中央地下議事堂へと足を踏み入れた藍染は、いつもの慣習に則って、ぐるりと辺りを見回した。
思い思いの姿勢で死ぬ46人の、1人1人をゆっくりと目の中に強く焼き付けていく。
そうして46人目の死骸まで見終えると、藍染は頭を傾げ、待つ。
己の中でもたげてくるはずの、わめき出したくなるほどの、何かの思いを。


一昨日より、昨日より、確実に死は進化していた。
かつては生々しく赤かった血液も褐色のカサカサした固体へと変貌を遂げ、かつては苦悶に満ちていたデスマスクも作り物めいた空々しいものへと変化していく。
そんな風に日々移ろいゆく死の姿は藍染に、死しても尚、人には未来があるのだという感慨を抱かせる。
生まれながらにして孕んでいる虚しさや儚さを暴かれながら、物化の一途を辿るという未来が。
その一方で藍染は、死ししても尚、終われずにいる痛ましくも哀れな彼らを、どこかを安堵をもって眺める自分に気づいていた。
彼らの物質化は、藍染が彼らの死に関し徹頭徹尾感じてきた他人事めいた印象に対する不安感をあっけなく希釈する。
徐々に人から物へと変化を遂げていく、そんな彼らに対してならば、この自分の感じなさをいくら受け入れてもかまわないような気がするのだ。
……自分で殺したというのに、彼らの肉を絶つ感覚も掌にはっきり感じたはずなのに、彼らの血潮を肌に感じたはずなのに、彼らの悲鳴を耳で聞いたはずなのに、一向に我が身を苛まなかった罪悪感。
46人の人間を殺した高揚感も既に冷めたはずなのに、その感情は未だ藍染から湧くことはなく、日々、そんな自分自身に対してうそ寒さを募らせるばかりだった。
寧ろ、彼らを殺戮したという現実をも、何でもない日常の断片として嚥下しつつあることに対する漠然とした嫌悪感が、何度となく藍染の肌を撫でる。
だがその一方で、藍染は気づいていた。
己の感じなさに対する嫌悪故、自発的に始めたこの行為も結局、何ひとつ得るものがないまま、機械的な動きと化してしまうだろうと。
淡々と習慣的に彼らを見回し、いつしか衝動を待つという本来の目的を思い出すことなく、無意識的に頭を垂れる日が来るだろうと。
そして、そのことに薄々気づいていながらも、こうして頭を垂れることで何かを誤魔化そうとする自分の浅ましさと。
……追い立てられるように、藍染は頭を上げた。
「交代の時間だ」
この顔を俯けるという行為が、市丸にとって、マイナスの感情を引き起こすことこそあれ、 決してプラスの感情を引き起こすことはないだろう。
そんな想像から藍染は、いつもより一段低い声で、自分のイメージする託宣を告げる神の声を擬態する。
だが、誰とも知れぬ1つの死体の前で物思いに耽っていたらしい市丸は、どうやら藍染の 慣習を一瞥たりともしていなかったようだ。
弾かれたように振り返った彼の、藍染へと向ける眼差しは、どこかぼんやりとしている。
「どうしたんだい?」
普段と様子が違う市丸の様子を訝り、藍染は問うた。
「名前を」
市丸は眼差し同様ぼんやりとした声で呟いた。
「名前?」
「……この人の名前を、思い出そうとしてただけです」
思わず藍染が問い返すと、我に返ったらしい市丸は顔を顰め、吐き捨てるように早口でそう言った。
「名前を……」
ゆっくりと噛み締めるように藍染は彼の言葉を反芻し、絶句した。
市丸がこのような行動をとるとは、思いもかけないことだった。
常に冷静かつ冷酷かつ自分本位な言で藍染を追い詰める彼が、 彼らの死を悼むなど、想像すらしていなかった。
……ゆるりと、藍染の中で黒い感情が立ち上がり始める。
市丸は藍染が願っても手に入れられなかった罪悪感を手に入れているのだろうか?
だから、彼ら1人1人に向かい合って、名前を思い出そうと試みているのだろうか?
まるで墓標を立てるかのように。
「優しいんだな」
不快感のせいで、藍染の声は尖ったものになった。
だが、市丸はくっと喉を鳴らした。
「それは、藍染さん、あなたですやろ?」
「……何を言い出すかと思ったら」
「僕があなたの負を背負うんです。せやから、なんも心配もせんでええんです」
市丸は、机に貼りついた誰かの乾き切った血を爪先でカリカリとこそげ落としながら、静かに呟いた。
「……何の話をしているんだ?」
「僕の欲望の話です」
意味不明の言葉を吐いた市丸を藍染が訝ると、市丸は唐突に藍染の胸元を掴んだ。
か細いその体躯とは裏腹に彼の力は強く、不意打ちということもあって、やすやすと藍染は市丸に身を引き寄せられる。
彼の指先が頬に伸びた瞬間、指紋の狭間に入り込んだ誰とも知れぬ血の粉が、鮮やかに藍染の目を焼いた。
これは罪悪感から派生した狂熱の一種なのだろう。
市丸の唇が己の唇を塞いだ瞬間、藍染の脳裏に浮かんだものはそんな冷めた感慨だった。
かつて何度と無く彼と体を重ねたが、彼は決して自ら進んで藍染を求めたことがない以上、 彼が行った初めての自発的な行為の起因なんて、それくらいしか思いつかなかった。
市丸は、彼らに対する罪悪感が熱した挙句の高揚感に突き動かされ、我を忘れているに違いない。
「怖いんでしょう?後悔しない自分が」
藍染から身を離すと、市丸は藍染の内心を的確に指摘した挙句、藍染が抱える不安がつまらぬものだと示すかのように軽やかな笑い声を立てさえした。
「人でなしになるんが恐ろしいっちゅうんなら、それはおかしなことですよ。 僕らがなろうとしてるんは、ホンマに人としての境界線を超えるわけですから。 今更、良心なんてもんが、何の助けになるんです?」
彼の指摘は、一部において正しいと藍染は思う。
死神と虚の境界線を超えることを目論んでいる以上、死神でも虚でもない存在へと変貌する以上、 死神界にいた時分に得た常識は、すべて一新されなければならない。
それは当然のように流魂街の下層に住まわされ、誰からも省みられない幼子たちを救うという当初の目的から鑑みても必定であり、一方でそれを有効とするのであれば、 新しい世界の頂点に立つはずの自分が規定したことがすべて、この世の常識になる必要がある。
つまり、死神という限界を超えて新世界を創り出すからには、死神時代には当然と思われた常識すらも、 採用するにあたっては改めて現状維持を宣言せねばならないということであり、極論を言ってしまえば、藍染が思ったこと、行ったことは、すべて許されてしまうのだ。
……人のものを盗んではならないとか、人を傷つけてはならないとか、人の悪口を言ってはならないとか、 そういった類のものはすべて、祖父母から親へ、親から子へ刷り込まれてきたものにすぎないのかもしれない。
字面だけをただ眺めれば、良いことも悪いこともすべて「ただの行為」にすぎず、 あとはおのおのの内部に眠るそうした子供時からの刷り込みや人と接して学び取ってきた経験によって、 培ってきたものでしかないのかもしれない。
良心など常識や伝統と同義と言い切ってしまってさしつかえないのかもしれない。
だが、良心の頸城を超えてしまったら、己を己自身で律する以外方法はなく、だが、己で己自身を律することは、実はとても難しい。
同胞を殺してしまえる獣や昆虫の種族すらも、ある一定の体系によって整然と生きているのである以上、 人の体系を超えた藍染が犯した殺人と、例えばある種の獣の同胞殺しは、根本的に違うのだ。
……すべてを己の欲望のままに事を行うことがどういうことなのか、藍染に付き従うと心に決めてしまった市丸には、一生わかり得ないことだろう。
46人を殺戮したことに罪悪感すら覚えない自分が、ピラミッドの頂点になる資格などあるのだろうか?
そもそも、人ですらない、獣ですらない、昆虫ですらない、すべての生物の頸城を超えた自分はなんなのだ?
本当に自分は高みに上っているのか?
ただ、転落しただけに過ぎないのではないか?
とどのつまり、神とは、すべてを否定しつくす存在なのか?
それとも、自分が辿り着いた所は、間違った場所なのだろうか?
……膨大な疑問が常に頭を巡り、吐き気すら催す。
「僕は何も後悔してへん。ただ、藍染さんが後悔したくてもできひんのやと思うたから、僕が代わりに後悔しようと思うただけです」
市丸は笑った。
「せやから……」
静かにそう囁き、藍染の中に眠るすべての負の感情の吐き出し口を、彼は再び静かに塞ぐ。
口元でそよぐ、耳触りのいい柔らかい声の響きと裏腹に、彼の真意は残酷この上ない。
この自分には、負の感情など不必要だという強制。
だが、既に己の前に伸びる道は、目の前にある彼の真意に従うという一本道しかない。
……だから藍染は、喉元で燻る弱音の文句を、ひと思いに飲み下した。
その味は思いの他甘露の味わいで、藍染は思わず目を閉じる。
顎先に感じる市丸の吐息と相俟って、苦悩に縛られていた脳が徐々に麻痺していく。
まるで最後の悪あがきのように藍染は自嘲の笑みを浮かべようとしたが、それも甘い痺れに冒され、 うまくいかなかった。
こうして自分はゆっくりと人ではない何者かになっていくのか。
だとすれば、せめて、眼前にあるこの一本道が神へと至る道ならばいい。
藍染は半ば祈りを捧げるように内心で切実にそう願い、市丸の唇の感触を目を閉じて反芻した。





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