顔を上げると、窓から差し込む月が、白い光を惜しげもなく撒き散らしている。 今夜の月は小太りと言ったところで、完全ではないながらも、どこかしら愛嬌があった。 だが、意識的にそれに目を奪われかけた松本を阻むように、傍らで微かな鼾が聞こえ始める。 興を殺がれた松本が憮然として振り返ると、先刻、アルコールに屈服して床に転がったばかりの吉良が、どうやら眠気にも負けたらしく、気持ちよさそうに寝息を立てていた。 なんて間抜け面。 ふと過ぎりかけた何かの想念を遮るように、松本は口を半開きにして眠る吉良の赤い顔を見下ろし、微かに笑う。 「今日はとことん、つきあうって言ってたんじゃなかったっけ?」 囁きかけてみたものの、吉良は目を覚ます素振りすら見せない。 最近の彼の激務から鑑みて、しかし、それは仕方のないことだろう。 呼吸するたびに揺れる色素の薄い前髪を引っ張って起こしてやってもよかったが、松本はそれをやめ、代わりに手近の酒瓶を掴む。 まだ半分ほど中身が入っているらしい重さを持つそれを、体内に流し込もうとして松本は躊躇い、結局は瓶口に栓をした。 ……酒は、飲みすぎると、寧ろ酔いを醒まさせる効果があるらしい。 転がる大量な空き瓶は、そのまま、自分たちの体内に注ぎ込まれた酒量を物語っていたが、 鈍い吐き気こそ覚えるものの、松本は至極冷静だった。 まだ飲み足りないという内心の声が聞こえる一方、これ以上飲んでも、今の酔いでは吐き気を募らせることしかないだろうという判断と、 すべてを酔いに任せてしまいたいという自暴自棄から我に返ってしまったという現実が絡み合った結果、 松本は食い散らかされたつまみの中からするめの足を選んで口に咥える。 本当なら、酒精に冒されたふわふわとした視界の中で、なんとはなしに過ごそうと企んでいたのだ。 それを台無しにしておきながら一足速く眠りの世界へ足を踏み入れてしまった吉良に対して解せない思いを覚えつつ、 噛み締める反動で上下に揺れ動くするめの干からびた足を眺め、松本は既に妄想と化した今日の予定を反芻する。 ……とはいえ、昨日という日を特別視しないためには、それくらいしか思いつかなかっただけに過ぎないのだが。 すやすやと眠る吉良の寝顔は三番隊副隊長という彼の役職を忘れさせるほど、健やかで無防備なものだった。 彼の周囲を飛び交うアルコールの匂いさえなければ、実際、彼の寝姿は少年のようだった。 かわいそうに。 胸に痛みを覚え、松本は吉良から目を背ける。 彼の尊敬してやまなかった隊長がすべてを裏切り虚圏へと消えた後、彼の働きは目覚しいものがある。 事実、まるで隊長が失われていることなど嘘のように、三番隊に割り振られた業務は滞りなく消化されていた。 寧ろ、余りに潤滑にいきすぎているくらいだ。 そんな松本の感慨を補強する事実として、ほぼ凍結状態に等しい五番隊に対しての揶揄より、三番隊に対しての揶揄の方が、風評としてよく耳にするという不可解な現実がある。 単純に、尸魂界にいた時分の藍染の人柄が市丸のそれと比較して、愛されていたことにも起因するだろうが、それだけでもないような気が松本はしていた。 三番隊に振り分けられた業務があまりにも滞りなく進みすぎるが故に、未だ動揺に体を乗っ取られたままの者たちは、何かとてつもない侮辱を受けたように思うのだろう。 つまるところ、諸悪の根源を頭としていた三番隊の面々が意外にもあっさり立ち直ってしまったことが、彼らにとっては不快なのだ。 三番隊の力の源が、一体どこから湧き出ずるものなのか、それは松本にもわからない。 松本が唯一理解していることといえば、事実上隊長を兼任している三番隊副隊長の気質が、この上なく真面目だということだけだ。 だからこそ、市丸にあっさり騙されて傷つく羽目になってしまったのだろうけれど。 ……彼は傷ついている。明白に傷ついている。 それでも彼が精力的に働くのは、彼がその傷を見まいとしているからだ。 それだけでも、同情に値するのは吉良であり、決して自分ではないことがよくわかるというのに。 そう、自分ではないというのに。 にも関わらず吉良は、「市丸隊長の最愛の人であった松本副隊長」が打ちひしがれているのではないかと、 どうやらいっぱしにも心配しているらしかった。 三番隊の副隊長たる吉良は、突然いなくなってしまった隊長の穴をどうにか埋めるべく奔走する一方で、本来の職務である副隊長としての業務も全うせねばならないのだから、さぞかし忙しい日々を送っているだろうに、 それでも、1日に1度は松本に会いにやってくるし、3日に一遍は、松本の酒にもつきあおうとする。 やむにやまれぬ事情のもととはいえ、一度、刃を向けてしまった自分に負い目を感じているのか、もしくは、市丸不在の今、市丸の代わりに自分が松本を守ると気負っているからか。 現に今日も、自分たちにとっては祝日でもなんでもない日だというのに、 高級な酒を手に、いそいそと十番隊の隊舎にやってきて、飲みましょうと酒を掲げてみせたのだ。 そんな精神的余裕も、肉体的余裕もないはずなのに、吉良は自分を思いやる。 その気配りは松本には正直、重すぎるのだが、吉良の内心を想像すると無碍にもできない。 「かわいそうにね」 今度は彼への憐れみを、松本は言語化する。 ……吉良は信じたいのだろう。 市丸が自分を傷つけ、捨てていった現実を受け入れるためには、市丸をやむをえない何かに巻き込まれた被害者だったという規定する以外他なく、 松本からすれば愚の骨頂でしかないものの彼にとっては一番現実的だったらしい、市丸が松本を守るために尸魂界を裏切ったという理由付けをなさねば、彼の脆い精神は均衡を保てないのだ。 だが、当の松本は、それが吉良の妄想であり、現実ではないことを良く知っている。 彼は、自分のことなど、愛してはいなかった。そう、一度たりとも。 もしも、傍からはそう見えたのだとしても、彼はただ、この自分を好きだと信じ込むために、必死に足掻いていたに過ぎない。 まるで腫れ物に触るかのように松本を慈しんでいたのも、結局のところ、己を騙すためのポーズに過ぎなかったのだ。 自分をこちら側に保つための悪あがき。もしくは、些細な思い出作りか。 どちらにしても、向こう側とこちら側を天秤にかけたとき、松本は市丸にとって、分銅にもならなかったのだろう。 だからこそ、彼はこちら側を去り、結果、彼と自分の世界は交じり合うことはなかった。 こちら側で結局、何も手にできなかったに違いない彼が向こう側を選んだのは、ある意味、自明の理なのだ。 ……そこまで冷静に分析できていれば充分だろうと思うのだが、吉良はそれでも自分を慮る。その理由が、松本には理解できない。 そんなに弱っているように見えるのだろうか? そんなに打ち拉がれているように見えるのだろうか? だが、確実に自分以上に傷ついているだろう、吉良にストレートに聞けるはずもない。 結果、互いの口は言葉を紡ぐのではなく、酒を体内に注ぎ込むための漏斗として、もっぱら使われることになってしまう。 窓から覗く月は眩く輝いている。 硬質な光を放つそれに照らされ、吉良の額は白く光っている。 その青みを帯びた白は、松本に否応なく、彼の姿を想起させる。 先刻栓をしたばかりの酒瓶を戯れに弄びつつ、松本は顔を顰めた。 確かに、幾許かは吉良のせいにしたきらいはある。 でも、単純に、自分は怒っていただけなのだ。 大切にするだけして、いい思い出だけ残して、自分勝手に立ち去ってしまった幼馴染。 幼馴染という単純な言葉だけでは片づけられない感情を松本に植えつけながら、 相応しい言葉を探しているうちにあっさり目の前から消えうせてしまった彼。 だから、彼のいない彼の誕生日、彼とかつて親しかった時期もあった自分と従順な彼の副官は、 まるで法事でしか顔を合わせることのない遠い親戚のように、彼の不在や、もう更新されることはない彼との日々を噛み締めつつも、 意図的に彼の話題を避けて、ひたすら杯の数を競う羽目となってしまう。 あえて酒席に持ち込む必要などない世間話を重ねるごとに、この場にいないはずの彼の存在感が増すような気がして、 松本の飲酒のペースは上がりがちだったし、対する吉良も、松本のペースにつきあうことが、 自分の使命だと思っているのか、大して強いわけでもないくせに食らい付いてくる。 まるで、一種の競技のような様相を呈してきたところで、吉良が潰れたのがつい先刻。 「でも、感謝はしているのよ」 松本は再度独りごち、吉良を振り返る。 ……実際、彼の労わりそのものは有難くもあった。 もしも、松本に傷を舐めあおうという意志さえあれば、吉良は絶好の相手だ。もはや、彼を思って酒を飲むのであれば、吉良以外思いつくまい。 反射的に目を背けながら、松本は、口の中で、でも、と呟いた。 彼がまだこの世界にいた頃は、吉良と2人で酒を酌み交わしたことなどなかったという事実は、 彼の不在をくっきりと浮かび上がらせるようで、正直、つらくもある。 秋風が熱さの中にも隠し切れない一片の寒さを滲ませるように、見まいとしている真実が、どうしても瞬いてしまうから。 ……恐らく、彼は二度と戻ってはくるまい。 少なくとも、かつて彼が立っていた場所へは。 この世界を裏切った彼が仮に戻ってきたところで、彼の居場所はもはやない。 瀞霊廷を転覆すべく去った彼の帰着先は、死か禁固刑以外にありえないのだから。 「畜生」 舌打ちをすると、その衝撃で眩暈がした。 いっそ、彼のかわいい忠実な部下の服を剥ぎ取り、彼の不在と3人で抱き合って眠ってしまおうか。 だが、今も四番隊の医務室で眠る、吉良の恋する相手を思うと、それもままならない。 彼女が目を覚ましたとき、彼は彼女に対して負い目を持っていては、支えるものも支えられないだろうから。 そして、もしも、可能性があくまで0に近い想定ながら、例えば天地がひっくり返りでもして、彼がここに帰ってくることがあるならば、居場所がなければ困るだろうから。 ……松本は溜息を漏らし、手にしていた酒瓶の栓を抜いた。 杯に注ぎ込むことはせず、一息に呷る。 体がかっと熱くなり、視界がゆらりと揺らいだが、松本は虚空に向けて、手にした瓶を掲げた。 時計は、既に2時30分を差している。 彼の誕生日は、もう過ぎ去ってしまった。 そもそも、彼が生まれた日が本当にこの日であるかどうかすら、松本はわからないのだけれど。 まあ、それでも。 「誕生日、おめでとう」 ……口腔内に生じた苦みを酒の所為にすべく、松本は更に、酒瓶に口をつけた。 翌日、不都合があったとしたら、それは吉良のせいにしてしまおう。 |