木枯らしが、がたがたと障子を揺らした。 暖房のせいで気だるい眠気に囚われていた藍染は、その音で我に返る。 手に握り締めていた書類は大分読み進めたつもりだったが、まるで頭に入っていない以前に この書類が何の書類なのかという根本的なことすら失念してしまっている。 快適すぎるこの室温は、どうやら仕事の能率という点においては不適応らしい。 「雛森君」 自分同様、どこかぼんやりとした眼差しで書類に視線を滑らせている副官の名を呼ぶと、 彼女は体を大きく揺らした。 「はい!」 2人きりのしんとした執務室で出すには些か大きすぎる声で雛森は返事をしたが、 すぐさま本人もそれに気づいたらしく、頬を赤らめた。 「ちょっと散歩に出てくるよ。少ししたら帰ってくるから」 「えっ?でも、外は寒いですよ」 戸惑ったように、雛森は外へと視線を向けた。 確かに窓の外は層の厚い雲が空全体を覆い、今にも雪が降り出しそうだ。 「少し眠くなってしまったからね。目を覚ますには、寒いくらいがちょうどいい」 「あ、じゃあ」 そう藍染が微笑むと、よく気が利く副官は焦ったように自分の机の引き出しを開けたがいいが、 中を覗き込んだ途端、躊躇った色をその愛らしい顔に立ち上らせ凍りつく。 「雛森君?」 「これ、使ってください」 藍染の呼びかけに慌てふためきながら彼女が引き出しから取り出したもの、それは綺麗に折りたたまれた紺色のマフラーだった。 「これは?」 「あ、あの、作ったんです。別に誰かにあげようってわけじゃなかったんですけど。失敗しちゃったし……」 雛森は言い淀み、再び頬を赤らめた。 「だから、よかったら、使っていただければ……」 どうやら、この自分のために作ったらしいことはなんとなく知れたが、藍染は気づかなかったふりをした。 「ありがとう。有難く使わせてもらうよ」 彼女が不信感を抱かない程度に優しく、かといって変な期待を抱かない程度に冷たく藍染は微笑んで マフラーを首に巻きつけると、彼女が言葉を挟む隙を与えず早々に執務室を出た。 曇天が垂れ込める中、乾いた土をゆっくりと踏みしめるようにして藍染は歩く。 冷気が真夏のシャーベットのように溶けかけていた自分の輪郭を固めていくようだ。 唯一、首周りの温みが邪魔な気がして、藍染はマフラーの長い裾を掴んだが、 思い直してそれを見つめた。 そのマフラーは所々編み目ががたがただったが、太い毛糸で丁寧に編まれている。 ……なぜだか、不意にそれが愛おしく思え、藍染はきつく握り締めた。 こうして名も無き日常の象徴が与える温みに顎を埋め、あえて身を切るような寒さの中を歩くこの矛盾。 こんな不恰好なマフラーなど投げ捨ててしまえばいいのに、それすらできない自分が、 いったいどこへ行けるというのだろう? そんな甘えという感覚は、自分の無能さと正比例して。 ……突如、耐え難い衝動に冒された藍染の目に、ふと柊の木が映った。 意味も無く足音を殺して、藍染はその柊に歩み寄る。 手を伸ばして華奢な枝に触れると、瑞々しい肌触りがした。 体一杯に生命を息吹を宿らせて、彼は一心に太陽へと手を伸ばしている。 数ある木々の中で、数ある枝の中で、他ならぬ彼に目が吸い寄せられたのは、恐らくそれが理由だろう。 自分の生をできるだけよりよいものにするための単純な本能。 迷いの無いその純粋さがひどく憎らしい。 藍染は枝を手折るため、指先に力を込めた。 しかし、その枝は若すぎるせいかなかなか折れようとはせず、何度もむきになって指に力を込めるうち、 その衝動は結局のところ、単なる八つ当たりに過ぎないのだと気づいた藍染の手が止まる。 そのときだった。 「何してはりますの?」 絶妙のタイミングで背後から声を掛けられ振り返ると、正気を疑うといった面持ちで藍染を見つめているのは市丸だった。 腰に斬魄刀を帯刀しているところから察するに、どうやらこれから仕事に行くか今帰ってきたばかりかの、 どちらからしい。 「散歩だよ」 その白すぎる肌のせいでこの寒空の下では浮世離れして見える彼は、しかし藍染の返答を聞くや否や極めて俗っぽい言葉を吐いた。 「このくそ寒い最中に……。アホやないですか」 「冬は好きなんだ。寒さは、感覚を鋭敏にするからね」 藍染がどうやらあまりの寒さのせいで気が立っているらしい市丸の毒舌を受け流せたのは ふと、彼の首に視線が吸い寄せられたからだった。 彼の細く若々しい首は、今さっき手折ろうとして叶わなかった柊の枝にひどく似ていた。 手を伸ばし、両手を添えて力を込めれば、容易くポキリと音を立てて折れ、瑞々しい樹液を藍染の掌に零すことだろう。 自分の手の中で彼の首が音を立てて折れる感触を、掌の中で樹液が零れる感触を、藍染は生々しいほどリアルに想像した。 腰の辺りがざわめいてたまらない。 いっそ折ってしまおうか、その首を。 「随分と自虐的なんやなあ」 寒さのために色をなくした唇を億劫そうに動かして身を縮めた市丸は、この自分の視線の意味を、 この自分の中で巣食う妄想を、恐らく想像だにしていない。 もし気づいていたら、人一倍自己防衛本能が強い市丸のことだ、そんな暢気な呟きなど漏らすまでもなく、この場からさりげなく逃げ出すことだろう。 「そろそろ雪が降りそうだね」 世間話のような顔をして、その実、市丸の視線を自分以外の所へ向けさせるための言葉を、藍染は口にする。 何も気づいていない市丸は、素直に天を仰いだ。 その隙に先程の柊に対してと同じようにそろそろと市丸に近づき、その首筋に両掌を押し付ける。 そこでやっと市丸は不穏な空気に気づいたらしく、両の瞳を藍染へ向けた。 でも、もう手遅れだ。藍染は内心で笑う。 ひんやりと冷たい彼の首筋は、藍染の体温を貪欲に吸い込み、一刻も早く本来の熱を取り戻そうと激しく脈打っている。 その、掌に心地よい刺激を与える脈動から再び樹液の感触を想像した藍染は、総毛立つほどの欲望に突き動かされる。 この自分の掌のもとで力を漲らせつつある彼の血が完全に通いだしたら、本当にこの細首を手折ってしまおう。 それで何が変わるというわけではない。それはわかっている。 しかし、ほんの一時でも激しい充足感で満たされることができるのなら。 そして。 ……そして? ふと、冷たい感触が左手の甲の骨に響いた。 華奢な市丸の顎で強張っていた視線を剥がし下へと下ろしていくと、彼の薄っぺらい右手が 藍染の手の甲に宛がわれていた。 「ええんですよ」 市丸は微かに笑んでいた。 「それで気が治まるのなら、こんなん好きにしてもろうて」 知っていたのだ。 笑いそうになる膝に力を込めながら、藍染は痺れるようにそう思った。 彼は知っていて、それでもこの両手を首に宛がわせた。 ……途端、指から力が抜けた。 「なんのことだい?」 市丸の首筋から手を離しながら、言い訳のために必死で脳を回転させた藍染は、ふと思いついて自らの首に巻かれたマフラーを取り去った。 市丸の眉間が、ゆっくりと曇っていく。 「あまりにも君の首が寒々しかったからね。暖めてあげたかったんだよ。よかったら、これを使いなさい」 市丸は差し出されたそれをしげしげを見つめ、やがて溜息を漏らした。 「これ、雛森ちゃんが作ってくれたもんやないの?つけてやらなあかんでしょうに」 「いいんだ、別に」 「かわいそうになあ、雛森ちゃん」 マフラーから目を逸らし、市丸は大袈裟に嘆息してみせる。 「こんな鬼で悪魔で冷血なくそ隊長に惚れてしもうて」 「もしかして、嫉妬してるのかい?」 「頭おかしいんちゃう?」 市丸のペースに影響された藍染が思わず冗談めかしてそう言うと、市丸はそっけなく、しかし容赦ない一言を返してきた。 「あー、あんたのせいで、余計に寒い時間を過ごしてもうたわ」 演技的に肩を竦め、市丸は色素の薄い髪を揺らして踵を返した。 「僕、もう帰りますさかい、あんたは好きなだけ頭を冷やして帰るとええですよ」 「なんだ、やっぱり嫉妬してたのか」 「……ほんま、お気楽な頭してはりますな」 振り向きざまに市丸は気温以上に冷たい一瞥をくれた。 「うちの執務室に来るといい。お茶くらい出すよ」 「結構です」 誘いの言葉は、即座に拒絶された。 「つれないな」 「あんなあ……」 再び振り返った市丸はうんざりしたように顔を顰めた。 「口ん中に冷たい空気入ってくるから、あんま僕に喋らせないでもらえます?」 「あはは、ギンはかわいいね」 冗談半分本気半分でそう言うと、人1人殺せそうなほどの勢いで睨みつけられた。 「もう付き合いきれんわ。さいなら」 手首を前後に撓らせてぐらぐらと手を振り、市丸は立ち去っていった。 1人残された藍染は彼の背を見送りながら、微かに溜息を漏らした。 溜息は白く煙り、ゆっくりと冷たい空気の中に溶けていく。 不意に虚脱感が藍染の全身を覆った。 ――君は、そうやって自分の体を投げ出してでも、僕を冷気の中に立たせようというのだね。 藍染は笑う。いや、笑う以外の捌け口を思いつけなかったのだ。 ――そして、それに失敗すると、普段どおりの軽口でそれを悟らせまいとする。 遠回しな策略でこの自分を陥れ、徐々に選択肢を減らし、最終的には世界を変革するための道具へと追い詰めていく。 藍染自らが選び、望み、結果、行き着いた道がこれだったと思わせるために。 すべてをこの自分に託すために。 ……笑いは神経的な発作へと変わった。上空を見上げながら、藍染は笑い続けた。 下界の静けさとは対照的に上空は突風のようで、厚かったはずの雲は徐々に彼方へと飛び去っていく。 ――それならそれでいい。できるかぎりのことを為そう。他ならぬ君のために。 藍染は手に握り締めていたままだったマフラーを投げ捨てた。 マフラーは躊躇うように少しの間、大気の中を舞っていたが、力を失ってひらひらと乾いた土に落下し、やがて動かなくなった。 |