忘れてしまうことが怖いのだ、と彼は言う。


あのとき、君と出会って、君によい世界を作ることを誓ったはずなのに、 あのときの僕は、心からそう思い、常にそのことを考え続けてきたはずなのに、 生活に埋もれていくうちに、そのことを忘れてしまう時間が少しずつ長くなっていることに気づいたんだ。
そう、日中の影のようにね。
忘れてはいけないはずの、決して忘れるはずがないと思っていたはずの そうした事柄すら、いつのまにか嚥下し、排泄してしまえるこの性が、 僕には恐ろしくてならないんだ。


そう、彼は本当は、誰よりもナイーブで、誰よりも平等であろうとしている。
そんな沖で溺れる人のような彼が苦痛を強いたところで、 あっさりと見捨てて逃れられるほど、自分とて強くない。
……自分を穿つ彼の熱が自分を食む。
ならばいっそ、文字どおり1つになってしまえれば、 彼は、自分は、もう少し救われるだろうか?


……しかしその願いも、彼の熱が彼の体内からつまらぬ液体となって 放出されてしまった瞬間、下らぬ幻想に成り下がる。
高まった衝動はあっさりと消えうせ、明日までに吉良にあの書類を仕上げさせなければ、などという 日常の思考が、一瞬何かの正体を掴みかけた市丸を遮る。


同じなのだ、結局のところ。
忘れてはならないことを、まるで指先からぽろぽろと落ちていく砂のように、 取り零していく自分は、彼と。
あの大切だった幼い頃の優しい記憶すら、徐々に煩雑な日常の毎日の生活によって上書きされ、 今や思い出せる事柄は、1年前より、半年前より、1週間前より、 確実に減ってきている。
ただ、彼と違う点といえば、自分はそれを受け入れているだけ。


彼は、記憶の共有者である市丸に対して、本来なら非日常的であるはずの 行為や暴力を日常と化することで衝動を手に入れ、 記憶の中の衝動に置き換えようと足掻いている。
理不尽な痛みを与えられても彼を憎む気になれないのは、 彼が取り戻した気になっているそれは、正確には過去そのものではないからだ。
忘れていく生き物として生を受けた、自分たちの性に逆らわんともがきながらも、 世界をよりよいものにするという崇高な目的を抱きながらも 結果、原始的な行為に没頭して少しの精を吐き出すことしかできないからだ。
かわいそうな彼。
壮大な目的に食い尽くされまいと必死に腰を振る、喜劇の主人公のように哀れな彼。


……そして、意識の大半を占める痛みより僅かに芽生えた快感に追いすがって、市丸は目を閉じる。





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