皿の上の鰯は、恨めしげな眼差しでこちらを睨みつけていた。
釣り上げ、窒息させられ、挙句の果てには焼かれ、市丸に供されているのだから、 そうした目つきになっても仕方がない気がしないでもない。
だが、自分が彼であれば、惨めな姿を見ず知らずの他人に晒す前に、何かしら報復したり、潔く自滅したりといった手段をまず選択するだろう。
そう思うと、市丸は途端にむかむかしてきた。
そもそも、こんな状態を甘んじる鰯自体に問題がある。
そうだ、この鰯がすべての原因なのだ。
両膝に両手を添えたままの姿勢で、今まさにクライマックスを迎えてしまった苦境の時を少しでも逃れるべく、また少しでも内心で蟠る恨みの感情を発散すべく、市丸は鰯を睨み返した。


昨日、藍染に食事に誘われた時、市丸は本気で心を浮き立たせたのだった。
隊長格ともなれば、贅沢な店でたらふくうまいものを食えるだけの給金を得ているはずだから、部下を食事に誘う以上、それなりの店に案内するに違いないと。
そして、藍染は、市丸の期待を裏切らなかった。
彼が市丸を伴ったのは、一瞥するとただの寂れた家屋に過ぎなかったが、近づいてよく見ると、年季の入った木の壁は黒っぽくこそなっていたものの、上品な光沢を放っていた。
玄関に何本も植え込まれていた竹は、手塩をかけて育てられているらしく、その艶感は触れてみたいと思わせるものであったし、 入り口に敷かれた玉砂利は、毎日躾けられているとのではと思わせるほど、行儀良く頭を並べていた。
そんな店の引き戸を無造作にガラリと開け、いそいそとこちらへやってきた女将らしき年増ながら楚々とした美しさを持つ女性と、いかにも慣れた様子で挨拶の言葉を交わす藍染の背後で、 市丸は期待と誇らしさで胸を膨らませたのだった。
案内された、予想をはるかに上回る広々とした部屋は、侘び寂びを美徳と思う藍染のような男なら思わず感嘆の声を漏らしそうな壺やら花瓶やら掛け軸やらが厭味にならない程度に配されていて、 芸術を解しない市丸ですら、生を重ねるうちに体得してきた気品を滲ませているそれらに胸を突かれたのだった。
この状況で期待しない方がどうかしている。
そう思ったのが、つい先刻。
……だが、今、市丸の目の前には、ひっそりと1匹の鰯が美しい皿の上で身を横たえているばかりであった。
「藍染さん……」
早速、鰯の身を箸で掴み、嬉しげに口に運び始めた藍染に向かって市丸は口火を切る。
「この魚は……」
「鰯だよ」
藍染は鰯の身を残酷にも頭から齧り、いかにもうまそうに噛み砕きながら、こともなげにそう言い放った。
「それは見ればわかりますけど」
市丸の溜息交じりの言に、藍染は何度か首を縦に振ったものの、鰯の風味に心を奪われているようで、その仕草はおざなりなものだった。
「この鰯が哀れに思えてきましたわ」
「へえ」
藍染はまったく気のない返答をしながら、先ほど腹の辺りまで食いちぎった鰯を再度箸で摘み上げた。
「きっと、苦しい思いをしたんやろな。恨みがましい目で僕を見てはる」
「ギン」
皿の中で控えめに鎮座していた鰯をむさぼり終えた藍染は、この上なく優しい声で市丸の名を呼ぶ。
彼がこんな甘い声を発するときは、大概、彼の裡に何らかの策略に満たされていることは百も承知だった。
惑わされてはいけない。
内心で身構えながらも、市丸は表面的には何の他意もないという風を装って、素直に藍染の顔を見る。
「君は優しい子だね。僕はそんな君のことが大好きだよ」
歯の浮くような科白によろめきそうになった市丸であったが、信じられないことに、藍染は本気の涙で目を潤ませていた。
「藍染さん……」
どうやら、簡単に騙せそうだ。
喜びに胸を膨らませた市丸は、この意味もなくしめっぽくなった場の雰囲気に没することができず、 目を伏せることでやり過ごそうとする。
だが。
「鰯がこうして君の前に供されている以上、食べる以外、鰯の死を無駄にしない術はないんだからね」
「へっ?」
まさかそんな方向性に向かうと思わなかった市丸は、ぽかんと藍染の顔を見る。
「だから、それを食べなさい」
やおらに藍染は厳しい表情になり、市丸の前でぐったりと身を横たえる鰯を、手にした箸をおき、五指で指し示して見せた。
「いや、藍染さんは、いつ見ても、作法がきちんとしてはるな。僕も見習わねばあかんと思うてますねん」
今度は、彼の仕草からも容易に想像できる、彼が体得している礼儀作法を市丸が褒め称えると、藍染は照れたように笑った。
「そうかな?確かに僕の両親は美しい箸使いをしていたから、幼心に感動して、真似ようと努力してきたんだけれどね」
「ホンマに……」
しかし、更に彼の礼儀作法を褒め称えることでお茶を濁そうとした市丸の言を遮って、藍染はきっぱりと言った。
「だから、それを食べなさい」
「何それ?何それ?今の流れから、どうしたら、そうなるん?つうか、せっかく褒めたのに、今の流れ、まったく関係なくなってるやん! 一度乗せて、落とすなんて、何、ノリツッコミのつもり?まったく、ノリきれてへんし、ツッコめてへんけど!」
「ギン」
息を切らす市丸を不思議そうに眺め、首を傾げたあと、再び、藍染は優しげな口調で市丸の名を呼ぶ。
「なんだかよくわからないが、下品なことを言うもんじゃない」
もしかして、ツッコミという言葉をものすごく変な意味に取り違えたのだろうか。
藍染は無意味に顔を赤らめながらも、再び、そっと掌を上向けて、まるで賓客に 舞踏会の会場でも示すかの如くに、鰯の存在を市丸に自覚させる。
どうやら、鰯の哀れさにかこつける方法は失敗に終わったどころか、これ以上の言い逃れは不可能な状態にまで追い詰められてしまった。
市丸は内心で臍を噛む。
そろそろ、逃げ場がなくなりつつあるようだ。
滲みつつある冷や汗の感触をうざったく思いながら、市丸はどうにかこの場をやり過ごす算段を考えるべく、脳味噌をフル稼働させる。
「鰯はDHA、EPA、カルシウムが豊富に含まれているすばらしい魚なんだ。 かつては大衆魚として親しまれていたんだけど、現在は、乱獲のせいか地球の気候変動のせいか、理由はわからないながら、絶滅の危機に瀕していてね、今や高級魚の一種なんだよ」
しかし、間髪入れず藍染は何かの書物で仕入れたらしい知識をそのまま披瀝し、あまつさえ、何度目かの極上の笑みを浮かべて見せた。
「だから、好き嫌いせず、ちゃんと食べなさい」
あかん、思いっきり見抜かれてる。
市丸は内心で嘆息する。
だが、市丸はどうしても苦いものが食べられないのだった。
アジなどの魚なら食べられる。大抵の料亭では、内臓を抜かれているからだ。
しかし、鰯くらいのサイズになると、もはや、臓物すらもうまいとか意味不明なことを抜かす、まさに藍染のような者がいて、 更に、店の人間もその声に甘んじるのか何なのか知らないが、内臓込みで供されることも多い。
もしかしたら、あえてそういう料亭を選んで、藍染が伴っているのかもしれないが、 どちらにしても、市丸にとって、今の状況は絶体絶命という四文字熟語に集約されていた。
早く、この危機から脱さなければ。
「いやー、うまそうや」
半ば自暴自棄になりながら、市丸は鰯に箸をつける。
「……と言って、くしゃみなんかして、その勢いで鰯を落として、食べられなくなったとか言い逃れようとする者もいるけれど」
市丸が次に取ろうとしていた手段を封じるような台詞をあっさり吐き、藍染は穏やかに目を細める。
「栄養価も高く、優れた味わいを持つ鰯に対して、失礼だと思わないかい?ねえ、ギン?」
「……そうですね」
これは、俗に言う、袋小路という奴ではないだろうか。
市丸は流れる冷や汗の量が倍増したことに気づく。
もはや、どうしても、目の前の鰯を食べざるを得まい。
南無山!
市丸は目をぎゅっと閉じ、鰯に齧りついた。
あまりの苦さ、まずさに、思わずえづきそうになったが、どうしても藍染に隙を見せるのが嫌で、 だからといって咀嚼する気力もなく、市丸は強引に喉にそれを押し込んだ。
「ギン、よく頑張ったね」
……市丸が目を開けると、藍染は両肘をテーブルにつき、にこにことまるで自分のことのように嬉しげに微笑んでいた。
「藍染さん……」
自分の健康のため、彼は気遣ってこんな猿芝居をしてくれたのだ。
口の中に残る鰯の苦みを無視せんとした市丸は、藍染がくれた笑みに溺れることで、今現在自分を襲う苦痛を軽減しようとする。
だが、しかし。
「ゴーヤの炒め物、お待たせ致しました」
「げっ!」
軽やかな声とともに給士の女性に差し出された皿の中身を見た市丸は、思わず轢かれた蛙のごとき声を漏らす。
途端、藍染の笑みは更に濃くなった。
これはもしかして……。
市丸はゴーヤから視線を逸らしながら、思う。
市丸の体を気遣うというより寧ろ、ただの嫌がらせなのではないか?
「ゴーヤは体にいいんだよ。この苦みはね……」
藍染のご高説を聞きながら、市丸は藍染の性格上、確実にこの後もねちねちと続くであろう苦痛の時を想像し、思わず溜息をついた。









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