#001




 壇上で人事部長が集った学生に社の美事麗句のみを拡張して語っている声を頭上で通り過ぎさせながら、課長である神崎はぼんやりと視線を学生に彷徨わせていた。
 無個性に埋没した学生達の中で彼に目が行ったのは、周りの学生がメモを取ったりパンフレットを繰ったりと忙しなく頭を動かしている中、ずっと顔を上げていたからに過ぎない。そもそも最初からそういうつもりだったのなら、絶対に彼だけは選ばなかった。
 彼は眠そうな目を人事部長に向けていたが、上の空なのは傍目にも明らかだった。こいつは何をしに来ているのだろうと、神崎はむしろ不快感から彼に興味を抱いた。
 血色の悪い厚い唇を微かに開き、黒々としている瞳を人事部長の禿げ上がった額辺りに置いている。その様は、茫然とするにはそこに視線を当てるのが一番具合が良いのだと言わんばかりであった。
 受付担当の女の子が作った学生の名前と席位置の対照表に、神崎は目を走らせてみた。どこの席に何という名前の学生が座ったか一目でわかる仕組みのそれはこの後の質問会で使う手筈になっていたが、こうして自分が開くことになろうとは今の今まで思っていなかった。
 渡辺という名のその青年は、結局ぼんやりするためだけに会社説明会に訪れたようだった。渡辺はある意味真摯に、会の間中茫洋とし続けた。目を離すタイミングを計れずに、神崎は結局、その時間全てを渡辺に費やしてしまった。無駄な時間だったとは思ったが、そもそも説明会という催し自体が無駄でしかないのだから、どう使おうと違いはない。
 ……出ていこうとする学生の列の最後尾に並び、ぼんやりと出ていこうとする渡辺の腕を神崎は掴んだ。近くで見ると案外顔立ちは整っていたが、白いと思っていた肌はだいぶ黄みがかっていたし、スーツはまったく似合っていなかった。
 渡辺は不思議そうに、神崎を振り返った。
「もし、君がうちに入りたいなら、今日午後六時にA駅の改札に来るといい」
 そんな彼に神崎は小声でまくし立てた。
「はあ」
 渡辺はぼんやりと呟いた。
「……何が言いたいか、わかるだろう?」
 苛立って神崎が言うと、渡辺は動物のように濡れた瞳を神崎に向けた。
「はあ」
「……まあ、よく考えるんだな」
 神崎がそう言い捨てると、さっさと渡辺に背を向けた。その拍子に胸からたち上った嫌な感覚を誤って噛み締めてしまい、その苦みに神崎は思わず顔をしかめた。


 言い出したのは自分の方だというのに、神崎は午後六時が近づくのが苦痛でならなかった。会社終了時刻が近づくにつれ、残業しようかと考えたが、今日に限って仕事がない。
 何故自分はあんなことを言ったのだろうか。
 神崎はひどく後悔した。
 あの学生の塊がわらわらと今期に卒業するのであれば、どれを採用しても大した違いはないように思えた。だったら、徹頭徹尾茫然とし続けたあの青年を利用するだけして、採用してやろうという気持ちがあった。しかしこうして冷静になって考えてみると、やはり少しでも意欲のある学生を、面接でどうにか捜し出す方が――それこそ砂粒の中から塩を探すようなものだが――得策だったのではないだろうかという気がした。
 言い訳を探し出せなかった。終了のチャイムが鳴り響く中、神崎はのろのろと帰り支度を始めた。
 渡辺が来ないことを、切に願うしかなかった。


 会社の最寄り駅から地下鉄で十五分ほどのA駅は、結構な繁華街である。人の流れに押し出されるように改札を出ると、神崎は見つけたくもないのに、すぐさま渡辺の姿を見つけてしまった。
渡辺はTシャツにストレッチ素材のパンツにスニーカーという躍動的なファッションに着替えていたが、相変わらず途方に暮れたような表情をして突っ立っている。若者らしいその服装も、渡辺にはまったく似合っていなかった。視線は改札からきっかり、四十五度ずれていた。
 神崎は無性に苛立ってきた。つかつかと渡辺に歩み寄ると、僅かに口を開けて神崎を見た渡辺の腕を掴み、引きずるように歩き出しながら囁く。
「ホテルに行くぞ」
 渡辺の表情は少しも変わらない。神崎は憎悪すら覚えながら言葉を続ける。
「最初からわかってただろう?」
「……まあ」
 渡辺は一呼吸ほどの間の後、黒い髪を揺らして是を示した。
 神崎は渡辺から手を離すと、さっさと歩き出した。自分から誘っておきながら、渡辺と並んで歩くことはどうしても嫌だった。一度だけ後ろを振り返り、ひょこひょこと男にしては歩幅の狭い歩き方で、後を追ってくる渡辺の姿を見た神崎は、胸の内に侮蔑の感情が沸き上がるのを感じた。


 適当なホテルにチェックインし、椅子に身を投げ出した神崎は、ネクタイを外しながら渡辺に服を脱ぐように命じた。
 それでも渡辺はぼんやりと突っ立っている。しかしそれは神崎の言葉に戸惑っていると言うよりは、単に話を聞いていなかったという態だったので、神崎に更なる苛立ちを募らせさせた。
「服を脱げって言ってるんだ」
「はあ」
 語調を強めて神崎が言うと、渡辺は素直に頷き、何の躊躇も見せずにあっさりとTシャツを脱ぎ捨てた。上半身裸になった渡辺は、相変わらずその姿が似合っていない。そのことが神崎の苛立ちを腹立たしさへと進化させる原因になる。
 神崎の怒りに気付いているのかいないのか、渡辺はぼんやりとか細い体躯を晒したまま、相変わらず上の空だった。
 神崎はそんな渡辺をベッドに突き倒し、下肢を覆う衣服を剥ぎ取る。渡辺は黙って神崎を眺めたが、抵抗する気配すら見せなかった。
「慣れてるのか」
「いえ、全然」
 渡辺の声はごくごく普通で、神崎は怒りの余り脱力しそうになった。
「ここまでしてまで、うちに就職したいのか」
「いえ、別に」
「じゃあ何しに来たんだ?」
「何となく」
 神崎は飲み込んだ憤りを、渡辺の躯にぶつけた。ひょろひょろと意味もなく長い首筋に噛みついてやると、微かに渡辺は眉を顰めた。
 俺はこいつが余りに何も考えていないから腹立たしいのだ。
 神崎は自分の怒りを納得する。
 学生運動に身を投じていたために就職にあぶれそうになったが、当時付き合っていた現在の妻と結婚するために必死で会社を探して回った。どうにかこの会社に潜り込み、その礼に尽くすため身を粉にして働いた。渡辺は神崎の二十五年間を無視し、何も考えないままで神崎が作った世界に紛れ込もうとしている。
 だから許せない。
 ……神崎は形ばかりの乱暴な愛撫を渡辺に施すと、渡辺の中に身を沈めた。渡辺の躯は徐々に体温を下げ、奪われた分のそれが血液という形で下肢から零れた。
渡辺の顔は青ざめ、時折小さく苦痛の呻きを漏らしたが、神崎の勝利感を掻き立てるような悲鳴はついぞ上げなかった。
 ただ渡辺の中に、世界の苦みとか苦しみとか、そういう某かの一端を植え付けることは出来たはずで、渡辺は肉体の痛みという形でそれを味わったはずだった。少なくとも、神崎はそう信じようとしたし、信じたいと思った。


 神崎の行為がエスカレートしていったのは、結局の所、渡辺が苦しみを訴える声を聞きたいがためだった。
 二次面接後、スーツ姿の渡辺に時間を潰させ落ち合った時には、すでに数回の交渉があった。相変わらず似合っていないスーツ姿のまま後ろ手にし肘から縄を掛けると、渡辺は顔をしかめた。
「痛いです」
 渡辺は少しずつではあるが、やっと感情を表面に顕わすようになってきた。進歩を認め渡辺の縄を緩めてやるこの時が、渡辺の中で放出する以上に神崎を興奮させた。
 顔に覆い被さるように口づけをすると、渡辺は小さく唇を開いて神崎の舌を受け入れた。乱れた歯列を舌でなぞり、渡辺の歯の凹凸をゆっくりと味わう。唇を離すと、血色の悪い渡辺の唇が赤く濡れ、ただ黒々しているばかりの瞳にしっとりと露が降りる。乾燥し切った渡辺は、こうして潤いを与えてやることによってやっと風景に馴染む。
 渡辺は少しずつ、シャツのボタンを外し肌をなぞる神崎の指先にも反応を示すようになった。顔を仰け反らせると、痩せた首に喉仏が浮き上がり、鎖骨の窪みに舌を這わせるとまるで猫のように音を立てて震えた。
 下肢を剥ぎ、後孔に指を差し入れると、渡辺の躯が雷に打たれたようにわなないた。熱を帯びた吐息が厚い唇から零れ落ち、神崎の脳に直接伝染する。指の数を増やし、引っ掻くように拡げてやると、渡辺は力無く首を振り、引き攣れた声を発した。
 激しく上下する薄い胸。よろめく膝頭。柔らかな喘ぎ。瞼の痙攣。色づく目の縁。紅潮する頬。躯を重ねる度見受けられる発見は、まるで数珠玉のように連なり一つの存在になろうとしていた。その徐々に移り変わる様を眺めることは、ちょうど絵巻物を眺めることに似ていた。
 固く立ち上がった渡辺自身を擦りながら、神崎は渡辺の中に没入する。渡辺は打ち込まれた楔の容量分の呼気を空間に放す。
 しゃくり上げるようなその喘ぎを、神崎は純粋に愛おしいと思い、その思考の軌跡を何気なく辿ってぎょっとした。
 それとも変わったのは、自分なのか。
 ……思わず身を離した神崎を、渡辺は半ば訝しげに、半ば苛立たしげに見上げた。
「もう止めだ」
 神崎はそう呟くと、渡辺を拘束していた縄を解いた。渡辺は俯いて手を動かし、感覚が戻る様を探っているような仕草をした。
「うちの会社に入れない」
「そうですか」
 渡辺の表情はまったく変わらない。何かを理解出来た気がした渡辺が、また神崎の手を滑り抜けて遠くに去ってしまったような虚脱感が、神崎の胸の辺りを断続的に押した。
 神崎は衝動的に渡辺のはだけられたシャツの両襟を掴んだ。
「なんでお前はそうなんだ」
「なんでって」
 渡辺は相変わらず手を凝視していて、神崎の顔を見ようとはしない。
「そういうものですから」
 言いながら、渡辺はやっと顔を上げて、血色の悪い唇を吊り上げた。
 それが笑みだと気付くまでに、しばらくの時間が必要だった。
「なんだって……?」
 神崎は頭痛を覚え、襟を掴んでいた手を離すと、額に手を当てた。
 自分が、自分たちが、二十五年かけて築いてきた世界を、「そういうもの」という一言で片づけてしまうこの侮蔑。
 ……しかしそんな言葉を投げかけた渡辺が、自分たちの構築した世界によって生み出されたことも事実である以上、神崎は妙な笑みを浮かべ続ける渡辺から目を逸らすことしか出来なくなる。



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