いつまでも一緒にいられないことは、漠然とわかっていた。 擬似家族を形成している他の人々のように貧しいながらも明るい生活さえ送れればそれでよかったのだけれど、しかし、そうするためには、2人はあまりに腹が空きすぎていた。 ……傍らで、微かに腹の鳴る音がする。 それは、ざわめきが支配してくれさえいたら気づくことなどないような僅かな音であったが、 半ば強引に眠りの世界へ移行しようとしていたこの家の中ではどうしても響いてしまう。 自分の左側に横たわる彼女が体を強張らせたことが気配でわかったが、市丸はどうすることもできず、元より閉じていた瞼に更に力を込めた。 ……空腹である以上、腹が鳴るのは仕方のないことだ。 そう慰めたところで、彼女の罪悪感が濃くなることはあれ、薄まることは決してない。 そして、この自分の罪悪感をも。 だとすればもはや、眠ったふりをする以外の主体的な行動を、市丸はとれるはずもなかった。 ……だが、しばらくの空白ののち、傍らの彼女が不意にがさりと衣擦れの音を立てて起き上がる気配がしたので、市丸は目を開ける。 正直、見たくもない。取り繕うように作り笑いを浮かべる彼女の姿など。 しかし、受け止めなければならない。何より、傷を舐めあうことを彼女が求めているのであれば。 「……鳴っちゃった」 胃の辺りを抑えながら、松本は恥ずかしそうに目を細めて微笑む。 だが、その目は決して笑ってはいず、ひたすら謝罪の念で濡れている。 ……辛うじて、夜といえるこの時間。 眠るにはいささか早すぎる時刻ではあったが、食料が手に入らなかったときは、 空腹に耐えかねながら、そうとは言い出せず、なんとなく眠ることにする。 それは、いつのまにかできあがった、市丸と松本の暗黙の了解だった。 ……それに対する返答を一刻も早く吐き出さねばならない。彼女を傷つけないためには。 焦燥感に駆りたてられるがままに市丸は口を開いたが、 未だ脳髄からは最適な返答を引きずり出せていないまま、不用意に返答の意志を示してしまった自分の愚かしさにやがて市丸は気づいた。 これでは彼女に捧げる言葉を口にするリミットを早めただけではないか。 内心で自嘲しながら、市丸は馬鹿みたいにぽかんと口を開いたまま身じろぎ一つできずにいた。 ……まるで磁石に吸い寄せられる鉄のごとくに彼女の視線が自分の唇を張り付く。その期待感に満ちた眼差しは市丸に痛みすら感じさせる。 だが、この家で澱む罪の空気に嬲られるばかりの脆弱な己の唇が一方的に乾かされていく感覚を味わいながら、何ひとつそれに抗うことのできない自分を、そして何ひとつ彼女に対してかける言葉を見出せない自分を 市丸は呪うより他なかった。 「ごめん」 しばらくの沈黙の後、松本が投げ捨てるようにそう呟いて顔を歪めたが、その様を市丸は直視できなかった。 整った面立ちの彼女がそうした表情を浮かべても、痛ましさが増すばかりだ。 「ええって」 やっと吐き出せた単純な慰めの文句すら、喉元深くに突き刺さる慙愧の念をが邪魔をしたせいで、ひしゃげていた。 ……そして、いつの頃からか、こうして腹が鳴るたびに、松本は謝るようになった。 食料を調達することすら運が左右する今の生活。 食べられないということは、市丸が食料を持ち帰られなかったことと同義であり、 松本は腹の鳴る音で、それを責めていると思われるのが嫌なのだろう。 ひどくふがいない。 食料すら満足に得られない自分が。 「……あのさ」 今さっき顔を歪めてしまった己を恥らうように、小さな声で松本は囁き、上目遣いに市丸の顔色を窺いながら恐る恐る言葉を紡ぐ。 「やっぱり私も行くよ、ギンと一緒に。その……」 「ダメや」 市丸は、思わず返す声がきつくなったことを自覚する。 そして、その事実を裏付けるように、松本はぎくりと肩を震わせ、 「……ごめん」 掠れた声で再び、謝った。 「謝らんでええ。僕が、ちゃんと食料を持って帰れへんのが悪いんや。ごめんな、乱菊。明日は、必ず持って帰ってくるからな」 そう、彼女の罪悪感はすべて自分が起因しているのだ。 内心で市丸は臍を噛む。 自分が食料を確実に確保できていれば、彼女が気を病む事柄など一切なくなるのだ。 自分の不甲斐なさが解消されさえすれば、彼女は自分の言葉の効果を気に病んでは不安げに自分の顔色を窺ったり、腹が鳴ったくらいでおろおろしたり する必要などなく、いつでも明るく微笑んでいられるのだ。 「違う!そんなことは、別にいいの。お腹なんか空いたって、私は平気なんだから!」 松本は苛立ったように声を荒げた。 「なんかおかしいじゃない、こういうの。何もかもあんたに任せっぱなしで……」 語尾は悲しげな響きを纏い、澱んだこの家の空気に紛れていく。 「おかしくなんかない。乱菊は気にせんでええんや。これは、僕の意地なんやから」 まだ物言いたげな様子の松本を拒絶するために、市丸はにっこり微笑みかけると、 「おやすみ」 暗に眠ると宣言し、身を横たえて目を閉じた。 ……もはや数え切れぬほど繰り返される会話。 それでも、彼女を食料調達に伴いたくはない理由、それはただの意地だった。 どこかから奪ってくるとか、見知らぬ人との乱闘の末に勝ち取るとか、 そういうことを松本にしてほしくないだけの。 そして、そういうことをしている自分の姿を、松本に見られたくないだけの。 「ねえ、ギン」 鼻先に、柔らかな風が触れる。 「あたしが、今つらいと思ってるのは、お腹が空いてるからじゃないの。……確かにお腹は空いてるけど、でも何より、 ギンがあたしのためにいろいろしてくれてるように、あたしもギンのために何かしたいのに、できないのがつらいの」 次いで、ぽたりと市丸の口の端に熱くて冷たい液体が落ちた。 唇の隙間をすりぬけて侵入してきたそれは、微かに塩辛い。 「僕は、乱菊が一緒にいてくれるだけでええんや」 「……そんなの、わかんない」 紛うことなき本心を口にしたつもりだったが、松本は悲しげにそれを理解することを拒絶した。 市丸が何の反応も返さずにいると、微かな溜息が市丸の睫毛をそよがせた。 「馬鹿」 呻くように一言、彼女はそう呟き、がさりと身を横たえる音がした。 そしてまた室内は静けさを取り戻した。 市丸の、そして松本の感情を食い散らかして、ひどく満足げに。 かつて、市丸も擬似家族の一員であったことがあった。 仮の父も仮の母も優しく、仮の兄弟たちとも喧嘩をすることがあっても基本的には仲がよかった。 ひどく貧しい生活だったが、とりたてて不満はなかった。 退屈な、それでいて平穏な、繰り返しの日常。 こうしてこの日常を生き、やがて消えていくのだろうと漠然と市丸は思っていた。 そして、その想像は、とりたてて悪いものではなかった。 だがある時、腹の辺りに違和感を覚えている自分に気づき、市丸は愕然とした。 いったい、この感覚は何なのだろう? しばらくの間、自分の中のこの未知なる感覚が求めているものがわからなかった。 だが、近隣の子供が嬉しげな表情で金平糖を口に運んでいるものを見た途端、恐ろしいほどの唾液の量とともに、 何よりも何かを口に入れることを欲している自分自身に気がついた。 何かを口の中に入れたい。 目一杯、口の中に何かを含んで、噛み砕きたい。 思うがまま、口の中のものを胃の中に流し込みたい。 その衝動は抑え切れるものではなかった。 実際、胃袋は自分の中を満たしてくれと醜い声で泣き喚き、市丸は強引に両掌を押しつけてその声を抑えようとしたが、 どうしてもその声に抗うことができなかった。 いや、胃だけの話ではない。 自分の中の全細胞が、何かを口に含み、咀嚼し、嚥下することを求めている。 だが、そんな衝動に囚われているのは、わざわざ首を廻らせるという余計なカロリーを費やしてまでして確かめずとも、家族の中で明らかに自分だけなのであり、 それに気づいた瞬間、市丸は仮とはいえ家族である者たちと自分の間に、某かの境界線を引かれたような気がした。 腹が鳴りそうなときは、大声を出したり歌ったりして気づかれないように努めた。 眠くても全員が寝静まるまで眠ることすらできなかった。 常人にとっては生命保全のための物質ではなく単なる嗜好品である食料を自分が求めることで貧しいこの家族に負担をかけたくなかったし、 何より特別な目で見られるのが嫌だった。 だから、できるだけ家から遠い場所に出かけ、食料を盗んでは食べていた。 だが、満腹になるまで食べられることはあっても、市丸を満たすのは何よりも疎外感だった。 食料がある以上、空腹を感じる人間も中にはいるのかもしれない。 だが、ほとんどの人間が食料を必要としない中、口の中に物を運び、噛み砕き、飲み干すという野蛮な行為を必要とする自分がひどく卑しい、歪んだ浅ましい人間のように思えてならなかった。 そんなとき、松本と出会ったのだ。 憔悴した様子で倒れ伏す彼女を偶然見つけ、持っていた食べ物を与えると、彼女は嬉しそうにそれを食べた。 彼女が物を食べるさまを眺めながら、市丸もまた嬉しかったのだ。そう、ひどく。 しかし、今やままごとのようなこんな生活も限界が近づいている事実に、市丸は気づき始めていた。 いつまでも、こんな生活をしていけるとは思えない。 実際、食料を手にすることができるのは1週間に2,3回程だし、かといって、子供である自分たちが手軽に金を得られるほどこの地区は裕福ではない。 何せ、仕事にあぶれた大人たちが、あちこちで溢れ返っているのだ。 子供である市丸が手にしている、力は、経験は、権力は、知恵は、大人のそれと比べてどうしても劣るという事実に何度も直面するうち、 演算機に放り込むまでもなく、彼女との生活は事実上不可能に近いという解が自動的に市丸の脳裏で導き出されてしまう。 例えば、何らかの職に就こうとしても、やはり子供である市丸は門前払いを食らわされてしまうし、 例えば、世間では嗜好品という呼ばれ方をするものの自分たちには生命を繋ぐ大事なエネルギーの塊も、 そのほとんどが大人たちの中で適当に分配されてしまうのだ。 ……もしかしたら松本は、擬似家族の中に迎え入れられた方が幸福なのではないだろうか。 明るく素直で愛くるしい松本ならば、市丸との生活と同じようにうまく、他の人間と生活できるだろう。 実際、松本の近所の評判も上々で、市丸のそれとはまるで違う。 市丸が外出していると大抵、某かのお裾分けが松本に届けられている事実をひくまでもなく、彼女は近隣の人々みんなに愛されていることは市丸にもわかっていた。 ……それは、ずっと前から考えていたことだった。 松本のためを思えば、恐らくそちらののほうが、ずっとずっといいはずなのだった。 それなのに、松本を手放せないのは自分のエゴイズムで、それ以上でもそれ以下でもないことを知りながらも、市丸は本来なら容易く導き出されるはずの 答えを見ないようにしてきた。 ……1人でいることに慣れなければいけない。 市丸は奥歯を噛み締め、暗い方向に考えが傾いているなと考える。 それは、きっと空腹のせいだ。 ……そう結論付けることで市丸は、いつもと同じように抱えている問題の結論を先送りにする。 ふと嫌な気配を感じ、市丸は我に返った。 いつのまにか辺りは薄暗く、周囲には、見覚えのない荒地が広がっている。 ……今度こそ確実に食料を得るためにふらふら歩き回るうちに、どうやら自分は町外れまで来てしまったようだ。 「え……?」 そして、目の前に立ち塞がるのは、仮面をつけた異形の存在。 「なんやの、これ?」 仮面の目の部分にぽっかりと開いた穴から覗く黒い光から自分に対する明らかな悪意を感じ取った市丸は、恐怖を押し潰そうと独りごちた。 そして、先ほどから背筋をビリビリと痺れさせる、嫌な予感。 化け物は、市丸の覚えた予感の正しさを高らかに宣言するかのように軽やかに、市丸の動揺を嘲笑うようにゆるやかに、飛翔した。 逃げなければ。 そう思うのに、まるで、地に縫い付けられでもしたように足が動かない。 思考は空転していた。 今、関係のないことばかりが、やたら思い浮かぶ。 ……以前、食料をどうにか調達した帰り、きらきら光る赤い髪留めが落ちていて、 松本に似合うだろうと思い拾って持って帰ったら、松本は嬉しそうに髪留めをつけ、 苦労の末に手に入れたまったく食料には目もくれず、嬉しいながらも少し切なかったことや、 自分が履いていた草鞋が壊れたとき、自分で直すと言ったのに、松本は譲らず、必死の形相でそれを直してくれたことや。 ――なんや、全部、乱菊のことやないか。 少しだけ冷静になった頭が、そう思った瞬間、自分は死ぬんだと市丸は肌で感じた。 ――ごめんな、乱菊。僕、死ぬみたいや。 市丸は少しだけ笑って、内心で松本に呟き、自分が死ぬ瞬間を見ないように目を閉じた。 死への恐怖を募らせながら。結論を己の力で導き出さずに済むことに些かほっとしながら。 まず、血の臭気が鼻を突いた。 次いで訪れるはずの痛覚を、市丸はぎゅっと目を閉じ、慄きながら待つ。 だが、いつまで待っても、痛みは市丸の体を襲おうとはしなかった。 痛みを感じずに死んだのなら、いいことだ。そう思いながら、恐る恐る市丸は目を開ける。 しかし、市丸の目が捉えたのは、すぐ目の前で先ほどの化け物がまさに血を撒き散らしながら消え行く様だった。 何が起きたのだろう? 現実を受け止め切れず、呆然としたまま、市丸が視線を転じると、化け物の傍らに新たな影があった。 それは刀を携え、黒い着物を纏った男だった。 男は厳しい眼差しで消え行く化け物の姿を凝視している。 ……ということは、自分は死んでないのか。 目の前に与えられた情報をかき集めた市丸は、ひとまずそう結論付け、胸をなでおろした。 ……正直な所、ひどく怖かったのだ。 「大丈夫かい?」 振り返りざまにそう尋ねた男が、不意に息を飲んだ。 「君は……。こんな所にいたのか」 「あれ?おっちゃん……」 目の前の男に、どこかで会ったような気がしたが、市丸はそれがどこだかは思い出せなかった。 「どこで会ったんやっけ?」 「待った」 穏やかな笑みを崩さぬままで男は市丸のそばに近づくと、そっと市丸の髪に触れる。 ふと鼻先を突いた香りは、市丸の記憶の喚起を煽るかのように甘い。 「思い出さないほうがいい」 だが、思い出そうと眉を潜めた市丸の表情を見つめた当の彼は、口調こそ穏やかだったものの、 厳しい目つきで市丸の過去への回帰を阻む。 そう言われると逆に申し訳なくなって、市丸は必死に頭を働かせたが、 記憶の一部に目隠しでもされたような不甲斐なさを感じるばかりだった。 「ごめんな、おっちゃん」 「かまわないよ。それより、また君に会えてよかった」 市丸が過去の記憶へ遡ることを断念したことを解したらしく、男はそれでいいんだとでもいうようにっこりと微笑み、 先ほどまで化け物がいた、今は何もない場所に向かって顎をしゃくってみせた。 「あれは虚といってね、元々は人間の魂だったものなんだ。彼か彼女かはわからないけれど、さまざまなきっかけで、ああいうふうになってしまった」 彼の悲しみに満ちた声は、市丸にかつて培ってきた疎外感を想像させた。 あれだけ恐ろしい思いをさせられたのに、彼の声はそれをすべてを忘れさせた上、寧ろ、 あの存在は飛び切り憐れな存在なのだと市丸に思わせるだけの強さを持っていた。 「なんや、かわいそうやな」 市丸があの存在に同情の念を表すると、男は深く頷き、そのためにずれてしまった眼鏡の位置を注意深く直した。 「そうなんだ。もしかしたら、第三者的要因が強いかもしれないからね」 「第三者的要因?」 「僕たちのことだよ」 遠くを見やり、男は厳しい口調で言った。 「彼らは、僕たちによって、きちんと尸魂界に導かれなかった魂である可能性もあるんだ。その場合、彼らに何の咎もない。彼らが苦しむのは、理由が忙しすぎて書類が捌き切れなかったためであろうと、書類の不備であろうと、僕たちの側に原因があるんだ。 そういうことが簡単に許されると思うかい?」 「話の途中で悪いんやけど」 彼の言葉の内容がさっぱり理解できなかった市丸は、おずおずと口を挟む。 「僕たちって何やの?」 男は、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑った。 「そうか、説明していなかったね。……僕は、死神なんだ」 「死神」 市丸は、機械的に男の言葉を反芻した。 死神という禍々しい響きと、目の前の男の穏やかな口調は、イコールで結び付けかねたのだ。 「さっき見たような虚と呼ばれる存在を倒したり、あとは人間の魂を、尸魂界に送ったりする。まあ、調整者みたいな存在かな」 「人間の魂を、送る……」 ふと、市丸の中で何かが弾ける音がした。 「ああ、もしかして、あんときのおっちゃん?僕をこっちに送ってくれた……」 困ったように、男は眉を顰めた。 「思い出させてしまったようだね」 「別にええよ。あんときは、おっちゃんに会うたおかげで、あんま悪い記憶にならへんかったし」 「それなら、いいのだけど」 気遣うような眼差しで男は市丸をしばらく見つめ、やがて溜息をついた。 「しかし、君がこんな地区にいるとは思わなかった……。こんなひどい地区に送ってしまって、本当にすまない」 あまりにも申し訳なさそうに言われ、寧ろ市丸は戸惑った。 「でも、おっちゃんのせいやないやろ?僕がくじ運ないせいやし。お腹が空くくらいや、困るのは」 「お腹が空く?」 男はふと、眉間に皺を寄せた。 「今もお腹が空いているのか?」 「うん」 素直に市丸が頷くと、男は懐から包みを取り出した。 「なら、これを食べるといい」 竹皮に包まれたそれを素直に受け取り、開くと、中から現れたのは、おいしそうな3つの握り飯だった。 「ええの?」 思わず、声が弾む。 「好きなだけ食べなさい」 男は微笑み、頷いた。 back / next
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