膝をきちんと揃えて正座し、両手をそっと両膝に添え、背筋を伸ばして目を伏せていると、そ の痩身と類い稀な肌の白さと相まって、彼は儚げで頼りなげに見えた。
先程から断続的に自分を襲う苛立ちは、彼がそうして猫かぶっているせいだと、藍染は結論づける。
彼は、少なくとも自分の知る彼は、こんな風に粛々たる顔をする人間ではないし、 もちろん、淑やかに顎を引いて、畳の目をじっと見つめるような人間ではない。
不遜な笑みを顔一面にべったりと貼り付けて、意味深な発言をおもちゃのように振り回しては、 この自分を惑わせることに何よりも長けているのだから。
……そう断定すれば、心の安定を取り戻せるものだと思っていたが、効き目があったのはほんの一瞬に過ぎなかった。 先程まで親しくしていた苛立ちは、違和感と焦燥感へと移り変わる。
より具体的になった内心の不安を、しかし藍染は攪拌するために舌先をきつく噛む。
これ以上のことは知りたくはないのだ。彼に対して自分が何を思っているかなんて、そんなこと。
「あなたに関しては、既に調査済みです」
噛み締めた舌をこれ以上痛ませないためにゆっくりと動かしてそう言葉を紡ぐと、 目の前の男は、恐怖に満ちた眼差しを藍染へと注ぎ、肩を揺らした。
核心に触れぬように配慮に配慮を重ねた挙句の口上だったが、意図せず自分は男に対し効果的な一撃を放ったようだ。
だが、まるで極刑を宣告された罪人のごとくに首を垂れた男を眺めながらも、藍染は傍らに控える彼の反応が 気がかりで堪らなかった。
彼にも、目の前の男と同じだけの打撃を与えたのだろうか?今の、どうやら裁判官のごとく 重々しく清く響いたらしい言葉によって?
振り返って確かめたい衝動に駆られたが、藍染は再び舌先を噛むことでその欲求を抑える。
一度振り返ってしまったが最後、すべてが無為化してしまいそうで恐ろしかったのだ。
ここまで築き上げてきた計画や、ここまでに払ってきた犠牲をすべて。
「今まではうまくもみ消してこられたのでしょうが、被害者にとっては忘れ得ない恐怖の記憶として、 脳裏に強く刻み付けているようです。従って、今まで、あなたは運がよかっただけだと言わねばなりません。 彼女たちは、あなたを訴えるより寧ろ、この恐怖を捨て去ることを何よりも望んでいます。 つまりは、忘れることを。しかし、このまま、あなたが同じような行為を望み、求めるのであれば、 いつかは上にも知られることでしょう。現に私の耳にも届いていることですから」
藍染はそこで、テーブルに置かれた猪口を取り上げ、傾けた
つるりと喉から胃へと流れ込んだ酒は、その道筋に沿って藍染の体を焼く。
品書きに書かれた値段はそれなりの額だったため、いい酒だというのは既に承知していたが、肝心の味がまるでわからない。
……そう自覚した途端、不安感が増した気がして、焦った藍染は空になったばかりの猪口を手に取りそうになったが、 右側から不意に差し出された徳利によってそれを阻まれた。
徳利を手にした市丸は、完全なる無表情で藍染の猪口を見つめながら、非常に注意深く酒を注ぎ込んだ。
彼の沈着極まりない所作を見つめているうちに、藍染は冷静さを取り戻していく。
しかし、その途端、藍染の脳裏に浮かんだものは、彼に対する、なぜ?という問いであった。
なぜ、彼はこれほど冷静でいられるのか?
なぜ、藍染の猪口に酒が無くなっていることにまで気を配る余裕があるのか?
彼にとっては何の痛痒もないということか?
……市丸は目の前の男に対しては冷たく一瞥しただけで、徳利をテーブルに戻した。
「さて、あなたがそれでも己の欲求を抑え切れずに苦しんでいるのであれば」
再び、酒で唇を濡らし、藍染は言った。
「我々から提案があります」
男は救いを求めるかのように面を上げる。
「ここにいる……」
先だって己が自ら提案した台詞。傍らの彼も肯じた台詞。従って躊躇うことなく口にしていい台詞のはずだった。
しかし、声が震えそうになり、藍染は言葉を切る。
傍らの市丸を今度こそまともに振り返ったが、市丸は相変わらず慎ましやかに目を伏せていて、視線を絡み合わせることすら叶わない。
君はそれでいいのか?
ほんの思いつきにすぎなかったこの自分の提案を、現実のものにしても構わないというのか?
……ともすれば声を荒げて彼を罵りそうになる自分を抑え、藍染は姿勢を正す。
君がそれでもいいというのなら、寧ろ、好都合だ。
そう己の右肩に向けて内心で囁いた後、藍染はゆっくりと唇を開く。
「うちの市丸に相手をさせましょう」
目の前の男は、不思議そうに藍染を見、次いで市丸を見た。
「彼はあなたの欲求に応える用意があります」
既にスタートの鐘は鳴らされた。己の手によって。しかし、内心に絡みつく蔦のごとき不安感は成長するばかりだった。
「見てのとおり、彼は男性ですが、あなたさえ否定しないのであれば、彼はあなたの要求に応えるでしょう。 もしも、あなたが条件を飲んでくださるのであれば」
まるで英語の直訳のような文章だ。藍染は己の文才の無さを鼻先で嘲笑い、今更のように、 市丸がこの不出来な文体にすら異を唱えなかったことに気づく。
相も変わらず市丸は、膝に両手を沿え、両膝をきちんと揃え、背筋を伸ばして目を伏せた体勢を、 崩してはいない。その儚げかつ頼りなげな雰囲気も。
目の前の男の、殺さないギリギリのラインまで性交相手を苛むその性質も、 それ故に被害者たちは増加の一途を辿り、訴えたいと願いながらも、中央四十六室を警護する隊の次席を 任じられた人間故に訴えかねているというその背景も、もちろん彼は承知している。
そして、そう知りつつも受け入れるだけの性癖を彼が持っていないこともまた、彼は重々承知している。
だが、彼は控えめに、ただひたすら目を伏せるばかりだ。
……必要だから、目の前の男の懐に収められている、四十六室へと至る鍵が必要だから、藍染は男を懐柔することを提案した。
市丸もまたそれが必要だから、目的が藍染と合致したから、あの時、藍染の提案に是を示した。
答えは既に出ている。明白なまでに。
だが、慎ましやかに目を伏せるばかりで、何の反応も示さない彼が気になってならない。
「……それで」
初めて、目の前の男が言葉を発する。その声はひどく掠れていた。
男は乾いた唇をゆっくりと舐める。その間、藍染は甘い期待に身を浸した。
例えば、いきなり怒鳴りつけられるというイメージ。
――君は私をなんだと思っているのだ?条件?いったいなんだかわからんが、そんなもの飲めるわけがなかろう。
例えば、嘲笑われるというイメージ。
――君はそうやって、下らぬことばかり考えているのだね。正直、失望したよ。
「条件とは、いったいなんだ?」
その生々しい響きで、藍染は我に返った。
目の前の男は今や欲望を全身に纏わせ、ちらちらと傍らの彼に値踏みするような視線を送っている。
しかし傍らの彼は身じろぎひとつせず、ひたすら眼を畳の目に沿わせ続けていた。
「…………」
言い淀んだ藍染は、再び、傍らの彼へと視線を送る。
目の前の男は視線を送るに足らぬ男に成り下がった今、藍染にとっても、 先程と寸分変わらず控えめな所作で傍らで座し続けている彼こそが、唯一救いに成り代わる。
畳に視線を這わせながら、不意に市丸は笑んだ。
それはごくごく僅かなものであったが、確かに笑みの形であった。
何の感情も込められていない、完璧なるアルカイックスマイル。
「鍵を」
市丸の笑みの理由がわからず混乱しながらも、まるでその笑みに操られるように、 藍染は条件を口にしていた。
「鍵?」
気もそぞろといった態の男は、機械的に藍染の言葉を反芻する。
「四十六室へ至るまでの鍵を」
あっけにとられたように、男は藍染を見た。
「いったい、何のために?」
「話し合うために」
そう言って、藍染は微笑んだ。
その言が嘘であることを、警備隊の次席たる目の前の男が悟らないわけがなかった。
五番隊隊長たる我が身が、こんな風に人目を忍んで高級料亭の個室に男を呼びつけ、 男の秘密を披瀝しながらそれとなく追い詰め、八方を塞がれつつある男の秘めた欲望の発散先をわざわざ提供した挙句に 提示した条件が、そんな些細なものではあるまいと。
「何の話し合いだ?」
だが、男が気づかず餌にかかろうと、気づきながら餌にかかろうと、藍染にとっては一つとして損は無い。
もちろん、餌にかからなかったとしても、計画の修正こそ余儀なくされるものの、 彼の弱みを掌握しているかぎり、発覚の心配はまずないと言っていいだろう。
「そこまで説明しなければいけませんか?」
遺憾とでもいうように、藍染が眉を顰めてみせると、男は慌てたように口を噤んだ。
その仕草ひとつで、藍染はもう、男が何を選択するか読めてしまった。
だからこそ、藍染はただひたすら、傍らの、藍染が体を動かさねば視界に入らない位置で静かに座す彼の表情が、 気になってたまらない。
彼は何を思うのか?
人身御供として、彼の異常な欲望の生贄となるべく、ここで静かに座っているというのに、 ひたすら無表情に静かに、それどころか寧ろ、目の前の男の欲望に沿うかのように、 儚くも頼りなげな雰囲気さえ漂わせていることが、藍染には不可思議でならない。
好みに沿うということはつまり、男の性癖上、極限まで苛まれる恐れを内包しているのではあるまいか?
なのになぜ、男の望むように、あえて控えめに目を伏せているのだ?
「……わかった」
短くないの逡巡の後、男は藍染に対し、にっこりと笑みを浮かべてみせた。
本人にしてみたらプライドを守るべく、警備隊の次席でありながら藍染の先輩たる己に相応しい鷹揚とした笑みを 見せたつもりだったのだろうが、藍染からすれば、雄の浅ましい欲望が 顕現されただけにしか見えず、思わず返礼の笑みが引き攣りそうになる。
それを悟られぬよう、すぐさま笑みを消し、藍染は右手を男へと差し出した。
懐を探っていた男は、色褪せたブロンズの鍵を取り出し、藍染に手渡した。
「失礼なことはするなよ」
急いたように早口に、男は言い添えるが、とってつけたような響きだけは覆い隠せない。
藍染は微笑んだだけで、あえて何も言わないでおく。
男にとって殺すことが失礼に値するのであれば、男との約束が果たせないと思ったからだ。
これから先、藍染によって引き起こされるであろう混乱を考えれば、今のうちに殺害された方が、 寧ろ幸福かつ礼儀に適っていると言えるのだが。
……そして、男の欲望の炎を消さぬように、藍染は静かに立ち上がる。
藍染の傍らでひたすら黙して目を伏せていた市丸が、そのとき初めて視線を上げた。
しかし、その眼差しは相変わらず空虚で、藍染はどう反応していいかわからない。
彼は、静かに笑んだ。
「気ぃつけて行ってきてください」
……極めて普通の挨拶だというのに、なぜか藍染は、この上なく残酷な捨て台詞を吐かれたような気すらした。



しんとした廊下を歩みながら、藍染が考えていたことは、ただ市丸のことだけだった。
あの男の欲望を焚きつけ、彼をあの場に置き去りにしたことは、果たして正しかったのか。
計画の遂行、ただそれ一点においていえば、これ上なくうまくいった。
迷うことなど、何ひとつない。はずなのだが。
不安感が、彼の態度と同様、何ひとつ変わることなく藍染の内心を強く締め付けている。
だからといって、彼がこの計画に肯んじた以上、あの場に残ったのは彼の意志でもあり、 この自分がとやかく思いあぐねる必要など無いのだ。
藍染は無理やり自らの思考をねじ伏せ、隅へと追いやる。
これ以上、無駄なことに意識を取られるわけにはいかない。
やらねばならないことがあるのだ。何よりも。
……最後の扉の前に立った藍染は、大きく息を吸い込んだ。



濃密な血の匂いの中で、藍染は1人立ち尽くしていた。
ある程度の個性を有し、ある程度の意見の違いを持ち、ある程度までに違った顔をしていた46人の賢者たちも、 殺してしまえば、同じような血の匂いを放ち、同じように息絶えた、同じモノしか見えない。
藍染は手元の刀に視線を落とす。
それは血に塗れているものの、どこか他人行儀な顔で藍染を見返した。
かつて一度これを見たものを、幻覚の中に突き落とす能力を持ったこの刀。
それに惑わされ、その結果、彼らはたやすく黄泉の国へと召されてしまった。
きっと、彼らの死に対して何の感慨も湧かないのは、この刀の持つ能力のせいだ。
殺すべき存在だった、そもそも。
彼らは中央に君臨しながらも、何ひとつ為すことはなく、机上の論理を弄ぶばかりで、 真の苦しみなど解しようとしなかった。
このちっぽけな部屋と居住区のみで満足し、例えば、能力を持った幼子が餓え苦しみながら、 尸魂界を彷徨おうとも頓着しなかった。
……だが、今ここで彼らを殺した自分が、彼らとどう違うというのだろう?
彼らにも捨てられないものがあり、失いたくないものがあり、苦しみ悶えながら手に入れたものだってあったはずだ。
そう己に言い聞かせようとしてもやはり、藍染にとって彼らの死は他人事であり続けていた。
眼を眇め、藍染はしかし、1人1人の匂いの違いを嗅ぎ分けるため、1人1人の死骸の違いを見分けるため、必死に努力する。
この思い思いの姿勢で転がる死体たちを、ただのモノだと思ってしまったら、 まるで違いのない「死体」という枠に括ってしまったら、その途端、己が別の某かに変貌してしまうような気がして 恐ろしかった。――自分がこの手で殺したからこそ。
……ふと、別れ際の市丸の眼差しが眼の裏に浮かぶ。あの空虚な色と、残酷な捨て台詞と。
途端、激しく胸が痛みだし、藍染はひどく安堵した。
彼のもとに今すぐ帰らなければ。
そうして、自分の手に、自分を取り戻してやらなければ。



市丸は相変わらず儚げで頼りなく見えた。
その痩身と類い稀な白い肌と、その肌を縦横無尽に蹂躙する膨大な数の赤い痣によって。
藍染が帰り着いても、うつ伏せの姿勢で力無く床に伏した彼は身を起こそうともしなかった。
「ギン」
静かに藍染が名を呼ぶと、勢いよく身を起こしたはいいが、顔色は青かった。
「大丈夫かい?」
「藍染さんこそ」
静かに眼を細め、藍染の外貌をじろじろと見た市丸は、乱れた着物を直し、視線を窓の外へと投げた。
「うまくいかはりましたか?」
明らかに傷ついている肉体とは裏腹に、藍染へと問う声が透明で傷一つない。
「……ああ」
「そら、よかった」
そして、こちらを振り返った顔も、また。
「せやけど、藍染さん、そら、ひどすぎるわ」
「何がだい?」
「返り血、ぎょうさん浴びてはる。よう、そないな格好で帰ってきましたな。感心しますわ」
藍染の死覇束を眺めて、淡々と市丸はそう答えた。
「湯を頼みましょうか」
「すまない」
堪え切れずそう呟くと、市丸は眦を吊り上げた。
「その謝罪は何に対して?」
「君に」
「僕に?何の?」
聞くのも不快だと言うように、市丸は顔を背けそう吐き捨てる。
「僕はな、藍染さん、こないなこと、まったくもって何とも思わへんのや。 謝られる方が不愉快ですわ」
謙遜ではなく、本気で怒っているようだったので、藍染は反射的に口を噤む。
……謙遜の方がまだマシだった。
なんでもないと笑いながらも彼が確かに傷ついているのなら、その方がいっそ。
だが彼は、体に這う傷の痛みを堪えてこそいるが、それ以外はまるで平時と同じように振る舞い、 今も呼びつけた店の女に、平然と湯を持ってきてくるよう頼んでいる。
寧ろ、驚いたように彼の首に絡みつく紐状の痣を見つめる女が、 女に見つめられる、彼の皮膚の上で鮮やかな色を持つ痣たちが、間違っているように思えるほどに。
「すぐ、持ってきてくれはるそうですよ」
戻ってきた市丸は、ぞんざいな仕草で本来の席に座し、飲み残した酒を手酌で猪口に注いで口をつけた。
うまそうに一息でそれを飲み下すと、今度は美しい彫りが施された箸を手に取る。
綺麗な箸使いで萌黄色の湯葉の刺身を摘み出すと、市丸はそれを口に入れた。
……もう、耐え切れない。
「ギン」
先刻から内心で膨らみ続けていた目の前の彼への恐怖に突き動かされるように藍染が彼の名を呼ぶと、市丸は不思議そうに藍染を見た。
「何です?深刻な顔しはって」
「君は、なぜ……」
そうやって、たやすく肉体を投げ捨てられるのか?
他ならぬ、この自分に。
……だが、それを口にすることはどうしてもできなかった。
市丸は量るような目で藍染を見、再び、酒を猪口に注ぎこむ。
「責任を負わなならんことになった、そう思ってはるでしょう?」
不意に、市丸は笑った。
「僕の一生に対する責任を」
本心を的確に言い当てられ、藍染は言葉に詰まる。
……そうだ。だから問えなかった、どうしても。
ここまで身を擲った彼に対し、見合うだけの対価をこの計画は支払えるのだろうか?
彼の肌の痣たちに対する全責任を、この自分は負えるのだろうか?
「だから、君はあえて、何の意志も示さなかったのか」
藍染の詰問を、酒を啜りながら市丸は肩を竦めてかわした。
「すべてを僕に委ねようとしていたのか」
……そうして、罪悪感と良心によってこの自分を縛り、追い込んでいくというわけか。
「僕はただ、昔の約束を果たしてもらおうと思うたに過ぎません」
猪口の中で波打つ酒の表面をじっと見つめながら、市丸は平坦な口調でそう言う。
「君は……」
藍染は絶句した。
「そういえば、どこかの国の故事でこういうのがあるらしいですね。 人を救ったら、それに対して全責任を負わねばならん、っちゅう」
やはり速過ぎるペースで酒を飲み干した市丸は、更に徳利から酒を注ぐ。
「頑張ってくださいね」
酒を呷り、市丸は、今度は筍の煮物を箸でつまんだ。





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