どうしてこんなことになっているんだと考える頭は、痺れていた。
「そろそろ考え、変わりました?」
  山嵜の下肢に纏わりつき、しきりに上目遣いで見つめてくるこの男は、現在も継続中で妹の彼氏であるはずだった。
「……お前、見矢子はどうするんだ」
  山嵜は、機械的な快感が背筋に凝るのを感じながら、妹の名を出した。
  最初は男の舌に感じて堪るかと思っていた。感じてしまった自分に唖然とした。――そして今やどうでも良くなった。三段論法のような感情が、可笑しい。
「だから最初から言ってるじゃないですか、先輩。見矢子は、こうするために付き合っていたに過ぎないんですよ」
  この言われようを聞いたら、見矢子はどう思うんだろうか。山嵜は考えようとしたが、思考がうまくまとまらない。常に生意気な態度で自分を苛つかせる二歳年下の妹。いい気味な気もするし、哀れな気もする。
  随分と目の前の安西に執心していることは、端から見ていてもそうと知れる分。
「……ああ、最初も言ったっけ……」
  山嵜はぼんやりと呟きながら、そもそも最初なんてあったのだろうかと思った。
  自分の生は、この男に嬲れ続けていることで成り立っているような錯覚に、山嵜は陥っていたからだった。
  この問答で時間の感覚を幾ばくか取り戻した山嵜は、行為が始まってから大して時が経っていないことを思い出す。見矢子に会うためにやってきたと言った安西が、本当は見矢子がいないことを知っていて自分を罠に填めたのは、つい数時間前のことだった。
  それは同時に、自分が今の状況に順応してしまっていることに気付くことでもあった。山嵜は嫌悪感を感じて身を捩ったが、それはあくまで本能的な嫌悪であり、状況に対するものではなかった。
「なんだ。慣れてきたみたいだから、解いてあげようと思ったのに」
  中心を覆っていた生温かい感触から、山嵜は解放された。見下ろすことに慣れてしまった安西の顔が目の前にある。山嵜は瞬きした。
  タオルで後ろ手に縛ったことを示しているのだと気付くまで、呆けた時間が必要だった。
  その間に安西は、自分の仕事を再開していた。押し込まれた空白によって、山嵜は更なる快楽を感じると同時に、自分を貫いて欲しいが為に、凶器を鍛える安西の姿が、ひどく陰惨な気がした。
「先輩。俺を抱いて下さい」
  真剣な目で安西に言われた時、山嵜はまず呆気にとられた。相手が本気で言っている事がわかってしまった山嵜は、それを冗談として笑い流すことは出来なかった。
「無理だよ」
  自分はヘテロセクシャルだからという意味を込めてそう言った山嵜の真意を、安西は受け止め切れなかったのだろうか。安西は山嵜を捕らえ、行為の中に共に堕ちることを強要したのだった。
  ……終わりなどないのだと思っていた。しかし、安西はもう一度山嵜の中に滞っていた薄い液を解放すると、身繕いを始めた。
  抵抗すれば、撮った写真をばらまく。抱いてくれない場合は自分が抱くことも辞さない。安西が口にした脅迫はあまりに額面通りなものだった。
「本当にそうやって脅迫するんだな」
  計るような目を、安西はした。
「別に嫌味じゃねえよ。感心しただけだ」
  安西は黙っていた。


  それから毎日のように、安西は山嵜を呼び出した。安西との行為は一日ごとに日常に没し始め、山嵜は自分が少しずつ無色に近づいていくのを感じた。毎日何かしらの感情を、置き忘れてきているような感覚。――普段の自分と何も変わらなくなっていく感覚。
  もし、自分が泣き喚いて取り乱せたら、いくらか花を添えられるのかもしれない。飽きもせず山嵜を銜える安西の頭部を眺めながら山嵜は取り留めなく考えたが、いくら自分の内部を探ってみても感情の高まりを発現させられるような力を見いだすことは出来なかったので、考え自体を唾棄した。
  単調な行為を高尚な愛情の具現と勘違いして必死で追い求める安西の姿が憐れだとは思ったが、しかしそれも感情とは到底呼べないような、漠然とした意識の流れに過ぎない。
  唯一、山嵜の中で正常さを徹頭徹尾保ち続けているのは肉体的な快感だけで、それは日に日に発達していることが、山嵜は可笑しかった。最初から薄々気付いていたとはいえ、自分が快楽的動物であるという事実が決定的になった今、もう笑うしかない。
  ……本当は、写真をばらまかれても、安西に犯されても、別に構わなかった。しかし、山嵜は安西に尋ねる。
「目を瞑って女を想像すれば、お前を抱けるかもしれないけど、そうやって俺に抱かれても満足するのか?」
  それは自分なりの同情心なのかもしれなかった。
  安西は口を開けた。山嵜自身が彼の唇から滑り落ち、山嵜は快感を絶たれたことにむず痒い苛立ちを覚えた。
「……嫌なこと言いますね」
  安西は左手の甲で唇を拭うと、ぽつりと呟いた。
「俺が先輩を愛した確かさが欲しいんです」
  安西の口角に拭い去りきれずこびり付いているものは、先だって山嵜から吐き出されたものだったはずなのに、元々から安西のものであったような錯覚に、山嵜は襲われる。
  そんな下らないものが愛情という呼ばれ方をするのであれば、いくらでも与えてやるのだが。
「……お前の感情だけで、満足できないのか」
「性癖が誰かにバレて、変態扱いされる度に、俺は愛だと思いこんでいるものはただに幻想に過ぎないと、否定しなければいけないんです。そんなのはもう、うんざりなんですよ」
「……ああ」
  全てを否定尽くされても、安西が愛と信じている物を決して手放さないのは、それを失ったら生の意味が失われると信じているからだ。そんな純粋性を保ち続ける安西が、この行為に何らかの意味を見いだしているとは思えない。山嵜は、安西が意図的に単調さに没していることが不思議でならなかった。
「無意味じゃないか」
「先輩が思っていることとは、根本的に違うんですよ」
「どういうことだ?」
「それは」
  安西は、笑んでみせた。
「抱いてくれたら教えますよ」
  ……山嵜が安西を抱いたのは、とうに失われてしまっている何かの変わりに、その言葉で埋めたいを思ったのかもしれない。
  山嵜は目を瞑り、適当な女の姿を目の裏に描きながら、安西を抱いた。しかし、吐息を漏らす声は男の物でしかなく、山嵜は萎えそうになる自分自身を高めるために、あらゆる努力を払わなければならなかった。
  快感は作り出すためのものでしかなかった。山嵜は自分の生み出したそれの一端を必死になって掴み、無理矢理被り、全身を覆い尽くそうとした。空々しい安西の声から、彼もまた虚しさから目を逸らすために、尽力を尽くしていることがすぐ知れた。
  性交は機械的だった。まるで目の前の必然に突き動かされるように、山嵜達は焦って何かに手を伸ばそうとしていたが、その方向はまったく正反対だった。
  今までの行為で曖昧にしていたものを、決定づけてしまったような虚しさが、山嵜の胸に痼る。
  抱かなければ良かったと、ただそう思った。


「感謝してます」
  安西の言葉は、山嵜の虚しさを高めただけに過ぎなかった。
「嘘つけ」
「本当ですよ」
  安西は微かに笑った。
「俺は、お前を抱いている間、女のことを考えてたんだぞ」
  安西は、はっきりと傷ついた表情を浮かべた。
「……随分はっきり言いますね」
「でも事実だ」
「……そんなことは俺にとっては、どうでもいいことなんです。先輩が、俺を否定しなかった。それだけで、俺は充分なんですよ」
「俺は、お前に価値付けできるような人間じゃないと思うけど」
  安西は顔色を変えた。先ほどの比ではなく、安西を心から傷つけたことが、山嵜には理解できた。
「だから先輩が思っていることとは、根本的に違うって言ったんですよ」
「自分が価値を見いだしたことを傷つけられたのが、悔しいんじゃないのか」
「違います」
  きっぱりと安西は言った。
「先輩が当たり前のように感じていることが、俺にとっては価値があることなんです」
  自分に希望を投影し続ける安西に、山嵜は悲しみすら覚えた。
  安西に求められる形に変化できればどんなにいいだろうと思った。安西を愛することが出来れば、どんなに幸せか。実際彼を抱いている間、山嵜は何度もそう希った。しかし安西の肉体を離れた今、懐いたはずのそれは、呆気なく霧散してしまった。まるで何もなかったも同然に。
  それは肉の熱に浮かされただけだったのかもしれない。触れた安西の精神に感応しただけだったのかもしれない。どちらにしろ変化の可能性が絶たれた今となっては、考えることは無駄な行為でしかなかった。 <
「へえ」
  山嵜は自らの喉で何気なく呟いた吐息に近い言葉によって、安西の心を切り裂いたのだろう。自分では意図しないままに。
「先輩は何も分かってない」
  安西の声は震えていた。それでも、山嵜の耳はするりと嚥下し、後味は何も残らなかった。
  安西は目を伏せた。
「それは仕返しですか」
  そうじゃない。山嵜は思う。
  事実というのはもっと単純で、そして、もっと残酷なものなのだ。
「興味がないだけだ」
  ……自分たちの間にイカロスのように落下した言葉を、安西は呆然と見つめていた。






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