なんとなく、予想はしていたのだった。 「イヅルを、勘弁してもらえませんやろか?」 彼が、そう思う日が来るのではないかと。 だからといって、実際に言葉に出されると、やはり口内に苦みを覚えた。 「何を言い出すかと思ったら」 動揺を押し隠し、藍染は市丸の提案――いや、懇願か――を、 一蹴した。 「計画が為されるためには、我々だけでは人数が足りなすぎるんだ。 それは、ギンにもわかっているはずだと思っていたが」 「わかります。重々、わかりますわ。せやけど」 ほら、誰より信頼していた市丸ですらこうやって簡単に裏切るのだ。 冷たく強張った胸中は、呼吸するだけでも鋭い痛みを齎す。 ……いけない、このままだと痛みが毒のように全身に回ってしまう。 痛みは心の隙を生む。心の隙は挫折を意味する。 その前に、熱を取り戻さなければ。 急いで、急いで、急いで。 ……藍染は市丸の胸倉を掴んだ。市丸は微かに青ざめていたものの、 抵抗はしなかった。皮膚の厚い瞼をゆっくりと閉ざした市丸の頬を 右手をきつく握り締め、殴りつけると、微かに市丸は呻いたが、 両手はだらりとしたままだった。 抵抗しない市丸が、哀れで涙が出そうだ。 彼は、恐らくすべて知っているのだろう。 この自分がこうして彼を甚振らなければ、目的への衝動を保ち続けられない 情けない男だということも、本当は裏切られることをただ怯えているつまらない男だということも。 「君はそうやって、僕を裏切るんだね」 冗談めいた口調に本心を紛れ込ませて藍染がそう囁くと、市丸はひどく剣呑な眼差しで藍染を射た。 「今更、何言わはるんです?」 だが、すぐさま吐き出された声は、苛立つほどに間延びしていた。 「藍染さんこそ、僕だけでは飽き足らず、東仙を巻き込んで、今度は吉良も巻き込まはるわけですか」 「予定通りだろう?」 「せやかて!」 思わずといった態で顔を引き攣らせた市丸は、何かを言いかけた唇を閉ざした。 その唇の薄さが、その輪郭の儚さが、藍染に眩暈を齎す。 「……もう、うんざりや」 俯いて吐き出された言葉は、ひどく湿った響きを持っていた。 計画は遂行するためにあるのだ。 藍染は自分にそう言い聞かせる。 そうしなければ、高尚なはずの目的が、あっという間につまらぬ感情論に成り下がってしまいそうだった。 ……本来、吉良でなくてもかまわないはずの役回り。 もしも正解があるのだとすれば、鷹揚ににっこり笑って、 ――そうだね。君がそう言うなら、彼を我々の筋書きに巻き込むのはやめよう。まだ、時間はある。誰か他の人間を探そう。 そう言ってやるべきだったのだ。 しかし、どうしようもない嫉妬で目が眩んだ。典型的かつ人間的な嫉妬で。 吉良をかばおうとする市丸が、市丸にかばわれる吉良が、自分が知らないうちに某かの関係を生んでしまった2人が ひどく不快でたまらないなんて。 神になるべき存在である自分が何より唾棄しなければならない感情であるにも関わらず、苛立ちは募る一方だった。 ……ふらりと廊下を折れて、こちら側に歩み寄ってくる吉良の姿をいち早く見つけた藍染は、しかし、一層自己嫌悪を強くする。 こうして待ち伏せしてまでして1人の男を罠にかけようとする矮小な自分が、一生涯に亘って天に立つ資格などありはしないだろう。 それでも、立つのだ。 しかし、何のために? 「やあ、吉良君」 ……藍染は完璧に穏やかな笑みを擬態し、吉良に声をかけた。 「あ……藍染隊長!おはようございます」 ぼんやりと視線を床に落として歩いていた吉良は、藍染から挨拶をされたということに 動揺したようで、手にしていた書類を取り落としそうになった。 「大丈夫かい?」 「はい、少しぼんやりしていたもので……」 その時、吉良が浮かべた苦笑いを一瞥した一瞬、藍染は突発的な怒りに体をのっとられた。 その笑みはあまりに無防備で、あまりに幸福的すぎたが故に。 「疲れているんじゃないのかい?市丸は人使いが荒いだろう?」 攻撃的な響きを孕んだ藍染の言葉にも、吉良の満ち足りた苦笑は弛まなかった。 「そんなことはないです。市丸隊長には、とても、よくしていただいていますから」 とてもの部分が何かの意図を持って強調されたように聞こえ、藍染は思わず吉良の顔を見据えた。 目が合った瞬間、吉良は怯えたように顔を引き攣らせた。 思わず本心が仮面の狭間から滲んでしまったに違いない。慌てて藍染は完璧な笑みを浮かべ直す。 「そうだ、実は折り入って話があるんだよ、吉良君。仕事が終わったあとにでも執務室に来てくれるとありがたいのだけれど」 床に視線を落とした吉良はやがて意を決したように藍染を見つめ、次いで安堵の色を浮かべた。 彼の知っている『藍染惣右介』が戻ったことで、彼は落ち着きを取り戻したようだ。 きっと彼は今、先程の藍染の表情は目の錯覚だったと言い聞かせているに違いない。 そうして、長い時間かけて藍染が築き上げてきた錯覚を、本来の藍染だと思い込もうとしている。 ……その純粋さは愛おしすぎて吐き気がするほどだ。 「いいですよ」 吉良はにっこりと微笑んだが、未だ先程の衝撃から立ち直れないらしく、その笑みには精彩が欠けていた。 「といっても、僕にも仕事があるから、夜分遅くで申し訳ないんだけれど」 藍染が時間を口にすると、吉良は少し驚いた顔をした。 遅すぎるその指定時間から、極めて私的な話か極めて深刻な話なのだと思ったのだろう。 「僕はかまいません」 そう答えたものの、吉良は僅かに訝しげな顔をした。 それはそうだろう。 極めて私的な話にしろ、極めて深刻な話にしろ、吉良と自分が腹を割って話せるほど 親しい間柄ではないのだから。 いささか急ぎすぎたかと藍染は思う。 しかし、耐えられそうもなかったのだ。 今になって、吉良を勘弁しろと言った市丸が。 そして、市丸にそう言わしめた吉良が。 「頼んだよ」 駄目押しに肩を叩くと、躊躇いがちに吉良は頷いた。 藍染に対して言った言葉が、藍染を憤らせていると市丸は当然わかっているのだろう。 指定された時間に執務室に現れた市丸は俯きがちで、来るべき苦痛の時間に備えているようであった。 しかし、そのような彼の態度は、藍染の怒りをより一層募らせただけだった。 せめて、堂々と来てくれさえしたら。 ……ともあれ、時間が惜しかった。 何ひとつ声をかけることなく、藍染がそばへと歩み寄ってきた市丸の腕を掴んで引き寄せると、 市丸は微かに息を吸い込み、僅かに体を強張らせた。 市丸に背を向けさせ、彼の両手首を掴む。 肩を押すと、市丸はゆっくりと静かに、窓のそばに設えられた応接スペースのソファへと身を預けた。 いつもよりも数段激しく市丸を嬲りながらも、藍染は徐々に冷めていく自分自身を感じる。 ……だから、ノック音と共にドアが開かれたとき、正直ほっとしたのだ。 「……隊長」 呟く声は、小さく掠れていた。 彼の動揺が綺麗すぎるほど綺麗な色で彼の顔を染め上げていることに、藍染は憎しみを覚える。 もし自分が彼の立場であれば、同じような美しい色で同じようにこの顔を染めえたのだろうか。 すでに現実を知り尽くしてしまった今となっては、叶わないことなのだけれど。 「知っているんだよ、吉良君」 驚愕で頭が一杯の吉良の不意を突くことなど造作ないことだったが、音を立てぬように念には念を入れ、 藍染はそっと近寄る。 耳元でそう囁かれた彼が喰らう打撃はいかほどか。 「君は、ずっと市丸隊長にこんなことをしたいと思っていたんだろう?」 吉良が徐々に大きく目を瞠る様を、藍染は冷静に観察する。 瞳に映るのは、驚愕と、それだけではない生々しい牡の色彩。 ――見ているか、ギン? 藍染は市丸を振り返る。 明らかに作りこまれた無表情を、しかし一向に崩そうとはせず、市丸はひたすら藍染と吉良の会話に耳を澄ませていた。 だが、市丸が心の拠り所にしようとしているものなど、砂上の楼閣のごとくに儚いものなのだという認識が、 少しだけ藍染に心の余裕を生ませた。 実際、市丸が守りたいと切望した純真さは、彼の目の前でたやすく性欲へと堕落してのけたではないか。 そう、純真という白さは、ちょっとした外的力ですらあっけなく染め上げられてしまうのだ。 だからこそ、価値があるのであり、染まってしまった今となってはもはや、何の価値もないはずだ。 「違う!僕は……」 激しく喘ぎながら吉良は叫ぶ。 「静かにしなさい。こんな格好の君の隊長を、衆視に晒すわけにはいかないだろう?」 幼子に言い聞かせるような口ぶりで藍染が囁きかけると、ぽかんと口を開けたまま、長いこと吉良は藍染の顔を見つめていた。 あまりにも無防備な彼の表情に、意図せず藍染の胸中で羨望と憎悪が絡み合う。 やがて、彼の瞳には理性が舞い戻り始め、途端、吉良はぴたりと口を噤み、視線の置き場に困ったように 視線を落ち着かなく上下左右させた。 「いい子だね」 藍染は殊更優しい口調で言うと、吉良はまるで視線の固定先を与えてくれた藍染に 救われたとでも言いたげにしばし藍染を凝視したものの、やがてはっと我に返り、いかにも汚らわしいものを見たとでもいうように眉を顰め、彼から顔を背けた。 ……そのときやっと藍染は、市丸が彼を勘弁したいと願った気持ちを如実に理解した。 しかしそれは、憎悪が羨望を飲み込んだ瞬間でもあった。 「君がやらないのなら、僕がやるよ。市丸は、痛めつけられるのが好きなんだ」 「そうや、イヅル」 今まで黙りこんでいた市丸が、不意に何かを断ち切るように声をあげた。 「僕はな、こういうんが好きなんや」 余計なことを。 藍染に睨みつけられた市丸は、一瞬、肩を揺らしたものの、 あられもない姿ながらこの場で誰よりも毅然と顔を上げ続けていた。 「嘘です」 やがて、吉良は呻きにも似た声を漏らした。 「この前といい、今回といい、あなたはどうして……」 この前。 藍染は吉良が口にした一言を聞きとがめた。 見込みがある、そう思ったから、誰よりも信頼できると踏んだ市丸に託した吉良が、 このような形で市丸をわが手から奪い去ろうとは。 ……市丸は、奇妙なほど平坦な視線で藍染を見た。 「市丸」 これ以上2人の寸劇など見たくもなかった藍染が市丸に呼びかけると、 小さく溜息を漏らし、市丸は身を起こした。 市丸が吉良へと顔を近づけたその瞬間、傍で見る藍染にもそうと知れたほど、吉良の体は強張った。 「イヅル、ごめんな」 唇を離すと、市丸は小さくそう呟いた。 市丸のそういうところが駄目なのだと、藍染は冷静さを取り戻しながら思う。 自らに儚いながらも劣情を抱いている相手に、そのように縋り付けるような隙を与えてしまうから、 彼はこの自分の共犯者へと堕落してしまうのだ、無意識的に。 こんなふうに謝りさえしなければ、吉良はもう少し理性を保つことも叶ったであろうに。 ……そう、すべては市丸の所為なのだ。 そうして我々の犠牲者である吉良は完膚なきまでに堕ちていき、結果的に 藍染が立てたくだらない計画は現実味を帯びていく。 壮大な、しかし現実味のない計画が着実に実を結んでいくことに藍染は恐れすら覚えた。 神は本当にいるのではないか? しかし、だとすれば、誰も幸福にしていないこの事実は、いったい何を示すのか? ……この自分の破滅だろうか。 藍染は薄く笑い、目の前の見たくもない営みを見つめ続けた。 これは、罰の一環なのだろう。自分に仕組まれた、途方もない罰の。 実りのない肉欲が果てると、あとは虚しさばかりが空気中を漂うのみだった。 何も生み出さず、何の希望もなく、現実だけがそこにある。 ……最初に、我に返ったのは吉良だった。 欲望にあっさりと支配されてしまった我が身を恥らうように、慌てて服を身に付けながら、 彼は今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。 「……何を」 自分を見つめる藍染の視線に気づくと、吉良は怒りと恥辱で青ざめた顔をまっすぐ藍染へと向けた。 「何をしたいのですか?あなたは」 吉良が未だ横たわる市丸を視界に入れまいとしていることが、藍染には容易に見て取れた。 「僕をこんなふうにからかって、いったい何を……」 若くてまだ青い魂が自分と同じ地平に立たんとしていることに、藍染はぞくぞくするほどの喜びを覚えた。 さあ、現実を見据えるがいい。 そして、その残酷さに打ち拉がれるがいい。 「からかってなどいないよ。君の願望を叶えてあげたかっただけだ」 藍染の容赦ない言葉に、吉良は目を見開き、呆然と市丸へと視線を移す。 「聞くんやない。耳、塞いとき」 しかし、唐突に、ぐったりとソファに身を預けていた市丸が意外としっかりとした口調で吉良にそう言い、 藍染は冷たい視線でそれに応酬せねばならなくなった。 「市丸隊長……、あの」 思ったとおり、吉良は市丸の優しさに縋り、 「お前の願望は、こないにくだらんことやないやろ?しっかりせえ」 市丸は、藍染の望まぬ方向に吉良を導こうとする。 本当に馬鹿な男だ。 藍染は市丸の愚かさに、涙が出そうになる。 この中途半端な優しさが、誰のことも見捨てられない彼の性根が、 自分をひた走らせ、吉良を自分たちの計画に完全に組み込むことになるのだと、 どうしてわからないのか。 早く立ち去ってしまえ、吉良ともども。 そして、早くこんな拙い計画など頓挫させてしまえばいいのだ。 「とにかく、帰り」 疲労のためか、ソファについた市丸の腕は微かに震えていたが、 それでも市丸はなんでもない風を装って起立する。 「でも……、僕は」 自分の身では支えきれないほどの罪悪感を抱え込んでしまったのだろう吉良は 打ち拉がれた表情で何も語らないただの床に縋り付くような視線を向けている。 藍染は彼の無邪気さを嫉視した。 ああ、だからこそ。 藍染は市丸へ視線を転じた。 この瞬間、市丸はこの自分の存在を、完全に忘却しているに違いなかった。 藍染の視線を意識していればいの一番に押し隠すであろう動揺をその瞳に宿して、彼はただ吉良の頭頂部あたりを呆然と見つめている。 「……僕が、お前なんかに傷つけられるわけないやろ?」 たっぷりの沈黙の後、市丸はゆっくりとそう呟いた。 これでもかというくらいに嘲笑のスパイスがたっぷり振りかけられてこそいるものの、間歇的に現れる体の震えとそれに付随する声の震えだけは抑えられないようだった。 恐らく、吉良以上の罪悪感を覚えているが故に。 「はよ帰り!」 市丸がそう怒鳴ると、雷に穿たれでもしたように吉良は体を震わせた。 「でも……」 吉良は床を見つめたまま、苦しげにそう呟いた。 「ええから、はよ帰り!」 市丸は尚も怒鳴ったが、それはあくまでポーズであったことを気づいたのは、 当事者である吉良ではなく、藍染であった。 市丸は、吉良をこれ以上傷つけないためにこの部屋から立ち去らせようとしているのだ。 藍染の胸中で、どす黒い淀みが沈澱する。 「申し訳ありません」 しかし、吉良は市丸の科白の表層のみを嚥下するだけで、 彼の本当の意図をわかろうとしなかったようだ。 恐怖と罪悪感が混然となった彼の顔色は、ただひたすら青ざめるばかりで、 一礼したあと立ち去る彼の足の動きは早かった。 市丸は、そんな彼の背をじっと見つめていた。 かわいそうに。 藍染はやっと優越感とそれに伴う哀れみの気持ちを、市丸に対して覚える余裕が生まれた。 市丸がここまで心を砕いてやっても、吉良は何も気づかず、何も知らずに、 この部屋を出て行くのだ。――自らの罪悪感だけを注視して。 しかし何よりも哀れなのは、あの若い魂が何も気づかずにいることが、 市丸の願ってやまないことなのだ。 なんという自己犠牲。なんという献身的な愛情。 なんという虚しい自己満足。 ……堪えていた溜息を吐き出してその場に腰を落とすと、 藍染に向かって市丸は微かな笑みを漏らす。 本当は傷ついているであろうにそれを微塵とも見せない彼の自尊心に、 藍染は哀れみを感じると同時にたまらないほどの肉欲を覚えた。 市丸へと近づきその肩を軽く押すと、 彼の体内に潜む疲労感が彼の支えを拉いだのあろう、 彼はあっけなく蹌踉した。 容赦なく市丸に覆いかぶさると、市丸の顔に唖然といった類の表情が閃いたが、 瞬く間に、いつものへらへら笑いに取って代わった。 そんな彼の顔を右手で掴み、逃げ場を与えないように固定する。 藍染の手首を両手で掴み、市丸は少しだけもがいた。 しかし、藍染が空いていた左手で彼の両手首を縛すると、 市丸は諦めたように目を閉じ、力を抜いた。 まじまじと市丸の顔を覗きこむと彼の顔色は青かった。 それを見せたくないがために反抗したのだろう。 これ以上藍染に付け入る隙を与えないように。 「つくづく、変態ですな」 溜息交じりの呟きが、市丸の唇から零れ落ちた。 その瞬間、藍染の脳裏に、先刻、目撃したばかりの光景が生き生きと蘇った。 いかにも打ち拉がれたといったように肩を落として部屋を出て行く吉良の背と、 それを一心に見つめる市丸の視線を。 ……あんな風に、市丸に見つめられたい。 不意に、そんな願望が藍染を襲った。 「裏切る君が悪いんじゃないのか?」 しかし市丸の視線は、藍染ではなく、木目が這い回る天井にあった。 「裏切る」 覚えたての単語を反芻しているかのような、いっそ無邪気ともいえる声音で、市丸は反芻した。 「藍染さんの頭ん中の僕は、どんな奴なんやろ?」 藍染が性欲へと没していく一瞬前に、彼は微かにそんなことを呟いた。 「想像するのが、怖いわ」 |