先だっての事件以降、市丸に対して疚しさだけが募っていた。 結果的に市丸に守られてしまったのに、市丸の労わりを無碍にすることで 自己保身のみに走ってしまった吉良はそれ以降、市丸を直視することさえ躊躇うことになった。 一方の市丸は、あの事件などなかったかのように、相変わらず近寄りがたさという仮面を被り、 吉良の上司であり続けている。 隊長と副隊長にだけ開かれたはずのその部屋はしかし、いつまで経っても吉良によそよそしい空気で満たされていた。 どうやらこの部屋は市丸だけを心の底から慈しんでいるらしく、吉良を迎え入れるときはいつだって、いっそ極上ともいえる負の感情をたっぷりその体内を満たしてから、殊更両手を広げてみせるのだ。 だから、正直、執務室に入るのが、ひどく気まずかった。 「吉良イヅル、入ります」 勇気を奮ってそう言うと、市丸は書類から顔を上げることなく、 空いた左手をひらひらと振ってみせた。 この部屋に停滞する空気は攻撃的なまでに尖る一方だったが、市丸の横顔は五番隊副隊長の頃となんら代わり映えしない、 しらっとしたものだったので、吉良は救われたような気すらした。 換気と偽って虎視眈々と自分を攻め立てんとする空気を追い出すために窓を開けると、なんとなく恨みがましい視線が肌を突き刺さるような気がしたが、 強い南風に押されてあっという間に散ってしまい、あとに残ったのはやけに甘ったるい見知らぬ春の空気だけだった。 ……さらさらと何枚かの書類に筆を走らせたあと、市丸は唐突に顔を上げた。 その瞬間、気づかぬうちに、じっと市丸の所作を見守っていたことにやっと思い至った吉良は、慌てて目を逸らしたが、 逸らし方があまりにもわざとらしかった気がして一人で頬を赤らめる。 どうやらそれに気づかなかったらしい市丸は、極めて事務的な口調で1枚の書類を取り上げ、 吉良にそれに不備があることを伝えた。 慌てて吉良はそれを修正し、市丸へと渡し直す。 「ところで」 書類を受け取るために手を伸ばしながら、市丸は意味深な視線を吉良へ向けた。 「さっきっから、よう僕のこと見てたようやけど、 なんか言いたいことあるん?」 「えっ?」 うろたえた吉良は、市丸が書類を握り締めていないことを承知していたというのに、それから手を離してしまった。 ぱらりと紙が落ちる乾いた音が吉良の耳を打つ。 支えを失った書類は開け放たれた窓からちょうど吹き込んできた風によって、 ふわりと舞い上がった。 「す……、すみません!」 慌てて手を伸ばした吉良を嘲笑うようにそれは空中で身をくねらせ――もしかしたらそれは、 先程換気したはずの空気の残滓が果たした復讐であったかもしれない―― 吉良の手は虚しく空を掴んだ。 「そない焦らんでもええやん。……ほら、落ちてきた」 吉良の動揺が書類を吹き飛ばされたことによるものではなく、自らが発した 問いに起因していると恐らく市丸は知っているのだろう。 吉良の焦りを自覚させるためか、わざらしいほど長閑な仕草で 市丸は伸びをし、自らの肩を自らの手で揉んだ。 ……いや、ただの被害妄想かもしれない。 事実、書類にかこつけて、市丸の問いを流してしまおうとしていたのだから。 しかし、吉良はだからこそ、書類を目で追うことで市丸と視線を合わせる苦しさから 逃れることができなくなってしまった。 まるで答えを待っているかのように市丸は吉良から視線を離そうとはせず、 吉良は息苦しさを覚えた。 そのとき。 例え一瞬であっても、市丸の視線から吉良を隠すための配慮をしてくれでもしたかのように、 書類は2人の間に落下した。 ……その瞬間、市丸の視線から圧力が失せた。 「疲れたわ。休憩せえへん?」 身をかがめ、吉良は足元に落ちた書類を拾い上げた。 「今、お茶を入れます」 そう言いながら体を起こすと、市丸が笑みを向けてきたが、 吉良はどうしても笑みを返すことができなかった。 猫舌の市丸のために冷蔵庫に常備することにした冷えた緑茶を 2つのグラスに注ぎ込み、この間どこかの隊から回ってきた土産物の残りの 饅頭を添えた。 その間に自らのデスクを離れた市丸は、窓のそばに設えらえたソファに だらしない姿勢で凭れ掛かり、春風が渦巻く窓の外を漫然と眺めていた。 吉良は盆に菓子と茶を載せ、市丸の所へ持っていく。 グラスを市丸の前のテーブルに置きかけた吉良はしかし、グラスを持った右手首を市丸の指先で突かれ、 激しく動揺した。 グラスは盛大な音を立ててテーブルに落ち、緑茶がさっとテーブルに零れた。 「あーあ」 自分に被害がなかったことをいいことに市丸は大袈裟な溜息を漏らし、テーブルの液体を眺めた。 「悪ふざけはやめてください!」 そう怒鳴った声も姿も、吉良の想像以上にヒステリックだったのだろう。 心から驚いたように市丸は目を見開いて、吉良を見た。 「す……、すみません」 「なあ、ほんまに異動したい?」 慌てて頭を下げた吉良の頭上に、砂のように乾いた言葉が降りかかる。 「えっ?」 吉良が顔を上げると、零れた茶の中に右指を突っ込みながら市丸は小さく笑う。 「聞き返すな。聞こえてるやろ」 市丸が親指と人差し指で輪を作りぴんと弾くと、指先に絡みついたままだった茶が吉良の顔面に跳ねた。 「したいんやったら、一筆書いてやるわ。どうや?」 「僕は、そんな……」 「あーあ」 市丸は怒ったような口調で、盛大な溜息をついた。 「わかっとるん?僕な、吉良が罪悪感を覚えるような発言を、 わざとしたんやで、この間。思いっきり罠にかかってどうするんねや?自分」 「えっ?」 「聞き返すな、言うとるやろ」 きつい響きを持つ言葉を羅列しつつも、市丸は苦笑いを浮かべた。 「ええよ、なんも気にせんで。正直に言うてみい、怒らへんから」 吉良、と呼んだ。 彼の言葉が嘘であるとか、そういうこと以前に、 自分を吉良、と呼んだことが、吉良は何よりも悲しいと思った。 イヅル、と下の名前で呼んだこともあったことなど、まるでなかったように。 「ぼ、僕は」 そう、肝心なときに限って、舌はうまく回らなくなるのだ。 愚にもつかないときには、不必要に回るのに。――あの時のように。 「あの時は、市丸隊長を、ひどい人だと思いました」 つっかえつっかえ、どうにか吉良は言葉を紡ぐ。 「でも、市丸隊長は、ただ、指令に従っただけで……」 違う、違う、違う! 叫びだそうとする本心をねじ伏せることに難儀して、言葉はそこで詰まってしまう。 ……こんな風に人の行動を総括し批評するのは、自分の行動を見まいとしているからだ。 自己嫌悪に陥ることを恐れるあまり、市丸の行動にケチをつけ、 でも仕方なかったよね、指令だからね、と微笑んでみせようとでもいうのか? そうやって、本来、語られるべき事柄を曖昧に流してしまおうとでもいうのか? ……寧ろ、第一印象のままだったらよかった。 冷徹で傲慢な最初のイメージどおりだったら、いくらでも市丸のせいにできた。 己の不甲斐なさも、卑怯さもすべて押し付けることが叶った。 しかし、今の市丸の態度は上司としては申し分のないものであり、吉良の手前勝手な妄想を 受け入れてくれる隙など一切ない。 ……そうして生まれた空白を見上げ、市丸は唐突に笑い出した。 「また、難しいこと考えこんでんねや?ほんま、難儀なやっちゃなあ」 彼の爆笑は、彼のあっけらかんとした言葉は、吉良にとってこの上ない助け舟だった。 「言うたやろ?僕はな、吉良、お前に罪悪感を覚えるようなことばっか、わざと言うたんやで?」 「それは、どういうことですか?」 そう尋ねる自分の醜さを自覚しながらも、このときばかりはスムーズすぎるほどスムーズに、さらさらと言葉が口から零れた。 こうして、溺れる者は藁を掴むというわけか。 自ずと湧き上がらんとする自嘲を、吉良は口腔内で噛み潰した。 「同等な存在を裁けるのは人間だけやとか、僕が斬魄刀の道具にすぎんとか、誰が聞いたって嫌な気分になるやろ? 効果を狙ったんや、効果を」 テーブルの縁に沿って流れ、今にも床に零れ落ちたげな様子をしている茶は市丸の表情を密かに窺う。 市丸はまるで支援するかのように、今度は力任せに右手全部を茶の中に浸す。 アルキメデスがかつて声高に訴えたとおり、茶は市丸の右掌の体積の分だけ音を立てて床に零れ落ちる。 「吉良、お前を縛るために」 自分を包む空気が、不意に冷たくなったような感覚に吉良は陥った。 これは果たして気温が安定しない初春の為せる業か、それともこの部屋の復讐か。 しかし、ちらりと頭を過ぎったそれらの可能性を首を振って唾棄せざるを得なかったのは、 次いで、まるで思いもかけない所に掘られた落とし穴に落ち込んだかのような孤独感に襲われたからだった。 もしもこの感覚が現実化したとしたら、先程の茶と同じように、自分の体積と同じだけの容量を持つ何かが、吉良と入れ替わるようにして空間を埋めることだろう。 今現在、構築されている世界のバランスを保つために。 そう、自分の代わりはいつだって背後に控えているのだ。 結局のところ、自分の居場所だと確かに言い切れる場所など、どこにもなくて。 ……途方もない孤立感に縛られ、吉良は立ち尽くす以外の術はなかった。 一体、これは何だ? 恐怖から我を忘れて大声を上げたくなる自分を、吉良は無理に抑え付けながら、必死に頭を働かせる。 まるで異次元に放り出されたかのようなこの冷たさは、一体何だというのだ? ――もしかして、これは一種の感応なのだろうか? ふと思いがけない考えが脳裏を過ぎり、吉良は思わず顔を上げた。 目の前では市丸が、ただひたすら何の生産性もない無意味な笑みを浮かべ続けている。 その無機質な笑みは、今も尚、他人行儀に肌を滑る薄ら寒い感覚とよく似通っているような気がした。 ――もしもそうだとすれば、なぜ、気づいてしまったのだろう?今、この瞬間にあえて。 思わず、吉良は溜息を漏らした。 このひどい寒々しさを常々彼が感じているとしたら、自分は再び、あのときと同じように彼を見捨てることができるだろうか、果たして? ――これもまた、ひとつの運命なのだろうか。 吉良は再び溜息を漏らし、数度、首を振った。 やり直しが認められたのなら、覚悟を決めよう。本物の覚悟を。 一度は見捨ててしまったけれど。一度は見捨ててしまったが故に。 「本当に?」 できうる限りの気力を奮い、なるべくクールに尋ねたつもりだったが、 語尾が無様に震え、想像していた効果を発揮することはまるで叶わなかった。 それでも吉良は息を飲んで、市丸の一挙一動を吉見守る。 彼がいかにも計りましたといわんばかりの吉良の言葉にすら傾いでしまうのなら、そのときは全力で受け止めるために。 なぜならそれは、彼がそれだけ弱り、凍え、行き詰っていることの何よりの証明だから。 ……ゆっくりと、しかし確実に市丸の顔全体を覆っていた微笑が揺ぐ。 生命を維持するために必要な力すべてをこの笑みに注ぎ込こもうとでもするように、彼は数度全身を揺らし、 笑みを再び元の形を象るべく最大限の努力をしながらも、それは徐々に曇っていく。 「本当にそう言えるんですか?」 再び彼を突き落とすように吉良はそう尋ねながら、この笑みが完全に壊れたとき、自分はこの人を誰よりも愛そうと思った。 そう、雛森よりもずっとずっと深く、この人を愛さねばならないのだ。 |