時計の針がどこを差しているのか読み取ろうと、藍染は首を伸ばした。 公園のちょうど中心部付近にある時計は、今いる位置からだと少しばかり遠いせいで文字盤が見辛かったが、 約束の場所にこれ以上近寄る気は毛頭ない以上、時計に近寄る気もさらさらないのだった。 ――これほど必死に絶対領域を設けるのであれば、そもそも時など確かめなければいいのだ。 つまらぬ瑣末事に自尊心を持ち出す割に、本当の欲望には正直な自分を藍染は嘲笑う。 時を知りたいという欲求には、その裏に確かに潜む別の欲望には、逆らえないからこそ、約束の場所にはこれ以上近づかないなどという子供のごっこ遊びのようにたわいもない設定をひねり出して、 うまく自分の行動を取り繕った気になってしまえる。 そんなおざなりな言い訳ですら満足できる自尊心の低さに、その一方で、禁踏区域を設定しなくては時間を確かめることさえできない自尊心の高さに、 うんざりしつつも、藍染は目を凝らすことを止められなかった。 目を細めたり見張ったりを繰り返しながらじっと盤面を見つめていると、目が慣れてきたせいか、 どうにか約束の時間の約30分前を、針が示していることがわかった。 随分早く着きすぎたようだ。 思わず零れそうになった舌打ちを寸前で抑え、代わりに首筋を掻くと爪先に粘ついた汗が纏わりつく。 その感触は、更なる苛立ちを藍染に齎した。 ……腹に抱えた薄暗い欲望が藍染を、約束の場所から程近いこの公園へと急かせたのだった。 いや、そもそも、昨日から一昨日から一昨昨日から、約束を取り付けた日からずっと、 焦燥感にも似た欲望が蔦のごとく藍染の体に絡みついて離れることはなかった。 だが、その一方で、餓えた自分を自覚することが、藍染には耐えられない。 もちろん、彼に対しても、そうした無様な己をあからさまにしたくはない。 だから、藍染は約束の時間にあえて遅れていくようにしていたのだが、 対する彼も、いかにも計算的に遅れることで藍染に報いるのであった。 そうして互いに遅延を応酬しあううち、「約束の時間」は有名無実化し、 背後に迫る帰宅時間を急きたてられるようにして、己の欲情を解放せねばならなくなるのが常だった。 だが、その結果に対し、どんなに己の本能が不満を漏らそうとも、 どんなにこの応酬が悪循環に嵌まり込もうとも、藍染は約束の時間に遅れていくことを止めようとは思わなかった。 約束の場所に向かおうと決意する時間が、徐々に早まるのと反比例して。 ……普段は、遠回りしたり、わざと道すがらに用事を作ったり、店を冷やかしたりして時間を潰しているうちに、 約束の時は自然と過ぎるのであるが、今日は藍染が思いつくかぎりのカードを切っても尚、時間が余ってしまった。 結果、仕方なく立ち寄ったのが、約束の場所から程近く、ある程度の時間なら潰せそうな、この何の変哲もない公園だった。 梅雨の間隙を縫った突然の夏は、人々から散歩をする気力を奪ったようで、公園に人影はまるでなかった。 だが、その一方、この時期、人々の代わりにはしゃぎ始める蝉にとっても青天の霹靂だったようで、彼らの鳴き声さえも皆無だった。 ただ唯一、揚羽蝶が一匹、我が物顔でひらひらと舞うばかりの静かな空間を満たすのは、太陽の強すぎる光線だけだ。 暑い。 藍染は天を仰ぎ、爛々と照り輝く太陽の存在を確かめると、木々の生い茂る日陰へと避難する。 木陰に飛び込むと、むせ返るような緑の匂いが頭上を覆い、息が詰まりそうだった。 木々は、まるで藍染が太陽の光を浴びることを阻むかのように重なり合い、鬱蒼と生い茂っていて、 さながら木々によって作り出された密室に取り込まれたものだった。 思いもよらぬ閉ざされた空間にたじろいだ藍染は、 互いに吐き出した酸素を交換し合う彼らの狭間に立ち尽くしている今の自分の状態に気づき、 居心地悪さから顔を顰めた。 屋外にいるはずなのに、妙な圧迫感を覚えた藍染の脳裏で、不意にとある薄暗く息苦しい部屋の映像がちらつく。 それは、これから藍染が彼とともに数十分ほどの時を過ごすであろう、いつもの部屋の姿だった。 そうと自覚した途端、体内に澱む欲望の密度が上がったような気がして、藍染は肌を粟立てる。 ……目の前では、一匹の蟻が木の幹を何度も行き来している。 その涙ぐましいほどの勤勉ぶりは、だがしかし、あの狭く重苦しい部屋で欲望を満たすための仕事を 嬉々として行う自分を想起させた。 途端、この後確実に訪れるであろう快感への期待が、藍染の腹の底で蠢動を始める。 いったい何を吐き出したいのだ、これほどの切望をもってして? 蟻から目を逸らし、肉欲への予感に打ち震える己の臓腑に、藍染は冷笑を浴びせかける。 こうも容易く衝動を発露し維持し続けられるのなら、この世界の変革も、本来、もっと簡単に実現してしかるべきなのだ。 肉への欲望より世界を変革する欲望の方が優っているのであれば、の話だが。 だが、発散の時間を間近に控えた藍染の欲望は、脳裏に浮かばせた藍染自身の厭味などどこ吹く風で、 ひたすら内部を濃密にせんと己の感覚を研ぎ澄ませるのに必死だ。 これが、このときだけが、己の衝動がはっきりと方向性と形とを示す瞬間であることは、藍染にとって皮肉以外の何者でもない。 まるで、肉欲を果たすことこそが、我が身の本当の目的のようではないか。 だとすれば、精を吐き出すこと、それこそが自分の一番の望みだというのか? 腰の辺りでけぶる重苦しさは、藍染の理性を追い詰める。 本当ならば、今すぐにでも解放されたいのだ。 グラスの縁ぎりぎりまで満たされた汚水のような腹の底の情念が零れ落ちないように見張る状態から。体内に欲望を飼っているようで、実は己が欲望に飼われている状態から。 先の見えない情動という袋小路に追い込まれ、何の実にもならない発散が己を磨り減らすことしかないと知りながら、 それでもひたすら腰を振り続ける生から。 藍染は溜めていた息を吐き出し、木陰から逃れ出た。 途端、眩いばかりの陽光が藍染を照らし出した。 その光は心地よいというには些か強烈過ぎたが、強烈だからこそ、脳裏に絡みついて離れなかった暗い部屋のイメージから、 藍染から解放する。 下腹部あたりでとぐろを巻き、藍染を乗っ取る瞬間を虎視眈々と狙っていた欲望の視線も、それに伴い、急速に衰える。 際限なく額から噴き出す汗を手の甲で拭いつつ、藍染は引いた欲望の熱に安堵しながら、太陽を仰いだ。 だが、いつかまた、欲望が自分を圧し、狭く息苦しい部屋へ押し込めんとするだろう。 稲妻のごとく閃いたそんな冷めた確信は、藍染の肩を揺らす。 それでも、それが性であるならば、抵抗の余地などないのかもしれないが、今は逃れたい。 力強く、堂々と胸を張って遁走したいのだ。 ……背後で、足で砂を踏む、ざらりとした音がした。 藍染が振り向くと、ひどく居心地悪そうに地に視線を落とし、立っていたのは市丸だった。 「珍しいですな、こないな所で」 彼は口角を吊り上げ、笑みを象ったものの、その笑みは精彩を欠いていた。 まるでお互いよりも大事なことがあるのだと言わんばかりに、遅延を競っていた自分たちにとって、 その実、恐らく相手の行動を想像しては相手の行きそうにない場所を廻って時間を潰していたであろう自分たちにとって、 こうして不意に顔を合わせてしまうときほど、気まずいときはない。 市丸の笑みが不出来なのも、その辺りが起因しているのだろう。 普段の自分なら、市丸と同じような思いに囚われるに違いなかったが、今日の藍染は自分でも驚くほど穏やかに、彼に声をかけることができた。 「ギン、君は、よくここを通るのかい?」 「ええ」 藍染の穏やかな声音に、驚きの色を閃かせながら顔を上げた市丸だったが、特に何も言わずに首肯すると、ふと言い澱み、 「藍染さんと……」 と、言葉を探すように天を仰いだ。 藍染は目の前の、彼のほっそりとした白い首の中心に浮かぶ喉仏を、新鮮な気持ちで見やる。 藍染にとって、欲望を解放する一端であったそれを、日の光の下で眺めることは奇妙な気分にこそなったものの、 決して不快な感覚ではなかった。 「藍染さんと待ち合わせするときは、大体ここを」 市丸は逡巡の後、躊躇いがちにそう言った。 「ああ……」 待ち合わせの言葉に多分に込められた意味を悟った藍染は、曖昧に頷く。 この自然の息吹に満ちた公園内を、何度となく立ち止まって木々が吐き出した新鮮な空気を吸い込んだり、 空を見上げたりしながら、時計を確かめ、頭の中で今日はどれほど遅れようか画策しつつ、狭く重苦しいあの部屋に向かうために抜けていく彼の姿が、 まるで目にしたことがあると錯覚するほど、藍染の脳裏に鮮やかに浮かんだ。 そして、藍染の想像の中の彼は、ひどく痛ましい。 少なくとも、あの部屋に向かう自分と同じくらいには。 ……彼にかけるべき言葉を見出せず、藍染は黙り込む。 それは市丸も同じだったようで、視線を落とし、砂の感触を確かめるかのように右足をざりざりと地に擦り付けている。 長い間、同僚として、肉欲を発散させる相手として、彼と共に過ごしてきたはずなのに、 いざ、何かを話そうとすると、何ひとつ浮かばないとはどういうことだ。 藍染は驚きに打たれた。 もしかしたら、誰よりも近くにいたはずの彼のことを、本当は何ひとつ知らないのではあるまいか。 市丸が右足を地に擦り付ける音をBGMに、藍染は呆然とそんなことを考える。 彼が日々、何に喜び、何に怒り、何に悲しみ、何を笑うのかといった根源的ことはおろか、彼の趣味や、彼が休日にどんなことをして過ごしているかといった単純な日常の断片すらも、実際のところ、何ひとつ自分は知らない。 彼と閨に転がって互いの衝動をぶつけ合うことばかりに熱心になりすぎるあまり、己の欲望の発散にばかり気を取られるあまり、 無邪気な触れ合いをすっ飛ばしてただひたすら己の肉欲に忠実になりすぎるあまり、彼と自分はどれほど遠く隔たってしまったのだろう? そうして今、独りよがりと紙一重の、自慰にも似た行為に肉体を明け渡すばかりだった自分たちは、まるで吐き出すときに吐き出さなかったがために殺してしまった言葉に対する罪を贖うかのように ただひたすら言葉を失っている。 「ギン……、今日は、ここにいないか?」 だけど今は、すべてを乗り越えてでも、すべてを見てみぬふりをしてでも、彼の話が聞きたいと藍染は思う。 語られるべきときに語られなかった言葉が既に消え失せてしまった以上、今更どんなに言葉を尽くしても、それは太陽の周りを回る地球のように本心の周囲を円環状に廻るばかりで、 本来、辿り着けたはずの場所に辿り着けないかもしれないけれど、 それでも、彼の話したい話を、どんなに下らない話だろうと、どんなにつまらぬ噂話だろうと、耳を傾けたいと藍染は思った。 「えっ?」 呆然と藍染を見た市丸の顔が、徐々に警戒の色へと染まっていく。 それはそのまま、市丸における藍染観を如実に示しているのだろうと、苦い感慨を藍染は覚える。 「そうじゃない。そういう意味じゃない。ただ、ここで君と話がしたいんだ、今日は」 そう言うと、市丸は表情を消し、静かに藍染を見た。 嘲笑われることを覚悟していたが、市丸は笑わなかった。 代わりに彼は、強張っていた表情を緩ませ、穏やかな表情を作った。 |