「もうやめようかと思ってさ」
  怠そうに躯を伏せたままの沢木の肩口を押して、高岡は言った。
「何を?」
  口を開くのも面倒くさかった沢木は必要最低限の言葉だけで済ませると、のろのろと高岡の上から起き上がり、サイドテーブルから煙草を取り上げ火を付けた。高岡はその煙草を取り上げ、自分の口に運びながら続ける。
「淫乱」
  沢木が思わず新しく銜えた煙草を省みずに吹き出すと、唇から離れた煙草は落下し、勢いに乗って糊の利いたシーツの上をさらさらと滑った。
「お前が淫乱やめたら何にも残らないじゃないか」
  沢木の冗談混じりの言葉に、高岡はやけに赤い唇を尖らせた。
「余計なお世話なんだよ」
「何でまた」
  沢木は、シーツの撓みの間に挟まった煙草を拾い上げ、シーツの上であぐらをかいて煙草を吸う高岡を見た。
  高岡は、幼い頃育てたヒヤシンスを沢木に思い出させた。と言っても、花ではなく根のほうだ。骨格が未だに定まっていないような体つきや白い肌、癖のあるふわふわとした髪といった外見的なものから、捕らえ所のない表情や、踏みしめるということを知らないような歩き方、身を落ち着けることの無い生活態度まで。高岡はうねうねと花の下、水中で行き場無く身をくねらせる白い根のようだった。
  やけに生々しい赤く厚みのある唇だけが唯一、花に例えられるかもしれないが、小さい花がいくつも連なり大きな花を構成しているヒヤシンスの華やかさからすれば、それは脆弱なものに過ぎなかった。
  その唇に煙草から離しながら、高岡は唇を微かに開いてゆっくりと煙を吸い込むと、濡れた歯の先が唇の隙間から覗いた。高岡は話す時、あまり唇を動かさないし、滅多に笑わない。だから沢木が彼の歯列を静かにかつ確実に窺い見ることが出来るのはこの時くらいで、沢木はそれを秘密のようだと思った。
「俺もそろそろ年だし」
  高岡が小さく言うと、その狭間から煙が漏れ漂った。現役大学生の高岡は、自分よりきっかり十二年下だ。年齢を揶揄られていると思い、沢木はむっとする。
「そしたら俺はどうなんだよ」
「そういう意味じゃないってば」
  珍しく擦れた笑い声を立てると、高岡は足を上げ沢木の顔面を軽く蹴った。
  今更動揺するような関係ではないが、呆れた溜息は自ずから滑り落ちた。
「……お前な、裸で人の顔蹴るんじゃないよ」
  高岡はきょとんとして首を傾げる。
「そういう所がダメなんだろ」
「ああ、そうなの?」
  赤い唇がのっぺりと、まるで軟体動物のような動きをした。それは高岡とは無関係な、別の生き物のような動きだった。
「で、そういう意味じゃないって、どういう意味だ?」
「あーだからさ」
  高岡は首を捻り、しばらく適切な言葉を選ぶことに苦心していたが。
「年っていうのは年齢じゃなくって、もっと精神的なものでさ」
  やがて、口の中でもそもそと呟いた。高岡がそんな精神論を持ち出すとは思わなかった沢木は、少し感心した。
「へえ」
「なんつーか、沢木さんは好きな仕事して生きてるから、三十過ぎたって若いじゃない?つまりはそーゆーことなんだけど」
「お前は好きでやってたわけじゃないのか?」
  沢木は正直びっくりした。彼と関係を持って一年ほど経っている沢木も、未だ高岡の正確な男の人数を知らない程、高岡の生活は乱脈そのものだった。時折見知らぬ男と歩いている高岡の姿を見かけることがあっても、特にそれを尋ねる関係ではなかったから、会いたくなったら電話するし、忙しければ一ヶ月二ヶ月は軽く経る。テレビ局勤務という不規則な生活を営んでいる沢木にとって、高岡のその乱脈さはある意味都合が良く、そこに甘えている部分が確かにあったからだ。
「やー」
  高岡は困ったように、空いている方の指先で髪を引っ張った。
「別に好きってわけでもないし、嫌いってわけでもないし」
「どうでもいいってことか?」
  知らずのうちに眉間の辺りに力がこもるのを感じながら、沢木は尋ねた。
「うーん。まあ、そういうことなのかなー」
  高岡の言葉は、常に要領が得ない。待ち合わせをすれば沢木が読んだことも無い小難しい本を読んで待っているのだから決して馬鹿ではないのだろうに、高岡の言葉はいつだって、空間を浮遊し、沢木に届く前にぱちんと弾けてしまう。
「じゃあ何かあてはあるのか?」
「やー」
  高岡はくしゃっと顔を歪めた。それは笑っているようにも見えたし、苛立っているようにも見えた。
「……そっか、だから俺はいつまでも淫乱のままなんだ」
  シーツに落ちた煙草の灰に気付いて、慌ててそれを払い除けながら短くなった煙草を吸う。口にしている言葉と反比例して、普段とまったく変わらない態度の高岡に沢木は唖然とした。
「……お前、やっぱり止めた方がいいよ」
  知らず真摯な力を言葉に込めながら沢木が言うと、高岡は目を瞠った。
「何が?」
  自分だけが空回りしているという認識は、怒気よりも茫然の方が先に立つ。沢木の脳は一瞬だけ、しかし完全に停止した。
「誰とでも寝ること」
「あー」
  高岡は厚い唇を吊り上げて、薄っぺらい笑い方をした。
「要は単に流されてるってことだろ?」
「うーん。まあそうかもねー」
  笑いを崩さないままで、高岡は間延びした口調でそう言い、煙草を灰皿で揉み消した。
「それはお前の人生じゃないよ」
  高岡の笑いはまだ張り付いたままで、沢木は徐々に気持ち悪くなってきた。 
  こいつはどうして、こうも何も考えずにいられるのか?
  ……高岡は前髪の下で微かに目を細めた。
「沢木さんさ、今、俺のこと嫌だなあって思ったでしょ」
  沢木はぎょっとした。高岡の言葉が胸を突いたのは、初めてだった。
「やっぱりね」
  高岡はまた薄っぺらい笑みを浮かべた。
「……もう会わない方がお前のためだろ」
  沢木がそう言うと、即座に枕が飛んできた。避けきれずに枕は顔に直撃し、ぼろりと膝に落下した。その瞬間沢木は憤りよりも寧ろ、高岡の表情に期待した。怒りとか喜びとかいった感情の絶頂が、高岡の顔には浮かんでいるはずで、沢木はその表情を見たいと思ったのだ。
  しかし、高岡は相変わらず漠然とした表情のままで、沢木は薄寒さすら感じた。
「やっぱりね」
  高岡はもう一度呟いた。
  彼がどういう気持ちでそう呟いたのか、沢木にはまったく理解出来なかった。


  それから沢木は高岡に連絡をしなかった。会いたくないとは違う。寧ろ会っても仕方がないという感慨に近かった。
  ただ、街中で色の薄い癖毛がかった髪の若者とすれ違う度、高岡のことを思い出し、釈然としない彼の表情や行動を思い出した。
  しかしすでに関係というものが喪われた高岡に、ここまで思いを馳せたところで何になると言うのだろう。
  結局の所、高岡は自分自身を謎とすることで、沢木に何らかの影を落としたのかもしれない。もしそうだとしたら、沢木は高岡の全ての行動を意味づけして、それを解き明かしたくなど無かった。子供じみたたわいのない方程式で答えが出るものだったとしても。
  目の裏に、ぽつりと喫茶店で分厚い本を読む高岡の姿が蘇り、沢木は寂寥感に囚われた。
  ヒヤシンスでも育ててみようか。何とはなしに沢木はそう考え、もし咲くならば、一番華やかなものがいいなと思った。






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