一
遅咲きの露草の青が、月の運ぶ緩やかな光にほうわりと浮かび上がる。
八月の終わり―夏がいつの間にか姿を薄める頃である。
蜜色の月が、金糸の細さで空に浮かぶ。
新月後の極細の月は、待ちきれぬ今宵をやせた身で、それでも全力で 照らしているようだった。
そんな月の中、博雅は舎人も連れず、ひとり晴明の屋敷への道を行く。 いつものとおり徒歩(かち)である。
片手には行燈、片手には茸の入った籠がある。
晴明の屋敷への道すがら、時折立ち止まって博雅は、針のように鋭く、 絹糸のように柔らかな月を見上げては、ほう、と吐息をつくのだった。 博雅の頬に月の光が差し込む。
陽の光と違って、熱を感じることは全くなかった。 それなのに、こうして見上げていると、何やら自分の内側からやんわりと暖かみが生まれる。
誰が決めたわけでもないのに、毎夜姿を変えてみせる月。一日とて続けて同じ姿形をしていない。
そしてよく見れば蜜の色をたたえた月も、一色で染め上げられているという訳ではなかった。色の濃ゆいところもあれば、反対に儚すぎるほど色のないところもある。
―月の濃淡を見ていると、何かの形に見えてくる。
沢の蟹、 女の横顔、 御仏のお姿、 どこかの景色、 獣、
―それから―
「今宵は糸月だからな。いつもの絵は見えぬか―」
呟いて博雅は、月から目を離すと、再び晴明の屋敷への歩を進めた。
二
「晴明」
晴明の屋敷の門をくぐったところで、一度名を呼ぶ。
一拍おくと、博雅はそのまま屋敷の方へと歩き出した。
歩く道すがら、博雅は庭の片隅でひとむら、遅く咲いた露草に目を留める。 庭にある他の草木に混じっていても、その青は、金糸の月に彩 られて浮き上がり、博雅の目を引いた。
「晴明」
屋敷の土間へ着いたところで今一度、屋敷の主の名を呼ぶ。
普段なら、このあたりで女の姿形をした花の式神や、かやねずみの式神や、晴明に化けた猫の式神が出迎えに来るのだが、今日は誰もやってこなかった。
「いないと言うことは無いのだろうが…」
ひとりごちて博雅は、仕方なくひとりで土間を上がった。
いつもふたりで酒を飲む濡れ縁や、奥座敷には灯りがともっている。
ぼんやりとしたその明るさは、屋敷の敷地に入る前から変わっていなかった。
「晴明」
子供が初めて憶えた言葉を繰り返し、繰り返し口にするのに似ていた。
それしか知らないわけでは無かろうに、博雅は屋敷の主の名を幾度も呼ぶ。
気配があるのかないのか分からない。
当然なのだろうが、人である晴明と、晴明の呪である式神の気配は、 種を異にするものだった。
―似て非なるもの。
そんな表現が一番近い。
どちらにしてもいつもなにがしかの気配をはっきりと感じるものだった。
しかし、今夜は気配を感じないわけではない、けれど。
「何か思いがあるようで―といって、なにもはっきりしない気配だなあ」
博雅は武士らしい気配の悟り方をしていた。
人とは、殺気にしろ、好意にしろ、敵意にしろ、こちらに働きかけている相手の気を感じるものである。
晴明の屋敷ではいつも、
―晴明がいる―
という気を確かに感じるものだった。
しかし今日はそう言ったものが、もやの向こう側を探らなくてはならないように、 朧気にしか感じられなかったのである。
そんな不思議を抱えたまま、博雅はゆっくりと濡れ縁へと続く廊下を歩いて ゆく。
視線をゆるりと流す。
濡れ縁を何気なく見渡すと―
「―晴明…」
屋敷の主は、いつもの濡れ縁にいた。
博雅は思わず足を止め、自分の目に映り込んだ景色に見入る。
「眠って、いるのか―?」
訊ねたわけではなく博雅は、空気にとけ込むような声で呟いた。
博雅の目に映り込んだ景色の中に、晴明は眠っていた。
濡れ縁の床板に直に身体を横たえて、立てた左片肘を枕代わりに、掌へ軽く頭を乗せている。
空いた右手には庭で摘んだのか、青い小さな花をつけた露草が一輪。
ごく淡い月と、蝋燭のあかりが、揺れる光で晴明の頬をなでていた。
博雅はそんな晴明の姿を、しばらく立ったまま眺めていた。
「この世のものとは思えぬ…」
意志とは無関係に、博雅の口から言葉がこぼれ落ちる。
手の中にある露草が、 晴明の白い狩衣によく映えていた。
博雅はゆっくりと眠る晴明に歩み寄る。感じたことのない種の高揚感が博雅を包んだ。
起きて欲しかったし、起きて欲しくなかった。
瞳を合わせたいと強く思ったし、けれど伏せられたまぶたのままでよいとも、思った。
博雅が手を伸ばせばすぐに触れられる距離になっても、眠る晴明は瞳を開けることはなかった。
―式か?
一刻考えもしたが、気配は晴明のものであったし、微かだが寝息も聞こえていた。
博雅は横たわる晴明のすぐ傍らに、ためらうことなくふわりと座した。晴明の手にする露草が微かに揺れる。
それでも晴明は瞳を開けることはなかった。
ただ昏々と眠り続ける。
月を見て、
庭を見て、
露草を見て、
眠る晴明を、見る。
酒もないし、話しに来た相手は自分のとなりでただ眠っている。
―それでも博雅は飽くことがなかった。この時が、延々続くならそれもよいとさえ思っていた。
今一度、博雅は眠る晴明を見る。
濡れたような艶をもつ唇を微かに開いて、ゆっくりと、一定の呼吸を繰り返している。
晴明は博雅の至近で、ただ安らかに眠り続けていた。
何の気負いも、警戒も、畏怖も無く―。
ただ、安らかに。
ふと博雅は思いついたように、晴明のすぐ隣に腹這いになって寝転がった。
片方の肘を立てると、掌で顎を支える。そのまま、空に漂う月を見上げた。
そんな博雅の耳に、晴明のやすらかで小さな寝息が聞こえる。
心地のよい拍で繰り返される晴明の呼吸に、月を見上げたまま、博雅も呼吸を合わせてみる。
すると、次第に思考が緩くなり、心臓の拍動も呼吸に合わせて落ち着いたものに なってゆく。
博雅はゆったりした呼吸を晴明と重ねながら、空に向かって上げていた視 線を、 隣で眠る晴明に合わせてみた。
微笑んでいるようにも見える表情のまま、晴明はまだ瞳を閉じたままだ。
「晴明」
起きるかも知れない。
「晴明」
起きないで、欲しい。
声には出さず、博雅は唇だけ動かして、名を呼んだ。
晴明から譲り受けた、ゆったりとした拍動を抱えたまま。
―式なら式でよい。
―このままでよい―
うつぶせのまま博雅は、自分の両手を床に重ねておくと、それを枕代わりに頭 を乗せる。
依然、立て肘をして眠り続ける晴明を間近から見上げた。端正で細い晴明の顎の 線をすぐ 近くに見ることができる。
すると博雅は身体の内側から、何やらほわり、ほわりと暖かくなってくることに気がついた。
身体の真芯がじんわりと暖まり、次にゆっくりと、その暖かみは博雅の身体の隅々にまで染みわたってゆく。
―似たような暖かみを、さっき―
思った博雅のまぶたが、ゆっくりと重さを持ち始める。
糸月に意識をさらわれる間際、博雅は思う。
―ああ、おまえは。 月であったか…晴明―
夜に吸い込まれそうになる意識をもてあましながら、博雅は左手を僅かに伸ばす。
晴明の手にしていた露草に、優しく触れた。 博雅の指と、晴明の指の間で。
小さな露草が―、
―本当に微かに、笑うように……揺れた。 |