辞令の書類を見て、吉良は目を疑った。 何度も読み返した。何度も瞬きをした。何度も目を擦った。何度も頬をつねった。 夢から現実へと戻るチャンスは、幾度もあったというのに、 それでも辞令の書類を握り締めているということはつまり、 これはどうやら現実らしい。 「なんだ、イヅル、お前、市丸隊長んとこなのか?」 吉良が手にした書類を覗き込み、阿散井はひゅうと口笛を吹いた。 「災難だな、お前」 「……だね」 吉良は俯いた。 「阿散井君は、どこ?」 「朽木隊長のところ」 「ルキアさんのお兄さんのところか。よかったじゃない」 「よくねえよ!」 内心の複雑さを、阿散井が眉根をひそめて表したが、それでも 自分よりはましだ、と吉良は思う。 同じ五番隊に所属していたものの、向こうは副隊長、かたや自分は何の肩書きもないただの死神で、 執務室も別、業務もほとんど別だったから、関わることはほとんどなかった。 とはいえ、穏やかな笑顔を浮かべ、新人に対しても優しく接していた隊長とは違い、 副隊長は笑みこそ湛えていたが、隊長の笑みとは大分質の違う幾分冷笑的な匂いを帯びたものだったし、 どんな部下にも分け隔てなく気さくに話しかけた隊長とは違い、上司でありながら積極的に部下に関わろうとすらしなかった。 とどのつまり、明け透けに言ってしまえば、苦手意識を抱いていたのだ、市丸ギンという男に対して。 いちいち話し合ったことなかったが、災難だな、と言うあたり 阿散井も似たような感情を市丸に対して感じていたのだろう。 どことなく傲慢で、人間的に冷たいイメージ。 だからこそ、驚いたのだ。まさか、自分が市丸に指名されるとは。 「松本さんっているだろ?あの……」 阿散井はジェスチャーで巨乳を表現した。 「ああ」 「お前んとこの隊長の幼馴染らしいぜ」 「へえ、あの人が」 あんなにキレイで気風のよさそうな人と、隊長が幼馴染? 市丸はよく言えば、孤高の人というイメージがあるため、吉良には幼馴染という 柔らかな単語とイコールで結びつかせかねた。 「困ったら、あの人に相談してみりゃいいんじゃねえ?」 まったく他人事な口調で阿散井は言う。 その彼はといえば、浮かれた表情を見せたかと思えば、沈んだ表情をしたりと、 賑やかなものだ。 あの何を考えているかさっぱりわからない、しかも大貴族の朽木隊長の下につくことになった不幸と、 朽木隊長の下につけば今よりも隊長の義妹である朽木ルキア――阿散井はうまく隠し通していると思い込んでいるようだが、 彼が、ルキアを好きなことは、ルキア以外の同級生には周知の事実だ――に、会う確率が高くなるという幸福の間で 彼は今、振り子のように揺れているのだろう。 まあ、少なくとも阿散井のほうがまだ幸福だ。 吉良は小さく溜息をついた。 ……とはいえ、実際問題、市丸のことが苦手こそあれ、嫌いだったわけではない。 寧ろ、実習のとき、吉良たちを助けに現れ、藍染とともに虚を一刀両断した彼は、 ひどくかっこよかった。ああいうふうになりたい、と心底思ったものだ。 ただ、実際に、しかも副官として接するとなると、話は別だ。 ……吉良は再び、重い溜息を漏らした。 最初は、昨日の夜、緊張と期待と不安で眠れなかったゆえの幻覚かとも思ったのだが、 何度瞬きしても、何度目を擦っても、何度頬をつねっても、 それが消えることはなかったので、やはり幻ではなかったらしい。 ぶらぶらと前後に揺れるそれは、逆光のせいで陰になり、吉良には 最初、何なのかすらわからなかった。 恐る恐る近寄り、振り仰ぐと、それは誰かの死覇束から覗く、誰かの足だった。 日光に反射し眩しいほどに白い足袋と、それと死覇束の狭間にあるか細い足首。 鴨居の下で、それらがゆっくりと前後運動をするさまは、不思議な光景だった。 「誰ですか?」 ごくりとつばを飲み込み、斬魄刀の柄に手をかけながら吉良は誰何する。 「意外と早かったなあ」 頭上から降ってきた声は、間違いなく、自分の隊長となる人の声だった。 「……市丸隊長?」 「正解」 高らかにそう宣言したが、足の前後運動は一向に止まる気配はない。 「あの……」 なんと声をかけてよいのか、吉良はしばし躊躇った。 「降りてきてくださいませんか……?」 結局、思いついたのは、あまりにも無難なその一言だけだった。 「いやや。せっかくええ天気やゆうのに」 しかし勇気を振り絞った挙句の提案を、むしろ快いくらいにあっさりと無碍にした市丸は、 まるでその償いとでもいうように顔だけを突き出した。 逆さまの顔というのは、なかなかお目にかかれるものではない。 吉良は度肝を抜かれた。 「えっ!?あ、隊長!よろしくお願いします!」 ここに来る前に反芻しておいた挨拶を口にしたのち、吉良は もっと重大なことに気がついた。 「あ、違う、隊長!そんなことしたら、危ないじゃないですか!」 「あはははは!」 大爆笑がまた頭上から降ってきた。 吉良がベランダの柵を掴み大きく身を乗り出して屋根の上の市丸を振り仰ぐと、 市丸はひどく気持ちよさそうに屋根に上半身を預けていた。 「ええと、吉良君やったっけ?」 「はい」 自分から指名したというのにどうやら名前すらうろ覚えらしいことを、 吉良は不思議に思ったが、返答だけに留めることにする。 「吉良君も来ぃひん?気持ちええで」 「いや、僕は……」 「ふうん、真面目なんやね」 市丸の声がつまらそうな色に染まった。 「ところで吉良君」 市丸は、ふと思いついたという口ぶりで、吉良に呼び掛けた。 「はい?」 「死神になんか、なるもんやないと思わへん?」 頭をがんと殴りつけられたような衝撃が、吉良を襲った。 何を言ってるんだ?この人は。 そう言う自分は死神で、しかも隊長という地位まで上り詰めておきながら。 ……頑張って死神になりなさい。そうすれば、楽できるから。 母親の疲れた顔が、ふと瞼の裏に蘇る。 ……一緒に頑張ろうね。 そして、そう言って微笑んだ、雛森の顔も。 それなのに、なぜ彼は、自分のすべてを壊すようなことを平気で言うのか。 しかも、他ならぬ自分のことを、自らで指名しておきながら、あまりにひどい言い草だった。 言い返してやろうかとも思ったが、さすがに1日目から反抗するのはまずかろうと思い、 吉良は開きかけた口を閉じた。 「まあ、ええわ」 屋根の上で、市丸は独りごち、ひょいと吉良の前に飛び降りた。 「よろしゅう頼むわ、イヅル」 しかも、いきなり名前を呼び捨てにされるとは思わなかった。 就業時間が終わると、吉良は早々に隊舎を飛び出した。 初日は顔合わせで終わるであろうことは今までの経験上承知していたため、 阿散井と雛森と報告会をしようという話を事前にしておいたのだ。 終業時間になった途端さっさと帰ってしまった市丸と違い、三席以降の席官たちが何とはなしに 吉良と飲みに行きたそうな雰囲気を漂わせていたのだが、はっきり誘われなかったことを いいことに、吉良は気づかなかったふりをしてさっさと遁走した。 阿散井も雛森も似たような状況であったのかは知らないが、吉良が 待ち合わせ場所であった居酒屋に辿り着いたときには、早くも酒を酌み交わしていた。 「待った?」 酒の弱い雛森は早くも頬を高潮させていたが、その赤みを吉良は愛らしいと思った。 「大丈夫。私たちもさっき来たところだから」 雛森はにっこりと笑った。 「もう、こいつ、会ったときからすっげえテンションでさ。まいったよ」 阿散井は溜息と共に、お猪口に満たされた酒を飲み干す。 「何?やっぱり、藍染隊長の下は楽?」 「楽かどうかはわからないけど、とにかく、すっごい優しいの」 雛森は、語尾にハートマークをつけんばかりのテンションだった。 これでは、阿散井1人では持て余すだろうと吉良が苦笑すると、阿散井は、 わかるだろう?とばかりに目配せをしてきた。 「まあ、とにかく早く座れよ。何、頼む?」 吉良が飲み慣れたとある銘柄の酒の名を口にすると、阿散井はすかさず大声で 店員を呼び、それを注文した。 「今日は、雛森君の話を聞くのが一番いいかもね」 冗談めかしてそう言うと、雛森は目を輝かせた。 藍染の話を語りたくてたまらないのだろう。 嫉妬はもちろんあるが、藍染には適わないという気がする。 あの人は、なんというか完璧なのだ。 「ってことは市丸隊長は駄目だったのか?やっぱり」 阿散井は吉良の酒を店員から受け取ると、吉良が手にしたお猪口に注ぎ込んだ。 「駄目っていうか……」 言葉を濁す代わりに、吉良は注がれた酒を飲み干す。 「おっ、いいね、その飲みっぷり」 「でも、市丸隊長は、ずっと藍染隊長の下にいたわけでしょ?」 阿散井が相好を崩す横で、雛森は小首を傾げる。 「だから、いい人なんじゃないかなーって思うんだけど」 「だといいんだけどね」 吉良は溜息をついた。 「何、憂鬱になってんだよ。お前、腐っても副隊長だぜ? さあ、飲もうぜ!飲んで、ぱーっとやろう!」 阿散井はそうのたまい、徳利を勢いよく掲げてみせた。 ……どうやら彼自身も、自分の上司に不安感を抱いているようだと吉良はこっそり思った。 前夜の酒を引きずりながら出勤した吉良だったが、出勤するはずの時刻に 隊長たる市丸の姿がないことに慌てた。 「すみません、市丸隊長は?」 三席以下が常駐する部屋を訪れて尋ねると、休暇を取っている三席の代わりに、 四席がのんびりと口を開いた。 「市丸隊長は、大体僕らより早く来てますから、今、いないってことは、 指令を受けにいったんじゃないですかね」 四席の暢気な言葉に、吉良は慌てた。 副官の自分がのんびりしている間に、隊長が既に仕事をしているというのは、 明らかにまずい事態だった。 「大丈夫ですよ」 ひどく間延びした口調で、四席は言う。 「市丸隊長はマイペースですから、そういうことはまったく気にされませんから」 四席の雰囲気からしてそうなのかもしれないとは思ったが、さすがに 勤務開始初日から鷹揚に構えていることは吉良の性格上できかねたので、 とりあえず一番隊の隊首室に駆けつけることにした。 一番隊の隊首室への最短距離を走りながらも、吉良は不安感に囚われていた。 もしかしたら、市丸はとんでもなく奇妙なルートを辿って三番隊に戻るのではないか。 なんとなく、市丸ならそれもありそうな気がしてならない。 おとなしく三番隊の隊首室で待っているべきだったかと後悔しだした頃、 不意に曲がり角から市丸が現れたので、吉良はほっとする。 「市丸隊長」 彼の名を呼び、駆け寄ると、市丸は思いがけずひどく驚いた顔を見せた。 「なんや、なんでこないな所におるん?」 「隊長が指令を受けに行ったと聞いたので……」 「部屋で待っとったらえかったのに」 「でも隊長が仕事をなさっているのに、僕だけ何もしないのは」 「あほちゃうか、そないなこと気にする必要あらへんのに。真面目やな、ほんま」 吐き捨てるように市丸は言い、顔を背けた。 明らかに不快といわんばかりの態度が、吉良の神経に障った。 褒められたいが故に起こした行動ではなかったが、ここまで否定されると腹が立つ。 「どんな指令を受けられたんですか」 しかし、公的な話をしている最中に私情を挟むわけにはいかない。 副官としての使命を全うしようと意識した結果、義務的な口調でそう問うと、市丸は ますます不愉快そうな表情になった。 「僕が直々に指名された仕事や。イヅルには関係あらへん」 「そうおっしゃられましても、僕は副官ですから、隊長のお仕事はすべて把握しておく義務があるんです」 半ば意地になった吉良は、引くタイミングを逃して尚も回答を強いる。 「しかも、隊長が呼ばれたということは、それだけ重要任務という ことではないですか。僕もお供する必要があると思うんですが」 「……せやからな」 そう言い、市丸は溜息をついた。 「ああ、もう面倒臭い奴やな、自分」 今度こそ、吉良は激高した。 「ひどい言いようですね。隊長としてあるまじき発言だとは思いませんか」 市丸はうんざりしたような顔で、髪を掻き毟った。 「そないなこと言うなら、はっきり言うたるわ。 新米の副隊長なんか、頼りになるわけないやろ。 そんなん、ちょっと考えたら、わかるやんか。 せやから、お供なんか必要あらへん」 あまりにも酷い言い草に、吉良は奥歯を噛み締めた。 「僕も行きます」 意地が、吉良の唇から言葉となって零れた。 市丸は眉を顰めたが、それは不快感故というよりは、 まさか、そう答えられるとは思っていなかったとでもいうような、 戸惑いの発露のように吉良には思えた。 「あんなあ……」 「僕も行きますから!」 むきになって吉良がそう宣言すると、市丸は舌打ちした。 「……ほんま、面倒臭い奴やな。もう、勝手にしぃや」 この執務室よりも無数のデンキウナギが蠢く水槽の中の方が遥かにマシに違いないと思わせるほど ピリピリした雰囲気で日中の仕事を終えると、市丸が無言で外出の支度を始めた。 彼に従うようで癪ではあったが、吉良もまたそれに倣う。 支度を終えた市丸が執務室のドアノブに手をかけたとき、一度だけ吉良を振り返った。 その眼差しの暗さに、吉良はぎくりとする。 「……と、ところで」 沈黙が途端に恐ろしくなった吉良は口早にそう尋ねたが、舌が縺れ、うまく言葉が出てこない。 「その指令は」 ……本当は、もっと渋々尋ねようと思ってとっておいた言葉だった。 あなたが不快だとさすがに面と向かっては告げられない。 だから、不快感を煽る物言いで己が先程覚えた嫌悪感を市丸へ伝播すればいいとそう思っていたのだ。ひっそりと。 市丸は不意に、にっこりと笑った。 先程の眼差しの暗さなど塗り潰してもまだ余るほど、明るい笑みだった。 「斬るんや」 楽しいパーティーの開会を宣言するときのようなあっけらかんとした口調で、市丸はそう言った。 「だから、何を……」 「何を、やない。誰を、や」 「えっ?」 思いもよらなかった市丸の返答に、吉良は目を瞠った。 残酷にも市丸は、その人物の名と階級と所属する隊の番号と罪状を、 呆然とする吉良を尻目に一息で挙げてみせた。 その人物の名は吉良も知っていた。 同僚との口論の末、帯刀令が出ていないというのに斬魄刀を抜刀した挙句、 相手を殺してしまい、今は判決を待っている身の上なはずだ。 「で、さっき、まあ、簡単に言うと、斬れっちゅう判決が出たわけや」 市丸は、大仰に肩を竦めてみせた。まるで、気の利いた一口話を披露し終えた紳士のように。 「……同僚を殺すというのに、よく、そんな言い方できますね」 あまりにも軽い感じの市丸の態度が不快で、吉良は八つ当たり半分に言い放った。 「イヅル、知っとるか?」 市丸は表情を改めた。 「同等の存在を、そうと自覚しながら裁けるのは人間だけやねんて」 市丸が顔を俯けると、長めの前髪が双眸を巧みに覆い隠した。 「吐き気がする話だと思わへん?」 ただ口元だけが、先程と寸分変わらぬ笑みを刻んでいた。 牢獄に入ってきた市丸の姿を見た途端、彼はあからさまな怯えの色を浮かべ、後ずさった。 ……牢獄内はひどく薄暗く、空気は澱んでいた。 来るべき死を直視させるという一種の拷問のためか、一刻も早く死を受け入れさせるという一種の思いやりのためか。 どちらにしてもこの部屋に一歩足を踏み入れた途端、吉良の頭は彼が想像できうる限りの死でいっぱいになり、 吐き気を催した。 牢の中に入らず、市丸が鉄格子越しに袂に収めていた書類を開き彼の罪状と処刑の旨を読み上げると、観念したように彼は項垂れた。 「何か、言いたいことはある?」 義務的な口調を崩さずに市丸が尋ねると、彼はびくりとその身を震わせた。 「…………」 「今、思いつかへんのなら、ないっちゅうことでええな」 口をぱくぱくさせながら、おろおろと視線をあちこちに飛ばし出した彼に対し、市丸は冷酷にも そう断定し、牢の扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。 吉良は、彼がひどく哀れでならなかった。 死が既に決まってしまったものであれば、せめて今際の言葉くらい、 思うがまま話させてやりたかった。 「待ってください!」 思わず、吉良は鍵を回そうとする市丸の右手を掴んだ。 その刹那。 市丸は、ぞっとするほどの殺気を込めた目で、吉良を見た。 そのか細い手首のどこから出たのだろうと思うほど鋭い力で吉良の手を振りほどき、 市丸は鍵をひねり、牢内に入った。 「市丸隊長!」 「ええから、お前はそこにいとき!」 思わず市丸の名を呼んだ吉良を振り向きもせず、いつもの胡散臭い笑みすらもかき消して 市丸は怒鳴り、彼に向かって抜刀した。 「なんで、俺が……!」 彼は悲鳴を上げて、拘束された両手首を額に当てて己をかばおうとしたが、 寧ろ吉良にはそれが、あまりにも無防備な姿に見えてならない。 あんまりだと思った。 こんなのは、残酷すぎる。 吉良は思わず膝を折る。 市丸に対する憎しみと彼に対する哀れみと行き場のない感情が涙となって、 後から後から吉良の頬を伝った。 間違っている、こんなことは。 正しいことじゃない。 冷たい床に腕をつき、吉良は吐くようにただ泣いた。 「イヅル、泣くんやない」 振り向きもせず、市丸は冷たく言い放った。 「隊長命令や。泣くな」 「……そんな」 泣きすぎたせいで、枯れた声帯から搾り出せたのはその3文字のみだったが、 「泣くな言うとるやろ!これ以上泣いたら、吉良、お前も、斬るで!」 容赦ない市丸の怒声が飛び、反射的に吉良は必死で涙を噛み殺した。 しかし、面を上げた吉良は、その瞬間、計らずとも彼と目が合わせてしまった。 彼は恐怖に染まった瞳を一心に吉良に向け、ただただ助けを乞うている。 信仰心すら帯びた瞳で。 ……すまない。 吉良は堪らず、目を伏せた。 ……僕には助けられる権限がないんだ。すまない。 吉良から目を逸らされ、すべての救いを失った彼は、瀕死の獣のような声で吼えた。 しかし、躊躇を、困惑を、微塵も見せず、市丸は斬魄刀を解放した。 その霊圧の凄まじさに、吉良は思わず顔を上げる。 そして、見てしまった。 あっけないほど簡単に、市丸の斬魄刀でその身を貫かれた彼の最期を。 伸びた市丸の刀によって、彼はしばらく壁に釘打たれたように静止し、 市丸がゆっくりと刀を縮めていくと、彼はその動作に呼応したように ゆっくりと地に伏した。 的確に左胸を貫かれたせいで、血は大して流れなかった。 痛みをこらえるために噛んだ舌を殺される刹那噛み切ってしまったのか、 血が唇を大量に伝っている。 そして、色を失ってしまったガラス玉のような目。 伸びた斬魄刀を元の脇差に戻し、市丸は手拭いで彼の血に塗れた 先端を丁寧にぬぐった。 その表情がいつもとなんら変わらぬことに、吉良はぞっとするほどの怒りを 覚えたが、全身に力が入らぬまま無様に這い蹲ったままだった。 「だから、言うたんや。来るなって」 牢から出てきた市丸は目を眇め、開口一番、そう言い放った。 床を這い蹲った姿で、吉良は傲然と立つ市丸を見上げる。 「……あなたには付いていけそうもありません」 市丸は吉良の言葉に衝撃を受けた様子もなく、斬魄刀を柄へと戻した。 「転属願を出します」 「……イヅル、お前、なんで泣いたんや?」 吉良の決意表明を当然のことのように市丸は無視し、そう尋ねる。 反発心から吉良もまた、市丸の問いを無視した。 「なんで泣いた!?」 しかし、市丸に更に問い詰められ、吉良は眉を吊り上げた。 「よくそんなこと言えますね!あんな残酷なことをしておいて!」 「泣くほうが、酷やろ」 一刀両断に市丸が言い放ち、吉良は言葉を失った。 「あの子が死ぬんは、もう決まってしもうたことや。中央四十六室の決定において」 静かにそう呟きながら市丸が振り返った先で倒れ伏す彼の遺体は、 しかし、吉良の怒りを嘲笑うかのように、ひどく穏やかに見えた。 「それなのに、下手に同情したら、あの子が苦しむだけやないか。 殺されるのが必至なら、変な期待や同情を与えたところで、 しんどくなるのはあの子のほうや思うねんけどな」 「……でも、最期の最期にあんなのってないです!」 必死に、吉良は市丸へと顔を向けて叫んだ。 それは立ち上がる余力すらない吉良の最後のプライドだった。 彼が処刑されるのは彼の罪を鑑みたら当然のことなのかもしれない。 だからといって、死神の処刑があれほどまでに暴力的に為されねばならないなんて、 そんなの、間違っている。 「じゃあ、イヅル、お前はどうされたいんや?」 吉良の自尊心を無碍にするかのように市丸は膝を折り、吉良の顔を覗きこんだ。 吉良の胸元を掴み、膝が笑ってしまっているが故 自らの力では立ち上がれない吉良を無理やりに立ち上がらせると、 手近の壁に押し付け、喉元を掌で押さえ込み、身動きが取れないようにする。 「なあ」 市丸は吉良の耳元に唇を近づけた。 「答え」 からからに乾いてしまった喉へ、吉良は慰めに唾液を送り込んだ。 喉の動きは市丸の掌にも伝わっただろうが、市丸は何の反応も示さなかった。 「……僕は、少なくとも、あんな惨めな死に方をしたくありません」 市丸は鼻を鳴らし、小馬鹿にしたように笑った。 「僕はな、イヅル、どうされたいんか聞いとるんや。 そないなこと聞いてるわけやない」 「……僕は」 口を開いた瞬間。 表で、激しいノックの音が聞こえた。 市丸があっけないほど簡単に吉良から手を離したため、 自らの身長より高い位置で壁に縫いとめられていた吉良は、 着地に失敗して、無様によろけた。 それをちらりと一瞥したものの、市丸は何の反応も見せず、表へと続く扉を細く開け放った。 「ああ、恙無く、終わったで。君もおつかれさんやな」 どうやら、扉の向こうにいるらしい誰かが市丸に何かを言ったらしいが、 吉良には市丸の声しか聞き取ることができなかった。 「隊長?どなたと……」 何かを憚っているような雰囲気をありありと肌に感じたが、緊張感に耐え切れず、 吉良は思わず市丸に問いかける。 市丸の背中は、それでも振り返らなかった。 「……ああ、うちの副隊長や。え?違反?相変わらず、かたいんやなあ。 いずれ隊長格になる人間なんやし、こういうのも経験として 見せておくのもええかと思うたんや。まじめすぎる子やしな」 低い声で市丸は扉の向こうの相手に言い、一瞬だけ初めて吉良を振り返った。 その苦々しいその表情に、吉良はぎくりとする。 「ええよ、謹慎やろうと、禁固やろうと、処刑やろうと。 好きにせえ。どれも似たようなもんや。勝手にしい」 市丸の背中に阻まれて、彼と相対しているのは誰だかわからない。 見てはいけない。 それはわかっているのに、なぜか吉良は足を踏み出しかけた。 その時。 「イヅル、来んな」 振り向かないまま市丸は言った。 今の状況で市丸に従うのは不本意だったが、それ以外、吉良には身の振り方を思いつかず、 結局、嫌々ながらも彼の言葉どおりにした。 「……なんでもええけど、はよ結論出しいや。うちの隊かて、忙しいんやから。 隊長がいのうなったらどうなるか、お前かて想像つくやろ? とりあえず僕らはもう帰るわ。結論出たら、教えてや。ほな、後始末、頼むで」 右手で追い払う仕草をし、市丸はやっと吉良を振り返った。 「帰るで」 「……誰と話していたんですか」 「誰でもええやん。それに、もう、思い出しとうないわ」 「でも処刑とか言って……」 「ああ」 しかし、市丸は口の端を吊り上げて皮肉っぽく笑い、ドアを振り返った。 「はったりに決まっとるやろ。……それより」 市丸は初めて表情を改めた。 「ごめんな」 「えっ?」 謝られたのだ、と認識するまでにしばらく時間がかかった。 そして、謝られた理由を思い至るまでも更に時間が必要となった。 ……彼を処刑したことか。 「夢、壊してしもうたわ、イヅルの」 どこか、苦みを含んだ口調だった、それは。 吉良ははっとして、市丸を見やった。市丸はどこか遠くへ視線を飛ばし、 吉良を見ようとはしなかった。 ……もしかして。 先程からひっそりと音も無く体内を満たし始めていた違和感が、胸中であるひとつの明確な形になっていく。 しかし、吉良はそれを直視することを恐怖した。 胸をほのかに甘く染めていた希望や期待を、失いたくはなかったのだ。 吉良君、一緒に頑張ろうね。 そう言って微笑んでくれた彼女と、いつまでも笑いあっていたい、心から。 ……吉良は、市丸から視線を背けた。 途端、疚しさが背筋を走りぬけ、吉良は体を震わせた。 「そんなもの、たいしたことじゃありませんから……」 顔を俯けながら、そう取り繕う自分に激しい嫌悪感を覚えながらも、 吉良はその理由を追求することを、体を強張らせ、頑なに拒絶し続けた。 眩いほど白い、市丸の足袋を見つめながら。 ……いつまでそうしていただろう。 実際のところは、そうたいした時間ではなかったのかもしれないが、 吉良にはひどく重く長い時間だった。 見つめ続けていた市丸の左足が不意に動いた。 ゆっくりとそれは空で半回転し吉良に踵を向けた。 「……帰るで、イヅル」 市丸は吉良に背を向けた格好で先程となんら変わらぬ口調でそう言い、 ゆっくりと出口に向かって歩み始めた。 まるでインクが混ざり合いつつあるかのように朝焼けが滲み出した空を見つめると、 数歩前を歩く市丸の背がどうしても視界に入ってしまうのだった。 見たくはないのに、彼の背のあまりの薄さが気になって仕方ない。 朝焼けが見たいのだ。 吉良は自分に言い聞かせるように、強く思う。 彼の背が見たいわけではないのだ。 ……ともすれば、市丸の華奢な肩口に固着してしまいそうな視線を強引に逸らすため、 吉良は市丸の傍らに走り寄る。 「さっきの話ですけど」 そう口火を切るには、想像していた以上の勇気が必要だった。 「何?」 思い出せなかったらしく、市丸は眉根を寄せた。 「同等の存在を、そうと知りながら裁けるのは人間だけだという話」 「ああ」 どことなく苦々しげな口調で市丸は呟き、微かに首を縦に動かした。 「だとしたら、隊長も同じなんですか?」 そうだと言ってほしい。 ふと気が付くとそう願っている自分に気づき、吉良は慄然とした。 ……貴族とは名ばかりの下級貴族の家に生まれた。 貴族という名前に縋り付くばかりで何もできない父親と、 息子の出世を、そしてそれに付随するであろう自らの安寧な生活ばかりを、 ただ期待し続ける母親を見ているのが辛かった。 そんな彼らが死んでしまってからは、親戚を盥回しにされて生きてきた。 苦労してやっと手に入れた、死神という花形の職業だった。 一緒に頑張ろうと誓い合える友人に恵まれ、恋しい人にも出会え、すべては始まったばかりだった。 そんな昨日までの幸福を、昨日までの日常を続けるためには、今日の経験は記憶の底に沈めねばならず、 だとすれば、この記憶の共有者たる市丸は、 これまでどおり近寄りがたく冷たい存在でなければならない。 ……市丸は不意に立ち止まった。 ぴりぴりするほどの強い視線を眉のあたりに感じたが、 薄闇に隠れて表情の判別が吉良にはつかなかった。 異様なまでの緊張感を強いる沈黙が続いた。 いつ斬りかかられてもおかしくない気がして、吉良は目を閉じ、頭を垂れて 両の掌をきつく握り締めた。 しかし吉良の頭上に降り注いだのは苦い吐息だった。 「僕はな、ただの道具やねん」 次いで苦笑とともに吐き出された声は、完全に吉良の虚をついた。 「道具……?」 「そうや」 うっすらと笑みをその口元に浮かべ、市丸は軽く肩を竦めた。 「これの」 そう言って、市丸は自らの斬魄刀を指で指し示した。 「おまけみたいなもんや、僕は」 「そんな……」 薄ら笑いを浮かべた顔と、あまりにもペシミスティックな発言の間には、差異がありすぎて、 吉良はただ戸惑うことしかできずにいた。 「嘘」 市丸はあっけらかんとそう言って、吉良の顔を覗きこんだ。 「そうや。だってしゃあないやろ?あの子を処刑せえへんかったら、 僕の進退問題に関わってくるんやし。僕かて損しとうないわ」 あまりにも見え透いた嘘だった。 しかし、そう言うよう仕向けたのは明らかに自分なのだということを、 吉良はよくわかっていた。 ……もう考えたくないのに、冷静な自分が頭をもたげてそう囁く。 市丸は、自分の最低な願いに既に気づいているのだと。 この自分の望みを叶えるため、あえて彼にとって残酷この上ない演技を続けているのだと。 やめてくれ、そう叫べたらどんなに楽かもしれない。 けれども、彼の演技をとめるということは、とどのつまり、 自らを覆う欺瞞を捨て、真実を直視せねばならないということだ。 ……声を立てて市丸は笑ったが、その快活さはとってつけたようにに吉良の耳孔で響いた。 「ほんまにかわいいな、イヅルは」 「は?」 思いがけないことを言われ、吉良は戸惑った。 「烏が鳴くから帰ろ」 市丸は吉良の知らない歌を拙く口ずさみ、微かに笑った。 「もう朝や。そないな話を続けたら、今日一日気分が悪うなってまう」 ……確かに市丸の言うとおり、いつのまにか鮮やかなオレンジ色の朝焼けが夜の大半を塗り潰してしまっている。 このままで終わらせていいわけがないことくらい吉良にもわかっていたが、 だからといって、朝の光を浴びながら話の続きをすることはどうしてもできなかった。 自分の浅ましさに、この朝の光は清冽すぎる。 ……だから、吉良は唇を噛み締め、卑怯な自分に耐えることしかできなかった。 |