その横顔は明らかに、昨晩、幾度と為されたであろう煩悶を色濃く残していた。
目の下はうっすらと隅で縁取られ、眼差しには力がない。
それでも彼は普段と同じように柔らかく穏やかな声色で、平易に明瞭に、自分が率いる隊の隊員たちへ向けて、上より伝達された事項を話している。話そうと努力している。
だが、彼の目は机を手で撫でるように、彼を無心に見つめる隊員たちの顔を滑るだけだ。
取り繕った笑みだけは彼にとって喜ぶべきことに憎たらしいほど完璧であったから、恐らく彼の努力は報われている。誰も、彼の苦悩に気づいていない。
自分だけが気づいているのだ。
湧き上がる満足感を噛み殺しながら、市丸は再び傍らの彼を盗み見、更に、彼の顔にちらほらと散る苦悩の残滓を発見する。
顎と首の狭間の、ぱっと見ただけでは気づかない箇所にある、髭の剃り残し。
彼の白い肌の上で肩を寄せ合うようにして、剃られなかったことに安堵しているようにも見えるそれは、 嵐の夜を耐え抜いた雑草のごとき凛とした美しささえ孕んでいるように市丸の目には映る。
「従って……」
彼は喋る。澱みなく喋る。予め頭の中で作ったスクリプトどおりに整然と。習慣に従って端然と。
だが、自分は知っている。明確に知っている。彼が昨日、まるで溺れた人が偶然流れてきた流木に縋るように、 幼い子供が悪夢に魘された挙句に傍らで眠る母親に縋るように、枕を腕に掻き抱いて、煩悶していたことを。
そう、自分だけが知っているのだ。
彼が眠れぬまま寝返りを打った回数さえ、まるで手に取るようにはっきりと。
彼が溜息を漏らしたその回数さえ、まるで手に取るようにはっきりと。
よくない傾向なのかもしれない。市丸は脳裏で警鐘を鳴らしてみる。
昨晩の彼のディテールを想像し、いつのまにかそれが真実であるかのように錯覚した挙句、想像上の彼の苦悩に共感を覚えるというのは。
そう、よくない傾向だ。
――本来ならば。
しかし、市丸は、彼が自分の想像通りの一晩を過ごしていたに違いないと確信している。
そして、彼が悩み、迷い、苦しみ抜いたであろう一晩を思い浮かべるだけで、市丸は陶然となるのだった。
自分だけが気づいているのだ、と。
そう、自分だけが気づいているのだ。市丸は噛み締めるように、再びそう思う。
……そう、自分だけは気づいているのだ。
だから、ちょっと視線を転じてこちらを見ればいい。
そうすれば、似たような色を帯びているはずのこの自分の顔が目に入るはずだから。
今の彼にとっては、巧妙に作りこまれたこの表情も、救いの種になるだろうに、彼の目は胡乱に隊員たちの間を滑るばかりで一向にこちらを見る気配すらない。
せっかくの名演技をこのまま無に帰してしまうのは惜しい。
市丸は殊更に咳払いをすることで、藍染の視線をこちらへ向けさせることに成功する。
「市丸、何か言いたいことは?」
だが、彼は極めて形式的に市丸に話を振ったものの、市丸の表情に対して何の反応も示さなかった。
もっとも彼の視線は市丸の下睫毛あたりをふらふらするばかりであったから、仕方のないことではあったのだが。
業を煮やした市丸が大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を止めると、初めて藍染はぎょっとしたように市丸の目を見た。
己の苦悩で手一杯の彼は、負の方向に自らの思考を傾けすぎたあまり、市丸が唐突に彼に不利益なことを言い出すのではないかと本能的に身構えてしまったのだろう。
しかし、それにしても彼の態度は隙だらけすぎた。
「いえ、別に」
頃合を見計らって、市丸は極めて意識的に小首を傾げ、笑みを漏らす。
目の前の彼にのみ向けられた、理解者の笑み。
だが、彼の苦悩に満たされた心は、市丸の精一杯の笑みにすら何の感慨も覚えなかったようだ。
すっかり己の苦悩に引きこもった彼は、今さっき、市丸が己の空虚な演説を中断させようとしたのではないかという疑念に縛されたことすら忘れたように、ひたすら無感動に市丸から目を逸らす。
どうせ、自分ばかりが苦悩していると思って打ち拉がれているのだろう?
隊の面々に向ける、時折苦痛に引き攣る青白い顔からも、何度となく唾液を飲み込むため頻繁に動く喉仏からも、いつ内心を察されてもおかしくはないというのに、まったくお気楽なことだ。
共感や連帯感が彼の瞳に閃くことを期待し、肩すかしを食った市丸は、意図的に腹を立てる。
この自分だけが苦しみに気づいているということがどういうことなのか、彼はわかっているのか?
その事実はこの自分以外誰も、彼に対してさほど興味を持っていないことを暗に示しているというのに、そして彼もまた、神妙な顔で彼の高尚な、その実中身など何もない演説に耳を傾ける 隊員たちのことなど十把一絡げくらいにしか思っていないというのに、彼らの目を欺くために必死で背筋を伸ばし、声の震えを抑えようとするなんて、傍らで親密な笑みを浮かべるこの自分を一顧だにしないなんて、笑止でしかない。
だが、戯れに作りこんだ苛立ちも長くは続かなかった。
演説は終盤に近づき、あとは隊首室での2人きりの時間が待つのみだ。
余裕は笑いとなって、市丸へ忍び寄る。
さすがに場の雰囲気を慮った市丸は哄笑こそ思いとどまったものの、湧き上がる微笑だけは堪えることができなかった。
なんという無邪気な男だろう!
市丸は今更ながら、藍染を構成するものがすべて、白く塗り潰されていることに感嘆する。
彼の育ちのよさが認識の甘さを生み、認識の甘さが性質の穏やかさを生み、無邪気さや率直さを生む。
それは平穏な人生さえ歩んでいれば、寧ろ彼の美徳になりえたに相違ない。
そして、そんな彼だからこそ、この世をまだ変革しえうるものと仮定できることが、 義憤に燃えることが叶うことができたのだろう。
この世をただ息を潜めてやりすごすことばかり考えていた市丸にとって、 彼が市丸に匂わせた、彼の内で燻る革命への思慕はある意味斬新だった。
だから、試してみたのだ。彼の中で渦巻くばかりだった混沌がどういう方向に行くのか。
欲望の火の点け方ぐらい、わかっていた。
あとは、彼が欲望のどれだけ忠実な家来になるかどうかだったけれど、想像以上に容易く彼は堕ち、傅き、舐め、没した。
手にとって、彼の重さを確かめたあの瞬間、市丸は快哉を叫びたくなったものだ。
これが己に入った瞬間、彼は明らかに変わるだろうと。
結果、己の内で立ち上った、市丸に向けてさえ口にしなければ日常的な会話の一環として没したかもしれない彼の高尚な怒りは、ひとつの指針へと移り変わってしまった。
口は災いの元という警句が、今の彼の心には深々と突き刺さっていることだろう。
彼自身、まるで想像していなかったであろう重みに拉がれ、喘ぐことになろうとも、それを放り出すことができなくなってしまった今となっては。
「……では、解散」
言うべきことを言い尽くした藍染は、しかし、まるでこの時が終わることが恐ろしいとでもいうように、 一瞬だけ身震いする。
この後、彼に残されている時間といったら、市丸と顔を突き合わせ、仕事をする気詰まりな時だけだ。
三々五々、仕事に戻っていく部下たちに背を向けた彼の目は虚ろだ。
恐らく、今、彼は、できるだけ穏やかに以降の時を過ごすための方法を、必死に考えているに違いない。
だが、いつだって波風のない生を性質と努力によって歩んできた彼から生まれいずる解決法など、大したものではあるまいと市丸は高を括る。
所詮、彼の想像力では、つまらない謝罪や言い訳でも持ち出して、己を満足させるくらいの方向しか見出せないだろう。
市丸は大きな気持ちで、悩む藍染の傍らに寄り添う。
その瞬間、いかにも距離感を計り損ねたといった風に、彼の腕に自分の腕をぶつけてやると、 彼は大きく目を見張り、こちらを見た。
その目をまともに見返してやると、彼はたじろいだが、それでも自分のうちに残されていた自尊心をかき集め、 威厳を保ってみせたのは、さすがと言えた。
だが、無駄足掻きはここまでだ。
「市丸」
「はい?」
白々しいまでに明るく、白々しいまでにあどけない笑みで、市丸が呼びかけに応じると、藍染はひるんだように口を閉じた。
藍染が言い澱んだその間に、市丸は煩瑣な日常を捻じ込む。
「藍染隊長、例の書類、もう一番隊に持っていってしもうて、えかったんでしたよね?」
「えっ?」
不意を突かれた藍染は、呆けたような顔をし、そんな自分に苛立ったように頬を歪めた。
その一瞬の隙が、市丸に彼への愛おしさを募らせるのだとまるで気づかずに。
「ああ、そうしてくれ」
それっきり藍染は見た目には機嫌を損ねたように黙り込む。
だが、謝罪を口にするタイミングを失って、途方に暮れる彼の内心が、市丸にははっきりと見える。
自分だけが気づいているのだ。
もう一度強くそう思い、市丸は内心でほくそ笑む。
いい加減、元の人生に戻ろうなんて甘い考えは捨てた方がいい。
平和や安穏は、もはや彼にとっては苦痛の別名でしかないことを思い知るがいい。









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