ふと芳しい香りが鼻先を掠めたような気がして面を上げた市丸は、まるで別れを告げられた事実を受け入れられず泣きじゃくる女のように鬱陶しかった雨雲が、 いつの間にか取り払われていることに気がついた。 外は、己の中で育ちつつある夏という衝動に躊躇いながらも、 少しずつそれに順応しつつある、初夏独特の遠慮がちながらも目映い光で満たされている。 それは、目の前にある書類の紙が色褪せて見えるほど明るくて、 先程まで一心不乱にそれと向かい合っていたことを遠まわしに嘲られているようだった。 苦々しい気持ちになった市丸は、再び書類に視線を戻す気分になれず、 かといって、再び外へと視線を戻す気分にもなれず、消去法から目を閉ざすことを選択する。 途端、必要以上に嗅覚に意識を集中させている自分に気づいた。 まるで、先程までの感覚、行為すべてが、このための布石であったかのように。 ……しかし、その匂いは鼻を擽ることはなく、市丸は内心でほっとしながら目を開ける。 心なしか、外の眩さが気にならなくなったような気がした。 今度は堂々と窓枠の先にある夏の風景を眺めた市丸は、しかし、 ひとつの可能性に心ならずも思い至ってしまい、再び外の世界から目を背ける。 それは、もしかしたら、幻臭だったのかもしれないという想像だった。 既に脳髄深くまで絡み付いて離れないその記憶の中の香りが、初夏の風景と結びつき、 嗅覚を刺激したのではあるまいか。 あの花の匂いがこの三番隊執務室まで届くわけがないのだし、幻臭であるほうが自然なのだが、 それほどまでにあの花に取り憑かれているのかと思うと、ひどく不快だった。 「もう、そないな季節なんやな」 そう呟いたのは、その想像を振り払いたいがためだったのだ。純粋に。 しかし、実際に言葉にしてしまった瞬間に、それは別のもっと下劣な欲望をも吸い込み、純粋さからは程遠い何かに変換されてしまう。 締め切り近い書類をいくつも手元に置きながら悠長に表を眺める上司に文句をつけることより、自分の分の書類を処理することに すべての労力を費やすことを固く心に決めていたらしい様子だった吉良だが、 市丸の意味深な呟きに些かなりとも興味を惹かれたのか、書類から顔を上げた。 聞かせるつもりがなかったというと嘘になるが、元より答える気もさらさらない。 つくづく、自分の姑息さに吐き気がする。 最近は自分でも気づかぬうちに腹黒く頭を働かせては、ちょっとした瞬間にも誰かの関心を買おうとしている。 掌に刺さった小さな棘のごとく、自分の言動や行動が彼らの瞬間に違和として残るように。 彼らの違和感をひとつに纏めたら、市丸ギンというひとつの像が結べるように。 そうすれば、仮に自分の存在が消えてしまったとしても、自分がここにいたという証は消えないであろうという期待を込めて。 「ちょっと、散歩に出てくるわ」 もしかしたら、この言葉もそんな願望の表れも含んでいたのかもしれない。 しかし、散ってしまう前に、意識を完全に乗っ取られてしまう前に、あの花と相対しなければ、と思ったのも事実なのだと市丸は内心で自己弁護する。 「すぐ、帰ってきてくださいね」 ……上司の気まぐれには馴れ切ってしまったが湧きいづる不快感は隠しきれないといった表情を 吉良は浮かべたものの、口にした言葉は、締め切り直前の書類をいくつも抱えながらも遁走を宣言した上司に対しては 寛容すぎるほどのもので、市丸は吉良の部下としての度量の深さに少しばかり感嘆した。 まるで冷たい水に浸かるかのような慎重さで、市丸は初夏の光に掌を浸した。 この白い光を浴びた途端、道の真ん中で揺らめく陽炎のように自分が消え失せてしまうというつまらない妄想に なぜか毎年、一度は囚われるのだった。 ――吸血鬼じゃあるまいし。 光を当てた掌を眺め、何ひとつ変わっていないことを確認した市丸は己を嘲笑い、それからできるかぎり胸を張って、初夏へと身を投じた。 途端、白く濁った世界が市丸の皮膚を包み込み、息が詰まりそうになる。 必要以上に白すぎる初夏の世界は、まるで些細な罪までも糾弾する理想的道徳主義者のようだ。 だからこそ、あの花はこの季節を選んで咲き誇っているのだろうと市丸は思う。 どんなに背伸びしても届かない高い位置で、神のような眼差しで人々の営みを俯瞰する、あの花。 元よりそんな資格はあの花にはないというのに、澄ました顔をして。 決して、意図して植えられた木ではないのだろうが、初めてここに連れてこられ、 思わず咲き乱れるあの花の美しさに立ち止まった市丸の耳元で、 嫌な笑いとともにあの花の名を吹き込まれたとき、 俗に運命という呼ばれ方をする、見えざる第三者の悪意を感じ、ひっそりと嗤ったものだ。 うっとうしいまでに可憐な花。 憎らしいほどに清廉な花。 ……市丸は、ふと足を止め、少しだけ目を瞠る。 この建物の住人はその仕事内容の性質からか、日中、あまり外に出ることを好まない。 だから、徒に足を運んでも、誰にも邪魔されることなく心ゆくまでその木を見上げることができたのだが、 今日は、白い花を見上げる思わぬ先客がいたのだった。 気づかない振りをして通り過ぎてもよかった。 事実、その花を見上げているのが彼女でなかったら、涼しい顔で無視できただろう。 「ルキアちゃんやないの」 しかし市丸が声をかけると、彼女は一瞬、びくりと体を震わせ、固い眼差しのまま黙礼を返してきた。 今の一連の彼女の行動から、彼女が自分に出会いたくなかったのであろうことは簡単に知れたが、 市丸はいつもどおり、それに気づかぬふりをした。 彼女が元々、自分を恐れていることは既に承知している。 例えば、六番隊隊長である彼女の義兄が彼女を伴って歩いているときなどに、彼女の義兄に声をかけでもすると、 彼女は襲われかけている草食動物のような悲壮な面持ちで、市丸という嵐が去るのをじっと待っているのだった。 だから市丸は、彼女の義兄が彼女を連れているときは、あえて声をかけるようにしていた。 彼女が本能的と処理しているものを因数分解することを期待して。その結果、同属嫌悪という答えを導き出すことを期待して。 「懐かしゅうなった?この場所」 もしかして、何か思い出したのだろうか? そう思った市丸が探りを入れてみると、彼女は訝しげな顔で問い返してきた。 「何の話ですか?」 当然、覚えていないだろう。市丸はそう思う。 なんせ、あの頃の彼女はほんの幼子だったのだ。 ……しかし、落胆は禁じえなかった。 「こっちの話や。それより、なんでこないな所におるん?」 意味深な笑みを漂わせたのは、彼女の記憶を喚起するためでもあった。 覚えていないのはわかったが、大脳レベルではどうだろう? もしかしたら、ほんの一片でも、彼女の脳髄であの頃の記憶が眠っているのではないか? 早く思い出せばいい。 そうして、この自分と同じ位置に下りてくればいい。 「市丸隊長こそ」 しかし、ルキアは微かに首を傾け、世間話独特の緩慢さを漂わせた言葉を発したに過ぎなかった。 「僕は、毎年、この時期になると、この花を見に来るんや」 ヒントを与えるために正直に答えると、ルキアはやっと顔を綻ばせた。 まるでこの花のように可憐な笑みだった。 それが許せないのだというのに、なんて無防備に微笑むのだろう。 「もしかして、市丸隊長もですか?」 「『も』って何?」 市丸はルキアの唇の動きに注目する。 「私もこの花が好きなんです」 市丸が抱いた緊張感などまるで気に留めていないようにルキアは緩やかに唇を動かし、 更には思わずといった態で目を閉ざして、胸いっぱいにその花の香を吸い込んでさえ見せた。 その仕草はひどく幸せそうで、だからこそ余計に市丸の苛立ちを募らせる。 この香りは、そうやって大きく吸い込むべきものではないのだ。 浅い呼吸の狭間に、さりげなく嗅ぎ、吐き気を催すべきなのだ。 特に自分たちは。 「この匂いを嗅ぐと、なんだか懐かしい気がして」 懐かしい? 市丸は思わず眉根を寄せる。 記憶がないからといって、そんな能天気な発言が彼女の口から飛び出すとは 思いもかけないことだった。 ルキアの無意識ではそんな甘酸っぱい思い出に変換されているのか? それとも彼女にとって、この花は、この場所は、元より甘さを帯びたものなのか? ……それとも。 「残念やけど、僕、この花、大嫌いなんや」 体内で膨らんだ憤りが、市丸の声を尖らせる。 怯えるというより寧ろ、ルキアは驚いたようだった。 少し、言葉を捜すように沈黙し、やがて彼女はなぜか怒ったような色をその 大きな双眸に浮かべた。まるでこの白い花を守るように。 「じゃあ、なんのためにここに来るんですか?」 「よう、わからん」 市丸は肩を竦めた。 そう問われると、自分でも不思議だった。 毎年、不快感以上のものを覚えているのに、 なぜ、毎年のようにここに通い続けているのだろう? しかし、ルキアにだけはそれを問われたくないのも確かであった。 「嫌な記憶しかなくても、懐かしいと思うんやろか」 怒りと、それから悟らせたいという気持ちが交錯した。 あえてルキアの顔を覗きこむと、ルキアは眉を顰めた。 「それとも、この花がニセアカシアっちゅう名前やからかな」 「ニセアカシア……」 唇に止まらせた蝶を思いやるかのようにそっと、ルキアは反芻した。 「なんや、ルキアちゃん、もしかして、この花の名前、知らんかったんねや? 好きなくせに」 意地悪くそう言うと、恥らうようにルキアは小柄な体を更に縮こませ、 そして、沈黙だけが2人の間に落ちた。 「なぜ、ニセアカシアというんでしょう?」 果たして、沈黙に耐え切れなかったのか、単純に疑問に思ったことが口をついただけなのか、 どちらにしても、ひどく奇妙なタイミングでルキアは呟いた。 目を上げた市丸は、慮るような眼差しで彼女がこちらを見つめていることに気づき、ぞっとした。 嫌な記憶というフレーズを口にしたのは、彼女に忘れ去ってしまった哀れな記憶たちを、蘇らせてやりたかっただけに過ぎないというのに。 「この花の美しさは本物なのに。この木は確かにここに存在するのに」 市丸から目を逸らし、まるでこの自分に言い聞かせようとでもいうようにゆっくりと、この一言だけは譲れないとでもいうようにきっぱりと、ルキアは続けた。 それは単純で素直な疑問だった。 彼女に対する妬ましさと、そんな彼女を祝福する気持ちが混ざり合う。 だから、この美しくも忌まわしい世界にも彼女はきれいに馴染めるのだ。 この木とすら同じ風景に馴染めるのだ。 彼女は上手にこの世界と同化して、この自分は取り残されていく。 ……元は同じだったはずなのに。 いっそ、暴露してしまおうか。 君はかつて、この建物――十二番隊で実験に次ぐ実験の末、崩玉という奇妙な物質を体内に投入されたのだよ、と。 そして、僕は君と同じ時期に、その当時は少し霊力があるだけのただの霊体でしかなかった体に、 怪しげな薬を投与され、卍解まで習得させられたのだよ、と。 実験の内容にこそ差異はあれど、何の因果か選び出され、 この建物に通っては怪しげなものを体内に捩じ込まれたことに違いがないのだよ、と。 だから自分たちは他の死神とは違い、偽者の死神でしかないのだよ、と。 ……本物になるための努力は必死でした。 学院時代、さまざまな技を編み出しては、それをなんでもないことのように涼やかな顔で かつ絶妙のタイミングで放てるように練習に練習を重ねた。 自分以上に鬼道も白道も扱える死神はいないと言われるまでに鍛錬した。 しかし、どれだけ能力を磨いても、孤独感からはどうしても逃れられなかった。 かたや彼女は、大した能力も持たず、大した努力もせず、ひたすら悲しげな顔をしているだけであったというのに、 受け入れてくれる義兄がいて、明らかに彼女を好いていると思われる男がいる。 元は同じ存在であったはずの自分たちのこの差異は、いったいなんだというのだ? それは、記憶の有無だけに違いない。それ以外に理由などあろうはずもない。 ニセアカシアがこの季節になると何食わぬ顔で白い花を咲かせ、神の眼差しで 下界を見下ろせ得るのは、自分が偽物であることを知らないだけなのと同じように。 ……ああ、それなのに、唇の重みが邪魔して、声が出ない。 「バイバイ、ルキアちゃん」 やっとのことで言えた言葉といえば、こんな毒にも薬にもならない無難な挨拶だけだった。 妙なタイミングで投擲されたそれに、ルキアは不思議そうな顔をしたが、 声に出しては何も言わなかった。 今が夕暮れ時であることに気づいたのは、手首周りで切る空気が冷たさを増していると感じたからだった。 これまで地に固定したままだった視線を上げると、既に辺りは柿のように熟しきっている。 ルキアと別れてから、どのくらい歩き回っていたのだろう? 夜に侵食されつつある空を見上げ、市丸は1人、苦笑する。 「市丸隊長」 不意に背後から名を呼ばれ市丸が振り返ると、市丸から数mの距離を保って立っていたのは、思いがけないことに吉良だった。 半顔をオレンジ色に染め上げた彼は、静かに笑う。 「涼しくなってきましたから、帰りましょう」 「……なんで、僕がここにいるってわかったん?」 「だって、市丸隊長がいなくなったときは、大概、ここに来るじゃないですか」 訝る市丸を不思議そうに眺めて吉良はあっさりとそう答え、視線を下へ下ろした。 「まあ、確かにいい景色ですよね。街が一望できて」 そのときになって初めて市丸は、自分がこの街でいちばん眺望がいいと常々思っている丘の頂上に立っていたことに気づく。 吉良の仕草に誘われ市丸もまた首を伸ばすと、眼下では徐々に地の光が力を漲らせつつあるのだった。 人工的な星々はゆらゆらと市丸を手招き、憑き物が落ちたような気分になる。 「さあ、帰りましょう」 市丸の不快感を煽らぬ程度に労わりの色を含んだ眼差しで市丸を見つめる吉良の肌の上で、 そのとき、彼の日常にひっそり刺し込んできた棘が、夕暮れの光を浴びて反射したような気がした。 働き蟻のごとくにせっせと打ち込んできた姑息な行為も、どうやら無駄ではなかったらしい。 ここまで自分を捜しに来てくれたことが仮に吉良の意志などではなく自分の努力の結晶でしかなくても、 今、ここに彼が現れたことが市丸にとっては大きな救いなのだから。 「せやな。帰ろ」 「そんな風に張り切っていただけると、僕たちは助かります」 ……しかし、せっかくの気分が一気にぶち壊すようなことを、あっさりと吉良が言い、 今、自分が置かれている状況をやっと思い出した市丸は、なんだか損をしたような気分になった。 |