しゃぼん玉のように、口の中で膨らみ、放たれ、漂い、壊れる呻きを、市丸は冷静に見ている。 自分で作り出したものなのに、自分の声という感じがまるでしないその響きは、わざとらしく、嘘っぽい。 体内に穿たれた熱の分だけ吐息を虚空へ逃がすと、吐いた息の分だけ、侵食者は容赦なく市丸に食い込む。 このまま、わけがわからなくなるまで、灼き尽くしてほしい。 市丸は目を閉じ、瞼の裏側に広がるはずの灼熱の世界を待つ。 だからといって、溶け合うことなど皆無なのだ。 しかし、熱の塊にすべてを集中しようとした市丸を掻き乱すように、ふと負の念が脳裏のどこかで点滅する。 市丸は頭を振り、芽生えた冷静さの侵食を防ごうとしたが、 一度、冒されてしまった箇所は、まるで嘘つきの手を噛んだ後の真実の口のように固く強張り、沈黙する。 結局のところ、背後の彼が生み出す律動によって騙そうとした本心を、直視しただけに過ぎないのだ。 そんな冷めた総括が、次いで額で閃いた途端、市丸は、僅かばかりの可能性に賭け、腰を振る自分を空々しく思い始める。 体の一部を繋ぎ合わせたところで、彼と自分の境界線が失われることなどあろうはずもない。 こんないたちごっこを、いつまで続けるつもりなのか。 軌道に乗り始めていた動きが、思いに同調して、緩やかになる。 それでも、背後の彼は欲情に突き動かされていることが、市丸の気をより一層萎えさせる。 内心で市丸は彼に詫び、目を閉じて、なるべく彼の欲望の動きに沿うように、体の力を抜いた。 障子の隙間から射し込む一条の光が、脇腹を擽る。 その熱さによって目を覚ました市丸は、身を起こし、辺りを見回した。 だが、何度繰り返したところで、昨日や一昨日となんら変わらない風景が広がっているばかりだ。 当然だ。 市丸は溜息を零し、少しの可能性に縋ろうとした自分を恥じながら、舌を打つ。 処女でもあるまいし、たかが性交にいったい何を期待しているのだ。 より救われる方向へと自分の思考を流そうとした市丸は、しかし、それが本心でないことを知っている。 冷静さを鍛えるのではなかった。 まるで天に召される魂のように、光に向かって舞い上がらんとする埃たちを、市丸は嫉視する。 そうすれば、光に導かれ狂喜乱舞する彼女と同じくらい盲目に、彼との行為に没頭し得ただろうに。 受けた痛みを客観視することで、人生に折り合いをつけてきた。 そうしなければ、流魂街での厳しい生活を、飢えに愛され続けたその生活を、正気のまま歩むことはできなかっただろう。 だが、消去法の末、それしか選びようがなかったのだと大声で叫んだところで、どうにかなるわけでもない。 この処世術を得て以来、苦悩から切り離された日々を送っていたのは事実であり、また、世間の人々に自分の無実を訴えて回ったところで、何かが変わる種類のものではないのだから。 だから、今まで黙殺してきた嘆きが、今になって己に復讐せんとするのは、仕方のないことなのだ。 市丸は、そう考え、一切を割り切ろうとする。 物事に作用と反作用がある以上、いつか押し潰された嘆きが復讐を果たさんと企むことは自明の理なのだ。 その結果が、欲望の彼岸に到達できず、朝の光を浴びて、無様な有様を露呈する肉体と、 それを見つめながらも途方に暮れる感情を持て余すことであれば、甘んじて受け入れるより他ない。 そう、それ以外の方法はないはずであり、今までは、諦めることができたはずなのだ。 こんなのは違う。 だが、喉元は叫号の予感でわななき出す。それを堪えたのは、専ら、傍らで睡魔と戯れる彼のためだった。 渾身の力で声帯に蟠った衝動をねじ伏せた市丸は、代わりに深い溜息を漏らす。 今になって、こんな形で復讐されるのであれば、もっと早く、もっと下らないところで、復讐してほしかった。 寧ろ、この体ごと、彼の熱ですべて融解してしまえば、またとない復讐だろうに。 そう、快楽の彼方へ達したその瞬間に、そのまま肉体を消滅してしまえばいいのだ。 なのに、なぜ、未だわが身は、純然とここにあり続ける? ……不意に、衣擦れの音がし、市丸が振り返ると、彼は上半身を起こしたところだった。 「おはよう」 まだ体の半分を眠りの世界に置いた彼の顔は、僅かに浮腫んでいる。 「おはようございます。よう寝てはりましたな」 内心の葛藤を弄びすぎたことに気づいた市丸は、散り散りに飛び散っていた日常の断片をかき集め、顔に装着する。 だが、市丸の表情を窺った彼は、変な顔をした。 「君は……」 しかし、彼は途中で言葉を切ると、障子の隙間から漏れる光へと視線を転じ、眩しそうに目を細めた。 「久しぶりに晴れたみたいだね」 「そのようで」 彼の途切れた言葉の続きを渇望しながらも、市丸はにっこりと笑って、何も感じていないふりをした。 彼に問い返す資格など、自分にあろうはずもない。 この自分のことなど、彼にとっては些細な問題でなければならないのだから。 そう、神になるということは、そういうことだ。 一個人にかかずらわって、悩み惑っていてはならないのだ。 そんなことはわかっている。わかっている。わかりすぎるほど、わかっている。 それでも、どうしても捻じ伏せられない思いがある。 どうしたのかい?そんな言葉で、自分の内心へと踏み込んでほしいというひ弱な感情が、市丸の胸中でまるで蛇のようにうねる。 そのぬるぬるとした皮膚の感触が不快で、思わず市丸は胸元を押さえる。 衝動は、ひたすら市丸へ、市丸の口を通じて彼へ、伝えんとうねうねと這い回る。 本当は、彼と同じタイミングで、彼が見た世界を垣間見たいのだ、と。 どんなに下らない世界であろうとも、そう願うことがどんなにさもしく図々しいことであろうとも、せめて一瞬だけでも彼と同じ世界を共有したいのだ、と。 ……だが、言語化したところで、それが実現することはあるまい。いや、実現してはならないことなのだ。 彼のように本来は穏やかな性質の持ち主たる存在が暴力的な革命の施行者となるためには、 まず、孤高の王者となる必要がある。 そう信じて、彼を聖なる域へと押し上げようと苦心してきた市丸のこれまでと、 人間的な要素を排除し、世界の王たる人物として、ふさわしい存在にならんともがいてきた藍染のこれまでは、 市丸の体内で生まれてしまった蛇の願望が実現した途端、一切、灰燼へと帰してしまう。 神とその下僕が同じ世界を共有することなど、あってはならないことなのだ。 少なくとも、市丸と彼の間には、そんな絶対的定義を敷かなければ、体内に潜む脆弱さが、計画へとひた走る市丸と彼の足を萎えさせるだろうから。 すでに、努力は実を結びつつある。 彼の眼差しはかつて浮かべていた苦悩の色より、冷徹な色をにじませられるようになった。 立ち振る舞いにも、峻烈な威厳が加味されるようになった。 だが、彼が着々と王者に相応しい佇まいを獲得していくことを喜ばしく思う一方、 市丸はここへきて、それを阻みたくなっているのだった。 ……我々の先に待ち受けているものが断絶でしかないのなら、いっそこのままでありたい。 しかし、もし仮に、この目論見一切を断念さえすれば、彼とより深い関係になれるに違いないなどという甘酸っぱい夢を抱けるほど、市丸は楽観主義者ではなかった。 彼と自分を結び付けているものは、共通の目的である以上、それを放擲したところで、彼の関係のみが継続されるとは考えにくい。 そもそも、願いが叶わなかった徒労感を抱え、彼といったい何の話をしようというのか? 恐らく、自分たちは会うことを回避するようになるだろう。 そして、いつしかただの同僚となる。 そうなれば、こんな煩悶も、数十年後には格好の酒の肴となるのかもしれない。 新年会などで偶然隣になった折に、照れ笑いを交し合うのだ。 あの頃はどうかしていたね、などと柔らかい言葉を紡ぎ合って。 その生温い未来の想像は、市丸を総毛立たせる。 「お客さん、また指名をお願いしますね」 ……できるだけ軽い口調で、できるだけ明るい笑みで、まるでたわいもない冗談を口にする無邪気な部下の顔を市丸は作る。 どうにもならない二重拘束と、こんな形で折り合いをつけようとする自分は最低だ。 自分を貶めて、それによって、神にならんとしている彼を貶める。 彼が昨夜の市丸の状況を少しでも感じ取っていれば、単なる厭味にしかならない言葉。 男であるが故に市丸の欲望の充実具合が傍目にもわかりやすい形をとってしまう以上、 市丸の有様がどうなっているかすら関係ないと彼が思っていなければ成立しないその軽口。 そして、それは同時に、彼が他者を容易く踏み躙れるか否かということを試してもいる。 もしも彼が神の域まで達していれば、市丸の欲望がどうなろうとまったく気にせず、ひたすら己の欲望を叶えるためだけに腰を振っていたに違いなく、 市丸の状態をまるで気にしていない以上、つまらぬ冗談として受け流すことだろう。 だが、少しでも昨晩の市丸の状況に気づいていれば、市丸の繰った笑えない冗談に表情を硬化させることだろう。 彼にとっては、どちらに転んでも不快にしかならないこの発言をあえて口にした自分が、ひどく矮小な存在に思えた。 彼を自分と同じ袋小路に追い込んだところで、何にもなりはしないのに。 彼を傷つけてでも、寂しさに気づいてほしかったのか。 彼を傷つけてでも、試してみたかったのか。 いや、違う。 あり得ない可能性にさえ縋りかねない弱い心を切り捨てるためだ。 言い訳めいた文句を頭の中で反芻しながら、市丸はともすれば強張りそうになる笑みを維持するべく、気を張り続けた。 彼は目を眇め、市丸を見る。何かを探るようなその眼差しは、市丸の肌を粟立たせる。 「……娼婦の真似事?」 やがて、彼は微笑んだ。鷹揚に。曖昧に。 「相応しくないな」 実に正しい表情の選択だ。 冷めた感慨が市丸の脳裏を過ぎる。 春の空のような漠とした表情を体得してしまえば、そして、いざというときそれを浮かべてしまえば、 彼を称える者たちは、少なくとも失望することはないだろう。 奔出する意志を堪え、穏やかに笑み続けることこそ、神への第一歩なのだから。 着々と彼は神の道を歩んでいる。まったく、ご立派なことだ。 だからといって、この自分に対しても、彼はそんな表情を浮かべてしまえるのか? まるでその他大勢を形成する一人に対するように。 彼の内心を察せられないことに安堵を覚えながらも、内心に広がる寂寞は大きかった。 特別な存在として目をかけてもらうことは叶わずとも、せめて内心で膿み広がる痛みを軽減するくらいには、目をかけてほしいのだ。 「それは、僕にとって?それとも、藍染さんにとって?」 演技的に首を傾げると、藍染は再び笑って、何も応えなかった。 ……だが、その願望もまた、決して叶うことはあるまい。 それでも、今日も、明日も、彼の体のどこかに宿っているはずの感情の一端を求めて、肉体を繋ぎ合わせることだろう。 肉体を重ねていくたびに、言葉は石化し、重さを増していくだろう。 孤独は研ぎ澄まされて、凶器となり、心を傷つけていくだろう。 だが、せめて彼の肉体だけは、手放したくはない。 そのための罰なら、謹んでお受けしよう。 市丸は再びにっこり笑って、彼の首筋に両腕を絡めた。 |