「例えば」
おざなりすぎる愛撫は長引けば長引くだけ、彼が望むような効果からは程遠くなり、 こそばゆさばかりが我が物顔で市丸の感覚を占領する。
肌を滑る、感情がまるで篭っていない機械的なその動きを市丸は阻もうとしたが、 彼の顔を一目見て、その考えを撤回する。
そして、納得した。
彼の指先が無感情なのは、彼の表情にすべての感情が収斂されているからだと。
「この場で僕が君に弱さを見せたとしたら、君はどういう反応をするんだろうね」
目の前が一瞬、赤く染まった。
どうしても正視し続けることができなくて、市丸はゆっくりと彼の顔から目を逸らし、 震えそうになる顎を、きつく歯を噛み締めることでどうにか抑制する。
……どうして今更そんなこと。



世界の変革。
そんな大それた願望によって、彼は今や自家中毒を起こしている。
元来、温厚な性格の彼が、既に構築されている世界一切を破壊する者になろうと願ったことがそもそもの間違いであったのだろう。
破壊へと邁進せんとする己と調和を愛さんとする己というアンビバレンツが、速かれ遅かれ彼を引き裂くであろうことは、自明の理であったのだ。
だからこそ彼は、いずれ訪れるであろう二律背反の問題を回避すべく、自分と市丸の関係を明確なる支配者と被支配者の図式を当てはめ、市丸にもそれを強いたのだった。
苦悩の吐き出し先として。目的を持ちきれず転落したときに、再び目的へ舞い戻るための踏み台として。
藍染の望みに沿うため、まるで熱い湯に浸かるように足先からゆっくりと時間をかけてその温度に馴れていったのに、 今更ながら別の関係性をもこの自分に求めようとするなんて卑怯すぎる。
もはや彼は、この自分にとっての英雄になる以外の方法などないのだ。
彼が世界を変革するという前提があるからこそどんなことをされようとも、 あぶくのように浮かびそうになる様々な感情とどうにか折り合いをつけて来られたのだ。
捻じれ、縺れ、絡まりあいながら、ここまで共に悪魔のワルツを踊り続けてきた。
そのダンスは、朝が来たら音楽を止めて、疲れた足を引きずりながらも充足感で満たされつつ 帰路につける類のものではないことくらい既に承知しているだろうに、今更、自分ばかりが辛いような顔をして。
……市丸はなるべく何でもない風を装って、今度こそ彼の単調な指の動きを封じた。
「虫唾が走ります」
吐き出した声は苦かった。
しかし、藍染が乾いた笑みだけを投げ捨てて身を離した途端、 市丸は漠然とした不安感に襲われた。
紛れも無く本音を口にしたはずなのに、何かを間違えた気が無性にする。
しかし、いったい何を?
不快な予感は縦横無尽に背を這い回り、市丸は微かに身震いする。
「よく、わかった」
やがて、藍染は死覇束に手を通しながら、小さく、しかししっかりした口調で言った。
「僕の行くべき道が」
何の話なのだと問わねばならない。
一刻も早く。手遅れにならないうちに。
だが、市丸が口を開くよりも早く藍染はこちらを振り返ってしまった。
敵襲前夜の城門のように固く閉ざされた藍染の瞳を一瞥した途端、メデューサに魅入られでもしたかのように市丸の喉は石化し、一切の言葉が封じ込められてしまった。
「ありがとう、ギン」
藍染はにっこりと笑った。完璧すぎるその笑みは市丸に吐き気を催させた。
しかし、市丸はその笑みから目を逸らしてはならないことに気づいた。
寧ろ、己もそうした笑みを浮かべねばならないのだということにも。
……残る気力を総動員させて、市丸も笑みを浮かべた。
その瞬間、自分と彼を繋いでいたか細い糸が切れる音が聞こえたような気がした。



明日になれば、今までマーブル模様のように、混ざり合いながらも 溶け合うことはなかった2人の関係はすべて無に帰され、 ただの同志としての関係になるのだろう。
それが本来、自分たちが歩むべき道であり、自分の選択は決して間違ってはいまい。
寧ろ、今まで何よりも望んでいたはずなのだ。
だというのに、今の自分がひどく不安定のように感じるのはなぜだろう?
まるで、少しの風ですら、ふわふわと頼りなく煽られる風船のように。
……布団の中に僅かに残っている彼の温みをすべて抱きかかえんと、 市丸は大きく体を伸ばし、最後の夜くらい悲嘆に暮れることを許してくれるよう願ってみる。
しかし、元から受け入れる対象などない市丸の願望の先にあるものといったら、 荒涼とした風景と、その中心で屹立する認めたくなかったはずの己の本心のみだった。
――騙すのであれば、完璧に騙すべきだったのだ。
本心と向かい合うことを拒絶するため、市丸は藍染を内心で罵る。
――弱さなど、普通の人間としての弱さなど、この自分に見せるべきではなかったのだ。
何をされてもついていかねばならない。
かつての自分のような子供が苦しむことのない世界を実現すると宣言した彼に対して、 あの頃、簡単に肯じた自分が負うべき責任がそれだった。
だから、大切なあの子を、巻き込まぬように、世界を変革するために毒の塊と化した彼から遠ざけるために、 必要以上に近寄ることを自ら禁じた。
だが、人として当然の寂しさという感情を超えるためには、彼の存在を妄信することが必要であり、 妄信するためには、我が身を彼のために投げ出す必要があったというのに。
最初に裏切りを、少なくとも自分にだけは見せてはならなかったものを――人間である以上 誰しもが手中に収めている弱さだとか欠点だとかを――持ち出そうとしたのは彼なのだ。
それは、何よりも大切だったあの子を置き去りにしてまで彼に付き従おうとした自分の決意を無碍にすることであり、 それがどんな効果を及ぼすかということを知らなかったとは言わせない。彼はそのくらい、見通して然るべきなのだから。
現実から逃避するためには、彼の上に思い通りの彼を作り上げて、それを信じる以外の方法はなかった自分に対して、 彼は今、言葉と行動で、それが罪であったと暗に言おうとしているのだ。
しかし、自分は彼に対して、こんな手酷い罰を受けねばならぬほどのことをしてきたのだろうか?
彼が自分に対して行ってきた、数々の残酷な行為以上の何かを。
マイナスばかりを積み上げて、のっぴきならない状況に互いを追い込んできた今となっては、 どちらが間違っていたかを論う次元でもないのだろうけれど。
「完璧にならなあかんのです」
枕に顔を押し付け、誰にも聞かれないように密やかに市丸は呟いた。
「それがあんたの義務なんやから」
その結果、胸が痛むとしても、それに某かの名前を与えてはならない。
なぜなら、自分たちの関係性は、あくまでも目的のために結びついた同志以外であってはならないのだから。そう望んで決めたのだから。
……それでも、喪失感は目の前に立ちはだかり、その奥で眠りの精は立ち往生している。
眠りという武器を奪われた今、市丸1人の力では、夜の圧倒的な力に敵いそうになかった。
きつく枕を抱きしめ、できるかぎり細かく誰かの肌の感触を思い描がこうとしたが、 その肌の持ち主が誰であるかに思い至った市丸の心が挫けた途端、夜は更に容赦なく市丸の上に圧し掛かり始めた。
重苦しく粘着性を帯びた夜は、肌にぴったりと張り付き、呼吸すらもままならない。
その息苦しさに喘ぎながら、その重さに身を捩じらせながら、ひたすら朝を待つより他ないという絶望的状況が、 あと何時間続くのだろう?
本当は、どんなに卑劣で矮小な存在であろうとも、彼さえいてくれればそれでいいのだ。
もはや改革など起こさなくても、彼がいればそれでいいのだ。
半ば強引に消去したあの子の記憶は今や自分の望んだとおり思い出すことなく、 意識的に根付かせた彼への思慕がもはや自分にとっての真実になってしまった今、彼以外の存在を求められようはずもない。
……しかし、既に市丸は、望んではいなかった本心の欲求が暴れまわる様を見つめながら、 ひたすら朝を待つより他ないのであった。









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