執務室に、昼間の熱気と夜の冷気が交じり合った風が吹き込んできた。
そんな夕方特有の生温い風の中に、微かに囃子の音を聞いた気がして、市丸は 書類から顔を上げた。
開け放たれた窓の先で、今まさに、夕暮れがクライマックスを迎えようとしている。
「……夏祭りでもあるのかな?」
いつだって、市丸の内心を読み取っていると言わんばかりの科白を、 絶妙のタイミングで口にする男が、隊長席で書類に筆を走らせながら言った。
「道理で」
市丸は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
窓から身を乗り出して一頻り辺りを眺め回してみたが、残念ながら会場を 見出すことはできない。
ただ、何となく浮かれた空気だけは、肌に感じられたような気がした。
「行きません?」
「どこへだい?」
「その、お祭りに」
振り向くと、藍染は顔を上げ、訝しげに市丸を見た。
「突然、どうしたんだい?」
「……僕、何かおかしなこと、言いましたやろか」
「いや……」
誤魔化すように、藍染は眼鏡を押し上げた。
「構わないよ。ちょうど仕事も一段落……」
そのとき、ノックの音が、藍染の科白の続きを遮った。
藍染が誰何すると、ノックの相手は、五番隊四席を名乗った。
「どうぞ」
「失礼します」
ドアが開いた途端、四席は腰を折って深々と一礼した。
市丸は窓枠から手を離し、自席へと戻った。


……四席は、明日の朝に隊員に振り分けられる書類を受け取り、 微かにほっとした顔をした。
例年にない暑さのせいか、現世で亡くなる人がこのところ増加の一途を辿っている。
そのため、どうしても仕事が夜、しかも夜半にまでずれ込む隊も出てきて、 どこぞやの隊は、ここのところ日付が変わる時刻まで残業させられているらしい。
四席は、そんな世間話を披露した後、
「でも、藍染隊長と市丸副隊長は仕事が速いので、我々は本当に助かっています」
と、本音なのかお世辞なのか、よくわからない一言を口にした。
藍染は三席以下にはほとんど絶やしたことのない笑みに、僅かな苦みを込め、 謙遜を表した。
「でもまあ、いつも残業なしというわけにはいかないけれどね」
「もちろんです」
慌てたように、四席はそれに応じる。
「それでも、隊長と副隊長が頑張ってくださっているおかげで、 我々は……」
あまりにも慌てていたのか、四席は正直にも、とある隊を挙げた。
「……のように、日々残業に苦しめられることはありません。あ……!」
「まあ、今の話は聞かなかったことにしておこう」
失言をやっと自覚し、唇に指先を当てた四席に対し、やんわりと 藍染は言った。
「申し訳ありません!」
「気にすることはないよ。口が滑ることは誰にでもあるからね」
四席に向ける笑みが、あまりにも崩れない藍染に対し、市丸はふと、 いたずらをしたくなった。
「ほな、出かけられますな。藍染隊長」
そう口を挟むと、思ったとおり四席は即座に食らいついてくる。
「どちらに行かれるのですか?」
「野暮なこと、聞かんでや。デートや、デート」
そう言って、市丸は藍染の腕に自らの腕を絡ませた。
服の上からも、一瞬ながら、藍染の筋肉の緊張が感じられ、市丸は内心でほくそ笑む。
すべてを自らの手中に収めてしまっているといわんばかりにいつでも微笑む 傲慢なこの人を、一瞬であれ、動揺させたという満足感。
……真面目が服を着たような四席の目が点になり、絡まった2人の腕へと注がれた。
「冗談だよ。決まってるだろう?」
強すぎる力で市丸の腕を振り払い、きつい視線で市丸を一瞥したあと、 取り繕うように藍染は微笑んだ。
「そ……、そうですよね」
強張った笑みで四席は応じ、
「失礼しました!」
と、冗談とは思っていなさそうな慌てふためいた一礼をして、 そそくさと出て行った。
「……ギン、何のつもりだ?」
「……つまらん人やな」
藍染が眦を吊り上げると、市丸は俯き、ぼそりと呟いた。
「いややな、藍染隊長。藍染隊長が、あないに過剰な態度をとるからですやろ? 自然に流せば、冗談で済んだんですわ、冗談で」
殊更、冗談という単語を2回繰り返す市丸が厭わしく、藍染は市丸の着衣の胸元を荒々しく掴んだが、市丸はその腕を掴み返してきた。
「夏祭り、はよ行かな、終わってしまいますよ」
「…………」
力任せに市丸の体を突き飛ばし、藍染は怒りをどうにか抑制した。


囃子の聞こえる方向へと歩いているつもりなのだが、 歩けど歩けど、祭りの会場には辿り着けない。
「そもそも方角が間違っているのかもしれないね。 誰かに聞いたほうがいいんじゃないのかな?」
やがて、藍染は足を止めた。
すでに夜は帳を下ろし、月すらも雲が覆いつくしているせいで、 辺りは完全に暗闇に包み込まれている。
「辿り着けなくても、ええんやないですの?」
藍染の三歩先で同じく足を止めた市丸が、しれっとそんなことを言ったが、 振り向きもしなかったうえ、暗闇のせいで表情までは窺えなかった。
「祭りに行きたかったんじゃないのか?」
「でも、もう、誰もおらんやないですか」
市丸の言葉に藍染は辺りを見回した。
先ほどまで、人が行きかっていたように思うが、確かに今は、 誰も見当たらず、ただ闇だけが息を殺しているばかりだ。
そして、風に乗って微かに響く囃子の音と。
……そのとき、突風が2人を襲い、不意に世界が明るくなった。
「ああ、お月さん出よった」
市丸は小さく呟いて、空を振り仰いだ。
その傍らに歩み寄り、藍染も同じように空を見上げる。
暗闇に目が慣れすぎていたのだろう。その白い光は明るすぎるほどで、 藍染は目に痛みすら感じた。
いつのまにか、囃子は聞こえなくなっている。
「綺麗やな」
しんとした世界の中で、市丸の声だけが藍染の耳に響いた。
ひどく儚げな声に、思わず藍染は傍らを見やると、 市丸は一心に、月を見上げていた。
華奢な首筋と、ひどく鋭角的な顎のラインに、藍染は今更ながら、胸が痛んだ。
これまで彼を幾度となく傷つけていた。最初は自覚的に、そして今や、自覚なく。
その繰り返しが、月の光の下ではひどく脆い存在に見えるほど、彼を追い詰めてきたのだ。
なぜなのだろう?藍染は自問する。
あの、自らの死骸の傍らで自らの膝を抱きしめていた、あの頃の彼を救いたいという思いは、 未だ変わらないのに、どうして、今の彼に対しては残酷になれるのだろう?
彼を憎んでいるのか?
いや、違う。
長く生きれば生きるだけ、誰かを、何かを信じられなくなってしまっていく、自分自身の問題だ。
先ほど四席が口にした言葉をひきあいに出すまでもなく、 忙しすぎる死神の職務の代償として書類から取り零される死者の数は増加の一途を辿り、 それに呼応して、虚の数も増えていく。
それ以外に方法がない。それはわかっている。
しかし、そんな虚を一刀両断に斬ってしまうことが、果たして本当に正しいのだろうか?
もしかしたら、自分たちがきちんと気づいてやっていれば、救われた魂かもしれないのに?
虚化してしまった魂はもはや、斬る以外救われないことは知っていても、 罪悪感がいつだってこの身を縛る。
だからこそ、信じられなくなるのだ。
そんな虚も、斬れと命じる者に。
そして、そんな虚を簡単に斬ってしまえる死神たちに。
だから、市丸を力で支配した。恐怖と暴力と恥辱とで縛ってしまえば、決して裏切られることはない、ただそれだけの理由で。
でも、同時に冷めた声で呟く自分がいる。
それは、お前に斬れと命じる者や、斬ってしまえる者たちと、どう違うのだと。
「覚えてます?藍染隊長が、僕を助けてくれたときも、こんなええ月が出とったんですよ」
「……そうだったかな」
あの日のことはよく覚えているが、月がどうだったかまでは、さすがに覚えていなかった。
市丸はやっと、藍染へと顔を向けたが、今度は逆光のせいで、相変わらず表情は窺えなかった。
「僕はな、藍染隊長、忘れてへんのですよ。あのときがどうやったか、全部」
市丸は淡々と言った。
「僕を信じられへんのは、しゃあないと思いますねん。僕かて色々しんどい目に遭うて、 簡単に人のこと信じてはあかんと思うたことは沢山あんねん。やけど」
市丸が息を吸い込んだ途端、空気が震えた。
「やけど、僕、藍染隊長に……」
市丸はそこで絶句し、また、底深い沈黙が、藍染にとって、息詰まるような沈黙が、 2人の間に座した。
市丸の視線を痛いほど感じながら、藍染は意識して無表情を擬態する。
……それは、市丸の決意表明といえた。
市丸は、これまでも、そしてこれからも、恩人である藍染に対し、何をされても報いようと 心に決めてしまっているのだ。
自分よりも深い谷と高い山を乗り越えたであろうに、彼はかつて自分が差し伸べた手に 恩義を返そうと、既に決めてしまっているのだ。
……彼がひどく哀れだった。
内心に過ぎる様々な思いに折り合いをつけた挙句の決断が、この藍染惣右介に付いていく、などという、 下らない結論だなんて。
もちろん、彼を従わせるために彼を傷つけていたのだが、 それでも、いや、それだからこそ、そんな彼に対して言うことなど、何も思いつけない。
「音がやんでしまったね」
だとしたら、この場の雰囲気に逆らうよりほか。
「結局、見つからなかったな。祭りの会場」
市丸は、微かに溜息を漏らした。
「ほんまですな。僕、綿飴とりんご飴とあんず飴、食べたかったんやけど」
「市丸は、飴が好きなんだね」
藍染の返答に、市丸は目つきの強度を更に上げた。
感電したかのよう痛みが、ぴりぴりと肌を刺す。
「あと、すもも飴と、水飴と、ハッカ飴も」
辺りの空気までもが市丸に同調し、不穏な色を湛え始めたように藍染には感じられた。
「……市丸は、飴ばかりだね」
あきれ口調で偽装して、躊躇いながらも、藍染は市丸の右手へと左手を伸ばす。
ぶらぶらと所在なさげだった彼の右手を掴むと、意外そうに市丸は藍染を見上げた。
その視線に耐え切れず、すぐ離そうとしたのだが、それより一瞬早く、 市丸が藍染の左手を握り締めた。
ひんやりと乾いた彼の手の感触が、心地よくもあり、気恥ずかしくもあった。
市丸は、頬を藍染の肩口に押し付け目を閉じた。
あまりにもかわいそうなこの男。
傷つけている当の本人すらも、同情したくなるこの男。
「それでも君は、いつか僕を裏切るんだろうね」
藍染が市丸にそう言ったのは、しかし不信感ゆえからではなかった。
むしろ、彼の心の奥底で、葛藤の末に彼自身の手によって押し潰された、 彼の苦悶を救い出したかったのだ。
裏切りなさい、この自分を。
すべてが為されたそのあとには。
傷つけなければ人を信じられないなんて、間違っているのだから、 歪んでしまった自分のことなど見限ったほうがいい。
「……ほんまにつまらない人やね、藍染隊長は」
市丸は藍染から身を離し、冷めた口調で呟いた。
失われてしまった左側の温もりは、思った以上に藍染の胸を痛ませ、 再び轟音と共に吹き荒れた突風が、再び月を覆い隠してしまった。









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