#001




「お前んトコ、広いなあ」
 1Kの部屋である関の家に、持ち主より先んじて足を踏み入れた藤原は、そう言いながらしきりと辺り見回していたが、ふと身震いし、腕を組んでジャケットの前を掻き合わせた。
「でも寒々しいな」
「お前ん家と同じ6畳だよ」
 呆れ顔でそう答えながら、関は藤原の、片方の爪先が素っ頓狂な方向を向いたまま放置されているスニーカーの踵を合わせた。
 まだ訪れたことはないが、恐らく藤原の部屋は物が散らかり過ぎて狭々しいのだろう。それはスニーカーの脱ぎ方からしても、容易く想像出来ることだ。
「お、こたつあるよ、こたつ!」
 関の言葉をまったく聞いていなかったらしい藤原は、足をこたつに突っ込んで、勝手に電源を入れている。
「うおー。あったけえ」
 何かに夢中になると藤原は途端に、人の話を聞かなくなる。いつものことだから、そのことに関して関は何とも思わなかったが、こたつの布団を顎先まで持ち上げ、体育座りで蹲っている藤原の姿を見て、少しびっくりする。
「おい、こたつの入り方、間違ってるぞ」
「え、こたつに入り方なんてあんの?」
「布団を顎まで上げたら、冷たい空気が入ってきて意味ねえだろ」
「あ、そうなの?」
 首を傾げながらも素直に藤原は立てていた膝を寝かせた。途端、ずん、と振動が、関の足の裏まで伝わった。
「本当だ」
 ……藤原の部屋はマンションの一階にあるらしいから、このくらいの物音は騒音のうちに入らないだろうが、関の部屋は四階だった。一度音楽がうるさいと難癖をつけられたことがある階下の人間に、また文句を言われでもしたら、たまったものではないと、関は内心気が気ではない。
「おい、あんま物音立てんなよ」
「いーな、こたつ」
 しかしどこ吹く風の藤原は、まるで愛おしむようにすりすりとガラス張りのテーブルに頬を擦り付けている。その子供のような仕草を見ているうちに怒る気持が失せた関は、着ていたコートを脱ぎ、藤原と向かい合って腰を下ろした。
「お」
 右耳をテーブルにおしつけたまま興味深いものを見つけたらしい藤原が、ひょいと頭を起こす。
 彼が取り上げたものはテレビのリモコンだった。
「テレビ見ようぜ、テレビ」
 主電源は余程のことがないかぎり、切られることのない関のテレビは、藤原にスイッチを押されると、ぴりぴりと音を立て始めた。暗かったブラウン管がじんわりと明るくなるに従って、子供物のアニメが浮かび上がり始める。
「すげー。リモコンが動くよ」
 感心したようにまじまじとリモコンを見つめている藤原に、関はもっともな突っ込みをいれた。
「お前が電池変えないだけだろ」
 リモコンを無節操に押してブラウン管に映る番組をころころ変えては、楽しそうに画面を覗き込んでいた藤原だったが、やがて飽きたらしく、最初のアニメにチャンネルを戻してリモコンを投げ出した。
「お前ん家って面白いな」
 そう言われた関はしかし、素直に喜んでいいのかしばらくの間真剣に考え込んでしまった。
「そうか?」
「面白いよ」
「あ、そう……」
 藤原の断定を関が曖昧に受け入れた途端、二人の間に会話がなくなった。
 やばい。
 興味がなさそうにアニメを眺めている藤原の横顔を、関はこっそりと窺う。
 何か話を。
「あっ、そうそう」
 しかしものすごく楽しそうな顔で、藤原が突如関を振り返ったので、関は慌てて目を逸らしたものの、視線の置き場に困り一人あたふたした。
 結局藤原に視線を戻した関は、動揺を悟られなかったか、藤原の表情から探ろうとした。相変わらず能天気に楽しそうな藤原にほっとしつつも、関は無性に腹立たしくなった。
「掌見して」
 そしてやはり相変わらず、藤原は邪気のない笑みを顔一杯浮かべているので、彼が何を企んでいるのか訝しがりながらも関は、こたつの中に突っ込んでいた右手を、藤原に差し出した。
 ついさっきまで温められていた右手から、外気は徐々に熱を奪っていく。
「左手も」
 冷たくなる右手に気を取られながらも、関は藤原の言う通り左手も差し出した。
「何だよ、手相見る趣味でもあんのか」
「じゃ、爪見せて」
「爪?」
 訳がわからないままそれでも関が掌を半分に折って爪を見せると、藤原は口の中でうーんと唸った。
「関は女だ」
「お、おんな?」
 下らないお遊びなのだということは判ったが、それでも関は動揺を隠せなかった。
「小さい時流行んなかった?爪見せてって言われた時、手を返して見せるのは男、手を折って見せるのは女」
「ああ……」
 そういえばそんなゲームがあったようにも思う。それに呼応して、藤原は女と言ったのだろうが、しかしそれでも、藤原の言いたいことは変わらない。今や、宙を彷徨う両手と同じ程度にまで、胸中が温度を下げたことを関は自覚した。
 そんな話を今この場で持ち出すその意図は。
 他に言い様があるのではないかと、関は内心で不平を漏らす。とはいえ、藤原にそれ特有の用語を用いて欲しいかというと、正直な所それも嫌だと言うのが本音だ。その方面に関して藤原は自分同様無知であることは既に承知だが、例えそうでなかったとしても、藤原が慣れたように隠語を用いたら、自分はもっと躊躇うだろうと関は思う。
 つまり関自身、藤原がどう言えば素直に受け入れられるのかわからなかった。
「…………」
「だから関は女」
 駄目押しのようにそう言われ、思わず関はいきり立った。
「そんな下らないことで役割分担を決めようとすんなよ!」
「あ、バレた?」
「バレてるよ、とっくに!」
 藤原は肩を竦め、小さく笑った。
「でもいいじゃん。どっちもどっちだろ、ゆくゆくは」
「ゆくゆくはそうかもしれないけど!」
 ついつい声が大きくなり、関は我に返った。子供用のアニメがちらちらしている時間帯に、こんなえげつない話で声を荒げている自分が恥ずかしい。
「初めてだっていうのに、そんな決め方はなしだろ」
 声を出来るだけ低くして、関は続けた。
「どう決めたってそう変わんないって」
 藤原の声のトーンはさっきとまったく変わらない。自分だけが気負い過ぎて空回りしているような気分がますます関を追い詰める。
「じゃ、あみだくじでも作る?」
「…………」
 藤原の無邪気とも言える提案に、関は額をテーブルに押し付け否を示す。
「ほら。ワガママ言うなって」
「お前が言うなよ」
「嫌なのかよ?」
「嫌とかそういうんじゃねえよ……!」
 この奇妙な気分を、藤原にどう説明していいのかわからない。
 嫌なわけでは決してなく、ただ、戸惑っているだけなのだろうとは思う。女とセックスしたことは何度かあるのだから、セックス自体に躊躇いを感じているわけではない。ただ、なまじ女との経験があるからこそ、今までの立場に自分がないのだというそれだけのことで、気持の安定を無くしている。
 藤原を好きだと思うし、藤原とセックスしたいとも思う。でもそれは藤原だからこそであって、絶対味をしめたくない。特に受け入れる方にハマリ込むことだけは勘弁したい。そんなことを考えているうちに、窮鼠という単語が関の脳内をぐるぐると回りだす。何かにつけては猫に追い回されているアニメの鼠の名は何と言ったっけ。そんな下らない疑問まで湧いてくる始末だ。頭を掻き毟っているうちに目が覚めてくれればいいのにと、関は本気で祈りたくなる。
「んな、不安がることないって」
「不安がってねえよ!」
 反射的に大声を出してしまい、関は泥沼に填り込んだ。できれば藤原には、自分が不安がっていることを悟られたくないのに。
 ……そもそも何で藤原はこんなにも普段と変わらないのだ。さっきから、大して珍しくもないこたつやリモコンには大騒ぎするくせに。
 いつだっておろおろするのは俺ばっかりで腹が立つ。
「悪かったよ」
 顔を覗き込んできた途端驚いた様子を見せた藤原から、関は自分が浮かべている表情がいかに情けないものかが想像できた。
「俺が考えなしなのが、ムカつくんだろ?」
「よくわかったな」
 半ば皮肉、半ば本気で関が頷くと、藤原は苦笑いした。
「……あのなあ、普通こういう時は、嘘でもそんなことないって言うもんだろ?」
「そんなこと絶対言わねえ」
 テレビでは主人公らしい男が、がなり立てているが、ボリュームを絞られているせいか何を言っているのか関にはさっぱりわからない。
 テーブルの表面に視線を滑らせて、言いずらそうに小声で話し始めた藤原の声はやけにはっきりと聞こえているというのに。
「……お前の気持、正直全部はわかんないけど、でも何となくはわかるよ」
 藤原はそんな風に言った。
「……ああ」
 空を睨んでしばらく逡巡した後、藤原はぼそぼそと続けた。
「こういうのってノリで決めた方がいいかなあとか思って、つい思いつきであんなこと言っちゃったけど。まさか、関がそんな思いつめてるとは思わなかったし。……俺、次男だからかもしんないけど、それってあんま関係ないかもしんないけど、割とそういう……新しい一歩を踏み出す躊躇いっつーか、変な男のプライドっつーか、ま、言葉悪いんだけど、そういうのって、あんまないんだよね。だから関が本当に嫌だったら……その……俺は別にどっちだって構わないし、俺としてはそんな理由で関に嫌われるのやだから」
 考え考え言葉を紡ぐ藤原を見ているうちに、今まで自分が拘ってきたものは、実はとても馬鹿馬鹿しいもののような気が関にはしてきた。
「わかった。……もういいよ」
「俺の言いたいこと、わかった?」
 苦笑しながら関が言うと、藤原はぱっと表情を明るくした。
「お前が喋んの下手だってことはな」
「ひでー。これでも気にしてるんだぜ?」
 意地悪く関が言うと、藤原は大袈裟に肩を落とした。
「……悪かったな」
 藤原が自分の演技に気を取られているところを見計らって、あらぬ所に顔を向けながら関は独り言のように言う。
 しかしやはり藤原の耳にはしっかり届いていたらしい。テーブル越しに、突然藤原の手が伸びてきて、関はシャツの胸元辺りを掴まれた。
「お前が謝るなんて、気味ワリイ」
 ……しかし藤原の呟きの大半は、外気に触れることなくそのまま直接関の胃の中に流し込まれてしまった。




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