桜たちは、思い思いのポーズでただひたすら満開だった。
宵闇の中、オレンジ色の光を放つ提灯を首から提げることを強いられながらも、 その幽玄さは一つも損なわれていない。
寧ろその柔らかなオレンジ色は、白とピンクが危うい均衡で交じり合った 桜の花びらの色と相俟って、より一層現実離れした雰囲気を醸し出している。
……果てしなく延々と続きそうな桜並木の入り口で、藍染はただひたすら立ち尽くしていた。
桜が咲き誇る前は何の気なしに通り抜けられた道であるはずなのに、 漠然とした畏れが足を縛り、なぜか最初の一歩が踏み出せない。
この現実が一片たりとも内包されていないように思える桜の木々の下を、 平然とした顔で歩き通せるのだろうか?
かつ、歩き出す前の自分と同じ自分を保てるのだろうか?
……それはひどく難しいことのように思えた。
たおやかで従順な乙女のごとくに目を伏せて、桜たちはただひたすら沈黙し、自分の元を通り過ぎる者を待ち受けているだけに過ぎないのだが、だからこそ。
「どないしはりました?」
一向に歩き始めない藍染に業を煮やしたらしい市丸が、傍らで訝しげにそう問うてくる。
しかし藍染にとっては寧ろ、彼が何ひとつ普段と変わらない飄々とした態度を保っていられることが不思議でならない。
「……すごい風景だと思ってね」
自尊心と畏怖心が兼ね合った末、藍染はそんな無難な言葉を吐くしかなかった。
「ああ、そうですね」
しかし、そうした葛藤が藍染の内にあったことなどまるで気づかなかったらしく、市丸は日常どおりの軽い相槌を打った。
いったい彼はなぜ、この桜に何の感慨も得ずにいられるのだろう?
一歩足を踏み出すだけで、少しでも言葉を発するだけで、小さく身じろぎするだけで、 世界が一変してしまいそうなこの恐怖感を、なぜ覚えずにいられるというのか?
彼の感じなさに対して覚えた不可解さは、徐々に藍染の中で不快さへととって変わる。
不意に市丸は口角を吊り上げた。
「世界が変わることなんか、畏れていないからですよ」
今さっき脳裏に浮かんだ疑問の答えが思いがけず提示され、藍染はたじろいだ。
「なぜ、それを……」
「僕かて、この桜を見て何も感じてへんわけないやないですか」
鼻先で藍染の疑問を笑い飛ばした市丸は桜並木を見つめ、ふと目を細めた。
「この桜並木の下を潜って、それで何かが変わるんであれば、寧ろええことやと思いますけどね」
「……自分を失うかもしれなくても、かい?」
「自分を失うかもしれないから、です」
市丸が最後に発した「す」の音は桜並木へと棚引き、桜並木は貪欲にその音を吸い込んだ。
そうして再びすべての音が消え去ったとき、藍染の全身を覆ったのは、今度こそ明確な恐怖だった。
桜は今や、藍染の目には夢を喰らって生きる獏のごとくに、現実的な事象を一切合切吸い込み、飲み込み、体内に収め、 自らの夢幻さを維持する化け物にしか見えない。
それでも市丸がうっすらと笑い、足を踏み出そうとする様を、藍染は信じられない思いで見つめた。





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