんとする悪食な革命氏を満足させなければならず、 彼を目覚めさせてしまった以上、その責任を負うのは目覚めさせた者の義務だ。 彼が市丸を食らいたいと望むなら、贄としての役目を謹んでお受けしよう。 この化け物が動き続けるために必要な栄養分になるくらい、何でもない。 寧ろ、そのために自分はここに来たといっても過言ではないのだから。 だが、今は、できるかぎり、持ちこたえていたいと今は思う。 せめて、高く舞い上がろうとする足を引く弱さという名の餓鬼を蹴り落とせるだけの力を藍染が獲得するまで、藍染の横で添い寝していたいのだ。 「ところで東仙さん、僕、興奮しすぎたせいか、ベッドがぐちゃぐちゃにしてもうたんやけど」 せめてもの嫌がらせのつもりで市丸が肩を竦めると、東仙は顔をしかめ、返事の代わりに溜息を漏らした。 |