まさにお誂え向きの舞台設定だった。 広々とした道路は、それほど朝早いわけでもないのに、どういうわけか人影はまるでなく、 道路の両端には白い漆喰で塗り固めた壁を持つ家々が、延々と続いている。 天頂目指して昇り始めた太陽は、光を照射することで、その壁らが元来持っている白さ以上の白さを引きずり出さんとしている。 だからこそ、その道を歩むことをしばし躊躇った市丸は、誰の視線もないことを既に承知しながらも、その躊躇を取り繕うように辺りを見回した。 壁の上で連なる瓦は、光が差し込む度に反照し、雲が覆う度に鈍磨し、 さながら飛翔する前に体を休めている竜の鱗のようだった。 見れば見るほど、誂えられた感が募る一方のこの風景に、思わず、市丸は唇を吊り上げる。 ここを、この道を歩くことで、暴かれる。 今さっき、誰ともしれぬ死神を殺したこの自分の罪が。 それは職務だと、職務であったと、大声でわめいたところで、内心で何かが徐々に沈殿し、積み重なり、 今にも、自分が自分ではない何者かに変貌してしまいそうな気がした。 そして、その変貌を想像することは、ひどく恐ろしい。 この長い躓きのきっかけとなった最初の要因、それは彼を殺めるべく歩んでいた道すがらだった。 宵闇に沈む世界を切り裂くように伸びる道を大股で歩きながら、ほとんど口付けでもするかのように顔を近づけて殺すべき男の顔写真を検めたとき、市丸は理由なく不快な気分に陥ったのだった。 ……いや、不快という言葉は適切ではない。それは、後から付け足した感想でしかない。 あの瞬間、市丸の内心を雷が閃くように駆け抜けたのは、疚しさと気後れだった。 その面立ちには、その目つきには、粒子の粗い写真を持ってしても覆い隠せない匂い立つような清冽さが漂っていた。 写真を握り締める手に、不必要な力が篭もる。 彼のその清さ、写真を持ってしても透かし見える透明感は、市丸の目には鮮やか過ぎた。 あのとき、もしかしたら、踵を返せばよかったのかもしれない。 そうすれば、よく磨かれたガラスに貼りついた埃のような一点の負など、日常の濁流にあっけなく流されてしまっただろう。 元々、人を煙に巻くことは得意分野だ。体調が悪くて云々といったたわいもない嘘くらい、容易く演じられる。 だが、あのとき、なぜか市丸は内心の体勢を立て直そうとしたのだった。 それが、第2の間違いだと気づかずに。 その結果、否が応にも冷静にならざるを得なくなった市丸はそうして、彼が罪人であるというその一点のみが、自分の心を救ったという事実に気づいてしまったのだった。 ――どんなに清い顔をしてすましていようとも、彼は中央四十六室の面々には、罪人と断定されたのだ。だとすれば、殺す理由はある。己の思惟を割り込ませられる箇所などない。 そう割り切ろうとする心の動きが、確実に自分の中に存在していたことを。 本来ならば最も忌むべき存在である、下界の世界などおかまいなしに安穏とした生活をまるで餌付けされた野生動物のように 恥ずかしげもなく貪る上層部の人間たちが下した判決を、こんな時のみ自分は嬉々として受け入れるというのか? いの一番に唾棄せねばならないというのに、なんの外連味もなく。 ……だからこそ、気まぐれとして処理できなくなった負の感情を抱え、市丸はとぼとぼと残りの道を歩く以外なかったのだ。 彼が収監されている某隊の隊牢の扉を開け放った瞬間、市丸の鼻腔は敏感に微かな血の匂いを嗅ぎ宛てる。 罪を抱えた数多の死神が斬り殺されたこの地だ。どうしても拭いきれなかった血が瘴気となってとぐろを巻いていてもおかしくはあるまい。 血の匂い自体は好きでも嫌いでもなかったが、血の怨念のようなこの独特の臭気が、市丸の胃をもたれさせた。 辛うじて、逆流せんともがく胃液を堪えながら、市丸はゆっくりと隊牢内へ歩を進めた。 奥へと進む度に暗鬱な空気が濃くなり、暗鬱な空気が濃くなる度に、血の匂いは強さを増す。 隊牢内を廻る悪循環に肌を粟立てつつ、市丸はどうにか目的の牢に辿り着く。 牢の中央付近、窓に嵌めこまれた鉄格子の狭間から差し込む月光を存分に浴びられる位置で、手首を背中で拘束された彼は、きちんと正座し、頭を垂れていた。 最初、市丸は彼が眠っているのだと思った。 それは、願望に近い思惟だったのかもしれない。 市丸はなぜか、彼自身がそうと気づかないまま斬り殺してしまえば、内心を巣食う罪悪感が半減するような気が無性にしていたのだった。 ……このとき、2人しかいないこの牢内で、いちばん絶望的な気分になったのは市丸だろう。 なぜなら、市丸が牢へと足を踏み入れた瞬間、面を上げた彼は、すぐさま顔を伏せて、ふと微笑んだからだ。 第3の間違いがあったとすれば、この瞬間においても、踵を返そうとしなかったことだった。 彼が口を開く前に用事を思い出したふりをして、一切を擲ち、遁走してしまえば、もしかしたら。 だが、市丸は寧ろ両足を踏ん張り、懐へ収められた書類を求めて手を差し込んでしまった。 ……機械的に彼の名と罪状が記された書類を読み上げても、なぜか彼の笑みは絶えることがなかった。 もしかしたら、彼こそが市丸を断罪するために派遣された死神で、自分は何も知らずに罠にかけられた鼠なのではないか? 上層部のサインと印の入った正式な書類を懐に収めているはずの市丸さえ、そんなありえない妄想に囚われるほど、彼は落ち着いた態度で、ひたすら頬に静謐な笑みを刻んでいる。 「お聞きしたいことがあるのです」 視線を上げぬまま、やがて彼は囁いた。 その瞬間、市丸が覚えたのは安堵だった。 口火を切ったのが市丸ではなく彼であったということが、市丸に余裕を与えた。 もしも疚しいところが何もなければ、先に声を発そうとは思うまい。 もちろんそれは、あくまで市丸の身勝手な妄想の一環に過ぎず、 そう気づいた瞬間、市丸は先刻までいくらでも転がっていた機会を逃さず、抜刀すべきだったと後悔する。 ……指令を受けた自分には、その資格があるのだから、そこに罪悪感を覚える必要などない。 だが、その思いとは裏腹に、柄に手をかけていた市丸の力は急速に萎えていく。 「消える前に、これだけは知っておきたいのです」 まるでその瞬間を狙いでもしたかのように、彼は更に言葉を重ねた。 彼の言葉を止めなければ。 その瞬間過ぎった冷静すぎる思惟に、市丸は苛立った。 既に何人、何十人、何百人もの死神を処刑した中で、獲得し得た感覚。 それは、罪人を罪人として扱う以外、罪悪感を軽減する術がないのだということだ。 自分と同じ存在だと思わないこと。言葉など通じない、対極の存在として切り捨てること。 だから、市丸は、書類化して送られている処刑の指令を、碌に読んだことがなかった。 顔と罪状さえ知っていれば、仕事に不都合などなかったし、それ以上のことを知ったら、仕事に支障を来しそうだったからだ。 どうせ、彼の求める問いの答えを、自分は持っていないのだ。 何を問われても、首を左右に振って拒絶し、刀を振り上げさえすれば済むだけの話なのだ。 しかし、彼の視線に気押され、最初の一歩が踏み出せない。 ……膠着状態に陥ったとき、市丸は既に諦めていた。 勢いを奪われた自分は、彼の問いに答えられないと知りながらも、その問いに耳を傾ける以外の選択肢はないのだろうと。 「何を知りたいんや?」 「罪とは何ですか?」 力なく市丸が尋ねると、彼は静かに問うてきた。 その声はよく磨かれた水晶のように、一点の曇りもない。 「例えば、非人間的な行為をされて、それを許せずに抜刀し、誰かを殺したとしても、それは罪なのですか?」 「なんや、自分、罪を自覚していぃひんの?」 意味深な彼の問いかけの奥には、本当の意図が透かし見えたが、状況に抗うことはできなかった。 役柄は既に振り分けられている。 半ば強いられながら、市丸は示威的に笑い返した。 「ずっと理解したつもりでいました、概念上の罪ならば」 彼の訥々とした呟きを耳にした途端、市丸は自分が本当に悪に支配されたような気分になり、意味もなく口角を吊り上げた。 「自分が行った行為が、それに抵触するであろうことも、実際にその行為を行うまでは重々承知していました。 同じ死神をそうと知りながら殺害するのは、罪であると。人道に反していると。万死に値すると。そして、僕自身、 そう信じて、今まで死神という職を自分の思う最善の方法で全うしてきたつもりでした」 やがて、彼は静かに首を振った。 「けれど、僕は今、何ひとつわからなくなりました。殺害した男がどれだけ非人間的な行為を犯しても、それでも尚、煮え湯を飲んで生きていけと? 彼にもまた家族があり、恋人があり、彼を殺したことによって、悲しむ人がいると? 目には目をの論理では、憎しみの連鎖しか生まないと?」 言葉の語尾に彼は溜息を交える。 「確かにそうでしょう。憎しみは憎しみしか生まないかもしれません。今、僕は彼の家族や恋人と抱き合って、 謝罪しあって泣き喚くべきなのかもしれません。それでも、僕はそれをしたくはない。どうしても、したくないんです。 あいつは僕の婚約者を犯して殺した。どんなに反省しようと、決して彼女は帰ってこないんです。 いいですか?彼女は決して、帰ってはこない。決して、決して!」 彼は目をしばたかせ、震える息を吐いた。その吐息からは憎悪が臭った。 市丸は手を握り締めようとして、ふと掌に刻まれた線上に冷たい汗が滲んでいることに気づく。 割り振られた役は、完璧に演じなければならないことはわかっている。 もはや、彼の罪が真実か否かを検討する時は過ぎ去っている今、 市丸は、できるかぎり穏やかに死んでいけるように、彼の設定する悪を見事に演じなければならないのだった。 そして、それがどんなにたわいもない寸劇であろうと、市丸にとっても願ってもないことだった。 善と悪、どちら側に自分が属すことになっても構わない。 ただ、相手と自分を二極化できればよいのだ。 北極の氷と南極の氷が決して交じり合わないように、彼の主張が自分の主張と混ざり合わなければ、殺す痛みが軽減する。 だが、どうしても、現在進行している三文芝居に没頭できない。 まるで透明な泉の奥底で太陽を眺めるように、体の奥に沈む自分の断片が演じる自分を冷ややかに見つめているような気がして、 市丸は落ち着かない。 しかし、没頭しなければと焦れば焦るほど、離人感は募る一方だった。 溜息を漏らしかけ、それすら許されない状況であることに思い至り、市丸はそれを飲み込む。 ……演じようという意思から取りこぼされてしまった感情の残滓が結託して、彼と対峙することを拒否し、市丸に歯向かわんとしているのだ。 もちろん、黄泉の国へと強制的に旅立たされてしまった彼の恋人への狂念に完全に同調することは不可能だが、 倫理が内包する矛盾という穴に落ちてしまった彼のやるせない思いは、現在進行形で市丸が抱えている感情の色によく似ていた。 それ故に、彼らは喚く。殺すなと。 本来ならば、手と手を取り合うことができたかもしれないこの男。 共に、瀞霊廷に叛旗を翻せたかもしれないこの男。 だが、藍染らと謀議を重ねている計画の実りの時は、まだ大分先の話であり、計画を確実に実行するための布石として、 今怪しまれるような行動を取るわけにはいかない。 一刻も早く、彼を斬り捨てるべきだ。 これ以上、彼の話に耳を傾けたところで、自分も彼も、泥沼の中を歩む徒労感しか感じるまい。 だが、彼を殺害する任務以外に、内心の感情の一部が叛旗を翻したせいで、市丸の全身の力は時を追うごとに萎え続け、もはや立っているだけで精一杯だった。 誰か、こいつの愚につかないお喋りを止めてくれ。市丸はほとんど祈るようにそう願う。 罪を犯した男に親近感を覚えたところで、どうせこの自分が殺すことになるのに、殺さざるを得ないというのに、これ以上、彼の呪詛を聞いて何になる。 だが、罪とはなんだ? 有象無象の人間たちが、同じような存在だという認識のもと、共同生活を送るために設定した、 行動規範から逸脱したものを取り仕切るための規範を法と規定するならば、そこから転落した彼は罪に問われよう。 そうでなくとも、同等の存在を殺したことは、良心を鑑みても、許されるべきではない。 だが、法とは何だ?良心とは何だ? こうして、ともすれば彼に同調しようとする、この心の動きは何だ? 「……なんてね」 やがて、彼はひっそりと呟き、笑みを浮かべた。 巣を織り上げていく蜘蛛のように、その笑みが徐々に、作り込まれた悪の色で染め上げられていく様を、市丸は息を詰めて見つめる。 「こう言ったら、さすがの市丸隊長の手も鈍るかと思ったんですけど」 冷徹な声色に隠された労わりの彩りを、気づいてしまう自分自身を寧ろ市丸は呪った。 今際の際が近づき、納得できない内心をせめてこの世に残すべく吐き出した己の言葉が、市丸に想像以上のダメージを与えたことを彼は気づき、後悔しているのだ。 だが、彼の優しさは、しかし市丸に吐き気しか齎さない。 死の時は彼の目前でゆらゆらと揺らいでいるというのに、この期に及んで市丸を思いやろうと蠢く彼の意図などひとつしかない。 悪を演じ切れなかった市丸の代わりに悪を気取ることで、再び立ち位置を二極化し、市丸に自分を殺しやすくするという配慮。 「気持ち悪いわ」 思わず市丸が吐き出すと、彼は市丸の視線の先を探り、そこに己の視線を絡ませた。 「当然ですよ。俺は罪人なんですから」 強引すぎる彼の結論宣言は市丸に痛みを齎すばかりだった。 ピタリと口を噤んで、すだれのように垂れた前髪の狭間から、彼は市丸を見、首を垂れる。 自分なら、こんなことはしない。 ふつふつと湧き上がる憎しみが、強引に自分を洗脳しようとする内心の動きだと知りつつも、訪れたチャンスに市丸は縋る。 自分なら、こんな風に一発でそうとわかるような態度はとらない。 ……そう、彼だって卑怯なのだ。 市丸は刀を抜きながら、憑かれたようにそう思う。 本当によくできた人間ならば、彼の感情に同調しかけた市丸に対し、こんな風にあからさまな優しさは見せまい。 もっと丁寧に欺くに決まっている。殺したことを後悔させないようにするようなへまはするまい。 この世界が孕む矛盾を突いておきながら、市丸をよろめかせておきながら、そうと知りつつ己の痛みのみを宝物のように抱きかかえ、 独り占めすることで、市丸との痛みの交換を拒絶する彼もまた、同罪なのだ。 本当は今すぐに殺された彼女のもとに駆けつけたいくせに、慈愛を押し売りし、会話を宙ぶらりんなまま終わらせ、 その結果、市丸の疚しさを募らせている彼もまた、同罪なのだ。 胸に滲み出した憎しみが、力ずくで湧かせたものに過ぎないとどこかで気づきつつも、瞬発的に漲った力に流されるように、市丸は斬魄刀を解放した。 しかし、彼は市丸の斬魂刀に視線を向けようともしなかった。 まるで目前に迫った死すら日常の些細な断片にすぎぬとでもいうように鮮やかに市丸の刀を無視し、虚空を見据えている。 なんという傲慢な男。なんというずるい男。死ぬべきは彼だ。自分じゃない。 ……どんという鈍い音が手首を響き、市丸は我に返る。 握りの部分から、ゆっくりと刀に沿って視線を辿っていくと、己の手から伸びる刀は彼の体内に飲み込まれていた。 ああ、殺したのか。 たらりと彼から垂れ出す重い血が重力に沿って床へと伝う様を見、市丸はぼんやりとそんなことを考えた。 力を込めすぎていたのだろう。手だけが熱く重かった。 彼は死にたがっていて、自分は任務でこそあれ、彼を殺したかったのは事実だ。 だから、彼を殺した。互いの願いが叶ったのだから、それこそ大団円だ。それ以上でもそれ以下でもない。 なのに、この白さは、市丸に恐怖の念を駆り立てるのだった。 ここを歩まねば帰りつけぬことはわかっているが、どうしても最初の一歩を踏み出せない。 ……足を上げ、膝をやや伸ばし、足裏を地に下ろす。単純な動作だ。そこに何の感情をも介在する余地はない。 ともすれば恐慌状態へと傾こうとする思考を立て直すため、市丸は荒々しくそう考える。 なのに、どうして、歩み出せない? なぜ、今更こんな所で躊躇っているのだ? 今まで何人もの罪人を、当たり前に処刑してきたはずだ。 そして、計画を完遂するためには、こんな些細な処刑にすら躓く余裕はないはずだ。 ……そのとき、遠くで砂を踏む微かな音を、市丸の耳ははっきり聞き取った。 鼓膜が拾い上げえたことが信じられないほど、それは微弱な音だった。 ゆっくりと視線を上げた市丸の対極線上に立っていたのは藍染だった。 朝の柔らかい光の中で、1人立ち尽くす彼は、驚くほど白い世界に馴染んでいた。 寧ろ、自分の直線上に彼が立てるという事実がにわかに信じられず、市丸は目を見張った。 この朝の清々しい雰囲気にこれほどまでにふさわしい男は、彼以外考えられないのではないかと思うほど、 彼は清廉な佇まいだったのだ。 自分と同じ世界で呼吸する人間とは思えぬほどに。 「お帰り」 彼に怖気づき、二の足を踏んだ市丸の内心の葛藤にまるで気づかず、彼は微笑んだ。 蜜に吸い寄せられる蝶のようにがつがつと、市丸は藍染の笑みに引き寄せられる。 生まれたての馬のごとく力の入らない足はよろよろと市丸の体を運び、なんとか藍染の目前まで辿り着いた。 「……もしかして、出迎えてくれはったんですか」 市丸の問いには答えず、彼は視線を空へと向けた。 「無事、済んだのかい?」 「……ええ、恙無く」 「そうか」 彼は下唇を軽く噛み、足元へと視線を落とす。 彼の視線は黒々とした彼自身の影に取り込まれた。 「ギン」 市丸の鼓膜を、自らの名を呼ぶ藍染の低く柔らかい声が満たした。 どこまでも甘く慈悲深いその声を聞いた途端、ふと泣き出したくなる衝動に市丸は駆られる。 彼は眉を顰め、ひどく慮るような眼差しで市丸を見つめている。 藍染は一度、口を開いたが、無意味な擬音を発した挙句、何も口にせずその唇を閉ざした。 代わりにゆっくりと、彼の右腕が市丸へと伸ばされる。 己の首の骨と彼の腕の骨が擦れるごりっとした音が耳をつくと思った刹那、 市丸の鼻先は彼の肩に擦り付けられていた。 彼は恐らく、市丸の表情から、市丸の逡巡を、その理由を量ったに違いない。 だからこそ、こうして彼を労うのだ。 ……それが、有能な上司として、計画の発動を滞らせないようにという配慮から湧き上がった行動に過ぎなくとも。 しかし、市丸は、それでもかまわないような気がした。 彼が完璧に騙してくれるのであれば、自分はどこまでもついていこう。 様々な策略を弄びながら、それでも彼がこの白すぎる世界ででも悠然と立っていられるのであれば、 この濃厚な光の匂いに満たされた世界ででも、正義の味方面で立っていられるのであれば。 「ただいま」 力強く藍染の肩先に押し付けられた市丸が、くぐもった声で呟くと、 「おかえり」 藍染の穏やかな声が市丸を包んだ。 |