唇を窄め、そっと息を吹きかけると、水はゆらゆらと揺らめき、窓辺から刺し込む太陽の光を乱反射させながら、己の皮膚にいくつもの美しい環を描いた。 あまりにも透明で、あまりにも輝かしいこの水が、安っぽいガラスに容易く収められてしまうことが、藍染には不可思議でならない。 そもそも、なぜ、よりによって、この水はこの場所に来てしまったのだろう? かつては自然の中で、大きな体で思う存分身をくねらせていたはずなのに、切り分けられ、水泡をたっぷり含んだ不出来な水差しに収められ、荒んだ空気が支配するこの部屋に運ばれ、何の情緒もない単一的なグラスに注ぎ込まれている彼乃至彼女の現状が、藍染は憐れでしかたがない。 冷えた水は生暖かい外気との温度差から、水滴をグラスに浮かばせていたが、藍染は再び、その表面にそっと息を吹きかける。 すでに腐りつつある水の生を蘇らせるかのように。 がさりと背後で衣擦れの音がしたが、藍染は振り向けなかった。 こんなふうに水を哀れみ、慈しむ己の欺瞞が、振り返った途端に明らかになることを恐れたのだ。 ともすれば脳裏に描いてしまいそうになる今の彼の現状を振り払うため、藍染は先ほどまで愛おしんでいたはずの、手にしたグラスの中の水を一気に喉に流し込んだ。 冷えすぎた水は藍染のこめかみに名状しがたい痛みを齎す。 だが、頭に浮かびかけた彼のイメージは、その痛みのおかげで霧散し、藍染はしばらく、こめかみで疼く痛みにだけ集中していられた。 しかし、それはあくまで一時的な痛みであり、長らく続くわけではない。 痛みは静かに去り続け、慌てた藍染は、完全にそれが消えてしまう前に、また同じ現象を己のこめかみに引き起こそうと、再び水差しへと手を伸ばす。 だが、右脇から伸ばされた白い腕によって、それはあっさりと阻まれた。 今更のように藍染はその手首に絡みつく痣を見咎め、慄然と体を強張らせる。 痣の主が水をグラスに注ぎ込む音が、妙に鮮やかに聞こえた。 次いで彼は間髪入れずに喉を鳴らして一息に水を飲み干し、小さく吐息を漏らした。 彼によって水差しを奪われたその瞬間に、彼の腕が自分の前を過ぎた瞬間に、藍染は彼を振り返っておくべきだったと後悔した。 振り返るべきタイミングを逃した藍染は、窓から煌々と差し込む光に見とれたふりをして、身を強張らせている他、取るべき行動を見出せない。それが、明らかに意識しすぎた態度だと承知しながらも。 右首筋に、彼の視線を感じた気がして、藍染は体を慄かせた。 しかし、それは一瞬のことに過ぎなかった。 傍らの彼は再び水をグラスに注ぎ込む音を立て、一息に水を呷る音を立て、小さく吐息を漏らす音を立て終えると、再び、藍染の背後に横たわる世界へ戻っていこうとする。 「どうして」 彼をあの世界に戻してはならない。 そんな衝動に駆られた藍染が反射的に口を開くと、藍染自身思いもしなかった言葉が、唇から零れ落ちた。 途端、がさがさと糊の利きすぎたシーツを踏む彼の足音が止まる。 「どうして、君はそうやって僕を追い詰める?」 いつ藍染に、彼に襲い掛かり、押し潰し、踏みにじってもおかしくないほどの凶暴性を孕んだ背後の世界。 しかしそれは、先ほどまで他ならぬ自分が彼に向けて発散した感情の残滓であることを、藍染は痛いほど知っていた。 だからこそ、それでもそこに再び身を浸そうとする彼の思考回路を藍染は量りかねた。 「追い詰める?僕が、あなたを?」 しばらくの沈黙の後、背後から市丸は呟いた。その語尾は笑いに堪えるかのような震えを帯びている。 果たして、えづくように喉を鳴らしたかと思うと、爆発的に彼は笑い出した。 その金属的な笑い声は、藍染の脳髄を暴力的に侵す。 ……そう、先刻の自分と同じだけの残虐さで。 「おもしろいこと、言わはりますな。僕があなたを追い詰めると?」 彼の笑いはもっともだ。 頭の芯でぼんやりとそう考えながら、藍染がなけなしの勇気を振り絞って市丸を振り返ると、彼の乱れた着物からはみ出たいくつもの痣や痕や傷が目に付いた。 そのさまざまな形状で彼の皮膚に浮かび上がるそれらにまず視線を寄せた自分自身を、藍染は冷笑する。 疚しいという感情が働くから、振り向いた瞬間に何より気がかりなものへと視線を走らせたのだろう。 もしも自然に踵を返していれば、いの一番に彼の眉の辺りが視線に入るはずだから。 そう、彼の体に散るそれらはすべて、この自分が今さっき、彼につけたものである以上、追い詰めているのは彼ではなく、寧ろ自分の方に違いない。市丸が笑うのも当然だ。 ……だが、恐ろしかったのだ。 内心でそう言い訳を繰りながら、藍染は彼の痣や傷から目を逸らす。 つい先日、見事なまでにあの変態男の相手を務めた後、すました顔でひたすら日本酒を呷っていた彼の姿が。 彼が最後に投げかけた、あの残酷な台詞が。 「僕は君に酷い選択を強いてきた。それは申し訳ないと思っている。だが、君はそれに反論するどころか、黙って従うだけだ。そうしてその結果、僕を縛り付けている」 笑いを収束させ、市丸は無表情に藍染を見た。 「更にこんな目に遭わされてもまだ、君は僕を責める気はないのか?」 そうだ、ずっと責めてほしかったのだ。 否が応にも、藍染は悟らざるをえない。 酷い行為で市丸の身を窶そうとするこの自分を、酷い行為に身を委ねようとする市丸自身を、責めてほしかった。 人間として、同等の存在として、責めたててほしかったのだ。 「せやかて、あなたが求めてはるんやないですか。目に見えて憐れで不幸な存在を」 藍染を見返す市丸の顔は、白く無機質な色を帯びていた。 ただ目の下に残る殴られた際に付いたとおぼしき小さな傷口が唯一、赤い血液を僅かに滲ませることで、彼の中にも紛れもなく命が宿っていることをアピールしている。 元来、市丸の肌質は白くきめ細かである分、その赤い点はひどく目立った。 ……その傷口は物言わぬ主の代わりに藍染を責め立てる役目を担うために、そもそも市丸の頬と目の間に生まれたのではないか。 藍染はそんな奇妙な錯覚に陥った。 「あなたは、僕を不幸で憐れで手を差し伸べたい存在やと思いたいんやろ?」 傷口に心を奪われていた藍染は、市丸の吐き出した言葉の意味をやっと理解し、思わず瞠目する。 「僕がそないな存在やと、そう定義しさえすれば、あなたが常々感じてはるいろいろな罪悪感が、とりあえず収まるんやろ?」 彼は、いったい何の話をしているのだろう? 藍染は絶句し、珍しく矢継ぎ早に言葉を繰り出す市丸の薄い唇をただ見つめた。 「それなら、僕は不幸でかまへんと思うてます」 しかし言葉を失った藍染を残酷に無視した市丸は淑やかさすら滲ませた笑みをつと浮かべた。 その瞬間、藍染に覆い被さった暗澹たる思いは、絶望という言葉が孕む響きとよく似ていた。 なぜ、彼は他でもない自分の人生を藍染に決定づけさせようとするのだ? 市丸から目を背けるために瞳を閉じようとした藍染だったが、目敏い市丸の視線が気になるあまりにその単純な行為すらもままならない。 そのため藍染は、ぐらぐらと揺らぐ脳髄の体制と立て直すため、寧ろその混乱の根幹を見据えるべく、大きく目を見開いた。 ……彼は彼の生を生きるために、この世に生まれ落ちたはずだ。 それは紛れもなく彼だけの生であり、関わることはあっても他人が干渉すべきではないはずだ。 そうでなければ、自分という個が失われてしまうから。 なのに、彼はなぜ、自ら進んでそれを放棄しようというのか。 「僕がなぜ、君の人生を判断しなければならないんだ?おかしいだろう?そう思わないか?」 「なぜ?」 藍染の必死の問いかけに、市丸は心の底から不思議そうな顔をした。 「別にかまへんから、かまへんと言うて、どこがおかしいんですか?」 まるで、文化の異なる人間と話しているかのようなもどかしさが藍染を包む。 喉から漏れそうになる悲嘆を藍染は無理やり飲み込んだ。 「人にそうやって自分の人生を委ねようとするなんて、君は卑怯だ」 反論の術を奪われた藍染が思わず彼をそう面罵すると、ふと、市丸の表情が極めて剣呑な色を帯びた。 薄ら笑いですべての事象を受け流すことに長けた市丸らしからぬ感情の奔出は、藍染にたじろぎと、場違いながらも、微弱な、はっきりとした歓喜の念を齎した。 今まで掴みかねていた彼の本心の一端を、掴んだような感覚。 それは、常に日頃、藍染が何よりも望みながらも、ついぞ得られなかったものだった。 「不幸か否かなんて、畢竟、個人的な見解でしかないでしょう? そないなこと言わはるなら、逆に僕を不幸に追いやるあなたの方こそ、僕をええように使ってはるやないですか」 「……えっ?」 だが、そんな内心の快哉も一瞬のことだった。 立て続けに吐き出された市丸の言葉を受け止めた己の唇から、呆けたような吐息が飛び出し、市丸へとひた走る様を、藍染はぼんやりと眺めた。 「あなたはかつての僕と出会い、僕のような子供が苦しむことのない世界を実現するために、虚と死神の世界の境界線を取っ払おうと思うてはる。ええ話や。美談この上ない。 せやから、その記号論的存在として、僕をお側に置こうと思いつかはったわけや」 一息にそう言い放った市丸は、しかしどこか苦しげに顔を歪め、視線を足元に広がる白すぎるシーツへと落とした。 それは違う。 脳裏に閃いたその否定の衝動を、藍染は言語化しようと口を開く。 「ギン、それは……」 だが、違うと言いかけた藍染は、理性という膜で声帯を塞がれるのを感じる。 本当に違うと言い切れるのだろうか、胸を張って? 自分の選択肢に、何ひとつ自信が持てない今、藍染はそんな短い否定の文句を口することさえ躊躇われた。 次いで全身をくまなく回りだした暗鬼を、藍染は抑える術を見出せない。 そもそも、神の名にふさわしい何かを持ち得ていない自分が、 そうと自覚しているが故に、予め、無意識的に彼をそのように規定していたのではないのだろうか。 かつて覚えた義憤という衝動を保ち続けるために。自分の中の正義を喚起し続けるために。 何らかの理由づけをしては、今まで必要以上に彼を傷つけ、苦しめてきたのは、とどのつまり彼を幸福にしないためであったのではないか。 そうでなければ、彼に過剰な痛みを背負わせようとする自分自身の説明がつかない。 それとも、この自分の中に、今まで気づかなかっただけで、そうした趣向を好む性質が眠っていたのではないだろうか。 あの男と同じように、相手を苛み、それによって快感を覚える嗜好の持ち主であったのではないだろうか。 この身を削る罪悪感をも、己の快楽を増幅させるスイッチのような役割を担っているのではないだろうか。 そうでなければ、己も、そして彼も、望んでいないはずの行為に進んで没しようとは露ぞ思わないはずだ。 ……堂々巡りの末、思考は散り散りに砕けていく。 「……そら、僕は現世でも流魂街でもしんどい暮らしてたかもわかりません。せやけど、あなたが想像してはるよりはずっと、僕は自分を不幸やと思うてへんかった」 言葉に詰まった藍染をしげしげと見つめていた市丸がやがてため息を漏らすと、頬の赤い点も一緒に動いた。 「あなたにとっては、僕が本当に不幸かどうかなんて二の次なんや。あなたは、不幸で哀れな存在が旗印として欲しいだけで、たまたま白羽の矢が立ったんが僕だっただけやろ? 僕が選ばれた理由なんか、結局、それだけなんやろ?僕自身は関係ないんやろ?」 藍染が注視していた目の下の傷に、不意に市丸は無造作に触れた。 藍染は、その瞬間、動揺しかけた自分を極めて暴力的に抑えつけた。 市丸は藍染の足元から頭頂部まで掬い上げるようにして眺め、ふと微かに笑んだ。 「傷はすぐ消えます。こないなもん、別にどうってことあらへん」 彼のそんな仕草や目線は、ついさっきまで己の罪の象徴であったそれを、市丸との絡み合わない会話から目を背けるための現実逃避の材料へと貶めようとしていたという自覚を藍染に促しているようだった。 今更のように、どんな状況でも救いの主を作り出そうとする醜い己の心の動きが、藍染に吐き気を催させる。 彼の全身に飛び散る痣や傷は、確かに自分が付けたものなのに、確かにそれは悪どい行為であるはずなのに、 隙あらばどんな事象をもそこから目を背けるための理由にしてしまおうとする、己の卑劣さ。 悪循環を辿ろうとする思考を堰き止めるべく、藍染は大きく息を吸い込む。 ……そう、彼の言うとおり、傷はいつかは消えるかもしれない。 だからといって、自由を奪われ、自分を思うように蹂躙された経験を消し去ることなんてできるわけがない。 自分の意志では選べない何かに覆い被さられ、どんなに悲鳴を上げたところで救いの手が来ないその無力感は。 彼の痛みを想像し、そのおぞましさに震え、だからこそ、彼を、彼のごとき存在を救いたいと願ったはずなのに、 いつしか自分は彼を押し潰す存在と同じものになっている。 なんてことない風を装って彼が傷に触れ、笑うのは、藍染にその現実を改めて突きつけるためなのだ。 「僕はいつまで、あなたのイメージする不幸に身を呈さなければあかんのです?」 だが、断罪するかのようだった声調から一転、市丸は寧ろ弱さを滲ませた細い声音でそう言って、目を伏せた。 「どうすれば、不幸な存在のシンボル以外の目で、僕を見てもらえるんです?」 ……かつてないほどの切実さで染め上げられた最後の市丸の一言に、藍染の胸は締め付けられたように痛んだ。 散々、藍染の罪を責め立てながら、最後の最後に救いの手を差し伸べる市丸の薄っぺらい優しさの真意などひとつしかない。 ――そして今度こそ完全に、この僕と心中するための布石を敷くつもりか。 その認識は、藍染には苦い感慨しか与えない。 ――お前は、この僕のことなど、まるで愛してなどいないというのに。 不意に藍染の胸中でのっそりと立ち上がった言葉が、今までずっと目を逸らしてきた真実が、藍染を打ちのめす。 必死でその実情から目を背けようとするが、その暴力的な力には到底太刀打ちできない。 ……本当は演技だってかまわないと思っていた。 彼が望むのであれば、彼の望むとおりに自分の生を規定することなど容易いことのように思えた。 それによって彼に必要とされるのであれば。 せっかく彼が吐き出してくれた作りこまれた切実なる声で我が目を眩ませようとしても、唯一冷静な彼の目が藍染を現実に呼び戻す。 いっそ、彼が稀代の嘘つきならよかった。 釈迦の手の中で得意満面に大立ち回りを繰り広げた孫悟空のごとくに、彼の嘘の中で踊り狂えてしまえばよかった。 自分だけを欲してほしかったのだ、自分が市丸を欲したのと同じくらいに。 だけど自分を見る彼の目の中には、いつだって他の誰かの影がちらちらしている。 彼は最終的に選んだのは、この自分なのかもしれないが、だからといって、それは彼が自ら進んで選んだわけではない。 いちばん好意的に解釈したところで、かつての恩義が彼の目を曇らせたにすぎないのだということを、藍染は重々自覚している。 彼に愛されたかった。彼に必要とされたかった。 ある種の革命と言い換えられるかもしれないこの造反に、愛など恋などというつまらぬ感情を持ち込んではならないことは承知している。 だが、1人で突き進むには厳しすぎるこの修羅の道を、彼を伴って歩いていきたかった。 己が凡庸な存在でしかないことを誰よりも深く自覚していたからこそ、彼といつまでも共にありたかったのだ。 もしくはいっそ、彼の望むとおり、自分が稀代の革命家にであればよかった。 そうすれば、昂然と面を上げ、茨の道を1人、歩んでいくこともできただろうに。 己を捨て去り、革命そのものに同化してしまえれば、彼の思いがどこに向かっていようと心が痛む余地などなかっただろうに。 「ホンマ、あなたの中の僕の像が恐ろしくてたまらんのですよ、藍染さん。あなたは僕をどんな策略家だと思ってはるんです?」 市丸は顔を伏せたまま面を上げようとしない。 「藍染さん、あなたは僕を買いかぶりすぎとちゃいますか?僕は藍染さんが思うてはるほど、頭がええわけでもなければ、冷酷なわけでもないです。僕はただの人間にすぎません。僕はあなたが望むような、あなたが僕が望んでると思うてはるような、 壮大な世界なんて求めてへんのです。僕が本当に望んでるのは……」 まるで託宣を告げるかのような厳かな口調で、市丸はゆっくりと宣う。 「目の前の世界だけです」 市丸は口を噤み、彼が最後に口にした言葉の本当の意味を計りかねた藍染も黙す。 途端、室内は、凄まじさすら覚えるほどの静寂に没した。 不意に、窓の外から、女のけたたましい笑い声が流れ込み、あっさり止んだ。 その効果的な声のせいで、ますます室内は水が満たされでもしたかのような、重く息苦しい沈黙に支配された。 たゆたう見えない水に耳を塞さがれ、何の音も聞こえない。 ある意味、何か重要な一言を口にするには絶好のシチュエーションともいえたが、藍染は何も言うべきことを見出せなかった。 彼にかける言葉など、すでに見失っている。 彼は藍染に付き従うことを決め、そのために充分すぎるほどの働きをしてきてくれたことは事実だ。 自分を欲してくれない事実を突きつけられている現状で、彼にかける言葉など労い以外にあるだろうか? ……やがて、市丸はひどく長い溜息を漏らした。 それをきっかけに、まるで永遠とも思えるほど長く濃密な沈黙は終わりを告げた。 |