去りゆく君を 置いてゆく君を

 

初夏の日差しが、晴明の屋敷紗 ( うすぎぬ ) のような優しさで差し込んでいた。

柔らかく、つやつやとしたけやきの小さな若葉が、太陽に向かって輝きを誇っている。

…さながら、赤子が母に向かって無心に、その手を伸ばすが如く。

―春から夏の初めにかけて。

いのちの躍動が、一年の内でもっとも盛んな季節。

濡れ縁からこんな景色を望んで。

きっと博雅ならこう言うのだろう。

「なあ、晴明。おれはこの時期になるといつも心が躍るような気持ちになるのだよ。だってそうであろう?虫も花も、嬉しそうではないか―?」

そんな言葉を自分のすぐ隣で、暖かな声で言う博雅を思い、晴明は手酌で盃へ酒をなみなみと注ぐと、静かに飲み干した。

草いきれの香りのするあおい風が、濡れ縁に独り座る晴明の頬をふわりとなでる。

ふと、晴明のこめかみのあたりから落ちた後れ毛に、風がまとわりついた。

白髪の交じった自分の後れ毛に指を添えると、耳の後ろへ落ち着かせた。小さく息をつくと、今一度手酌で酒を飲む。

 濡れ縁には、晴明独り―。

 

 天元三年(九八〇年)―安倍晴明は五十九歳になっていた。

 「源 博雅様のお体の具合が優れぬご様子―」

 ―内裏での殿上人同士の会話。

 「お屋敷にて伏せておられます」

 ―様子を見にゆかせた式神の報告。

 何もかもわかっていても、晴明は博雅の屋敷へは行かなかった。

 

呼ばれないなら、行かない。

例えば博雅なら―。

「思いあぐねておるくらいなら、ゆけばよい。ゆこう、晴明」

云いながら腰を上げているに違いない。

…忍び寄る黒いものが怖いわけではない。

例えば博雅なら―。

「生命のあるものは、いつか必ずこの世からなくなってしまう。しかし、だからこそ、愛おしいと思えるのであろうなあ。なあ、晴明」

―陰陽師が万能であるなら、帝などいらない。

陰陽師に全ての 生殺与奪 ( せいさつよだつ ) の権が与えられているというのなら、この世に神仏など出来てはいないだろうし、みなこぞって陰陽の術の会得に目を血走らせているに違いない。

―例えばここに一人の人間がいて、生死の境を彷徨っているとする。そしてその人間の生命の行方に、妖の力が作用しているとしたら…?

全うできるはずの寿命を、断ち切ろうとする妖から救ってやることは出来る。それは、万物の調和を取るために与えられた陰陽の力の使われる本来の目的。

しかし、緩やかにおとずれる老いと死を、陰陽の術で払いのけることなど出来るはずもない。

それをしたければ、妖の力を借りるより他に、道はないのだ。

殺そうとするにも妖の力を使い、

生きながらえさせるにも、妖の力が要る。

「妖とは、なんだと思う?博雅」

こんな質問を、晴明は何度も博雅に投げた。

そのたびに博雅は、大きな体を少し屈めて考え込んで、むむ、と唸って、その時々の返答をよこした。

「妖とは―人の心深くに潜むものだ」

時に矢のように鋭く、物の根元を突く返答をした。

「―わからぬ」

ひどくあっけなく白旗を揚げてみせる時もあった。

全てが、博雅の心のままだ。

風に吹かれる後れ毛もそのままに、晴明は空を流れる新しい雲に視線を送った。

小さな吐息に、言葉が混じる

「おれはただの陰陽師だ。死にゆくおまえに、何も出来ぬ」

晴明の絶望の深淵が、呟きに滲んだ。

 身体が怠いと思ってその日は早く床に入り、翌朝には治っているだろうと高をくくっていたものの、身体の怠さは一向にとれず、そんな症状は日ごとに増してゆくばかりであった。それから十日も置かずに、博雅は床から起きあがれなくなっていた。

 歩み寄る老いの気配に、武士である博雅がこれまで気づかぬはずはなかった。だからといって博雅は、こんなに早く、しかもあっけなく自分の身体が床に張り付くなどとは、思ってもみなかったのである。

 

家の者が薬師を呼んで、心配そうに見守った。

 「私も年ですからね…」

 脈を取る薬師に向かって笑いかけ、博雅は言う。

「何をおっしゃいます、まだまだでございます」

薬師は 妙薬だと言って、干して砕いた葉をたくさん置いていった。

「―」

博雅は黙って 枯れて粉になった草を見つめる。

前に、晴明はこんな事を言っていたっけ。

「薬師の出す煎じ薬など、根本の治癒には結びつかぬ。人間の持つ本来の癒しの力を助けるものなのだからな」

―と、言うことは、治る見込みのある病には効くが、そうでないときは役に立たないと言うことになるのだな。

―晴明。

たぶんおまえといたからであろうが、おれには自分の今置かれている場所が、何とはなしに分かるのだよ。

「おれはもうすぐおまえをおいて、行ってしまうのだよ。すまない―晴明」

自分の屋敷の見慣れた天井を強く見つめて、博雅は切なく言った。

床に張り付いて半月も経った頃、博雅は夜中にふと目を覚ました。

このころには食事もほとんど喉を通らず、最近は少量のおもゆを含むだけになっていた。

おかげで以前を見る影もないほど、博雅は痩せていた。

 しかし、確実に近づく黒いものを認識し、肉体がそれに向かって歩みを進めるごとに、感覚は、武士として最盛期の頃と同じか、それよりもっと鋭利に、怜悧になっている気がしていた。

 そうでなければ、今、目を覚ましたりはしなかったであろう。

 そして研ぎ澄ませて待っていたのはこれなのかと、極致に達した感覚が博雅の中で、叫びを上げる。

 

横になる博雅のすぐ脇に、猫が腰を下ろしていた。

長く、美しい尾を自分の前足に乗せるように絡めて、背筋をぴんと伸ばして座る、青みがかった褐色の若猫。

その猫が、博雅を月のように澄んだ目で見つめていた。

「来たのか、晴明―」

博雅の言葉に、猫はなにも言わず、その月色の瞳で博雅を見つめ続けた。

「―会いたかった」

はっきりと言うと、博雅は動かない体を僅かに動かして腕を上げた。そっと猫に触れる。

決して長くはない猫の毛並みは、それでも博雅の指に、驚くほどしなやかに、吸い付くように絡み付いた。

耳の下から頬のふわりとした毛へ―胸のしっとりとした毛並みに手を滑らせ、背中をなでてやる。

 猫は軽く目を閉じて、博雅のするまま、身を任せていた。

「なあ、晴明」

呼ばれた猫は、静かに月色の瞳をあらわにする。じっと博雅を見た。

博雅は少し笑うと、ふと猫から目を離して天井を見た。手は依然、猫の胸のあたりの毛をなでている。

「…おれはもうじきゆかねばならぬ。おまえを置いて、ゆかねばならぬ。いつものように、ふたりでゆこうとは…言えぬところへ―ゆかねばならぬ」

猫は黙って聞いている。両方の耳が、博雅の口元を捉えていた。

「あんなに同じ時を過ごしたのに、あんなに近くにいたのに、あんなに、触れ合っていたのに。結局最後には、おまえをおいてゆくのだなあ、おれは」

それでも猫は、微動だにしない。尖った耳は、博雅に集中したまま、動かなかった。

「おいてゆく人間より、おいてゆかれる人間の方が、余程つらいことはわかっている。なのに、おれはそのつらい役目を、おまえに負わせてしまうのだな……」

博雅は、静かに視線を動かして、その黒い瞳で、猫を見つめた。

「すまない、晴明―」

博雅の言葉に、猫が、動いた。

床に就く博雅の肩と首の隙間に、するりと身を入れる。まるで 対 ( つい ) の物のように、猫は博雅に寄り添うと、痩せて乾いた博雅の唇に、ちょん、と口づけた。

優しく頬に頬をすり寄せ、しなやかな身体を、これ以上ないくらい博雅の近くへ寄せる。仰向けに横になる博雅の首の上に自分の首を乗せて、博雅の顎へ自分の頭をすりつけた。

なにも言わない代わりに、身体の全てで、博雅に想いを伝えてゆく。

過ぎてゆく時間は、ふたりでいても幸せと言うことはなかった。

今こうしているこの時間は、例えることなど出来ないほど残酷な 後 ( のち ) の時間を確認するためのものだった。

でも、不必要な時間かと聞かれたら、ふたりにとっては不可欠なもの―。無くてはならない、大切な時間だった。

博雅の顎に頭をくっつけたままの姿勢で、猫は博雅と交差するようにそのまましばらく呼吸を共にしていた。博雅が呼吸をするたび、猫は微かに上下に揺れた。

ゆらり、ゆられて―。

猫は、博雅の生の川岸に、共に漂う。

「晴明、ひとつ頼まれてくれるか」

博雅の低い声が、猫の声帯にも微動となって響いた。

猫は首をもたげて博雅の瞳を見る。

「あれを、持ってかえってくれ」

博雅は視線で自分の枕元を指示した。

指された方を猫が見ると、そこには見慣れた―。

「その葉双を、持ってかえってくれ」

博雅の声に、猫は今一度視線を戻して、博雅を見る。月色の瞳は、包むように博雅の心を捉えた。

「おまえに、持っていて欲しい。おまえが、よいのだ…頼む」

博雅の言葉をじっと聞く猫の月色の瞳はなぜか冴え冴えとして、冬の月の色をしていた。

痛いほど寒い、雪の後の夜の、凍った月。

触れたら、高い音と共にはじけて砕け散るのではないかと思われるほど、それは温度の低い月―。

「ああ、泣くな、晴明―」

凍り付く猫の瞳を見て、博雅は小さく笑うと、優しく言う。

耳の下の、ふわふわの毛に指を埋めて、なでてやる。猫はそんな博雅の手に頬をすりつけてきた。

「泣くなと言うておるのに…おれはどうしたらいいのか分からないよ、晴明―」

壊れそうなほど温度の低い月色の瞳は、博雅の言葉でも、温度を上げることはなかった。博雅は飽きることなく、猫の毛並みをなでてやる。また、博雅は小さく笑った。

「不思議なものだ、おれが晴明に困らされるなんてなあ」

小さな猫の頭を、ふわりとなでた。

「大抵、おれがおまえを困らせていたのに」

猫の目が、博雅を捉える。

それを見ると、博雅は真っ直ぐ猫の瞳を見て、静かに言った。

「愛しているよ、晴明」

猫の耳がぴくりと動く。

博雅の全てが、そこにあった。

今まで、何十年も、何万時間も共に過ごしてきた。

幾度も太陽の下をふたりで歩き、数え切れないほどの星空を一緒に過ごしてきて、それでも博雅は、今まで一度もその言葉を晴明に告げたことは無かった。

「―今ほど強く思ったことはない。おまえを苦しめるだろうと、分かっていても。伝えずにはいられない。今おれは、おまえをとても、愛おしいと思う…」

博雅の太陽のような瞳の色が、凍った月色の瞳を、ゆっくりと融かす。猫の瞳から、小さな 滴 ( しずく ) が落ちた。

月色の瞳は、滴がこぼれ落ちるたびに温度を上げて、その色を濃くしてゆく。

「晴明―」

そんな猫を見て、博雅は猫の瞳からこぼれる滴を、飽きることなく唇ですくい取ってやった。

唇を寄せると、猫の頬の毛が、柔らかく博雅の頬や鼻に触れた。

例えようもなく柔らかく、暖かいものだと、博雅は思う。

おれはこの存在を、おいてゆかねばならない―。

「おいで」

博雅は自分にかけられた布を僅かに持ち上げると猫を促した。

なにも言わず、猫はそれに従う。

向きを変えて、横になる博雅の脇の下へ身体を入れると腕の付け根へ頭を乗せてすわりこんだ。

「うむ、晴明だ」

布をかけ直して、猫に腕枕をしてやる博雅は、微かに笑ってそう言った。猫は黙ってじっと博雅を見る。

「おやすみ、晴明。帰るときは、葉双を忘れるなよ―」

ぽんぽんと、鼓動に合わせて、猫の背を優しくあやしながら博雅は言った。うとうとと、瞳を閉じる。

いつもと何も変わらない、博雅の寝顔がそこにある。

決して遠からず死にゆく者の寝顔ではない。

今生 ( こんじょう ) 考えられる中で、一番の幸せを手にした人間の寝顔だった。

 翌朝、目を開けた博雅は、独りであった。

見慣れた自分の屋敷の寝所の天井を、ぼんやりと眺める。

身体は相変わらず言うことを聞かなかったし、筋肉のそげた腕は、より細くなったように感じられる。

ただ、昨夜の出来事を幻だったとは露ほども思わなかった。

枕元に、視線を送る。動きの鈍った腕を、枕元に彷徨わせてみた。

………葉双は、ふくさの上から消えている。

「―持っていってくれたか」

博雅は言いながら手を戻そうと僅かに動かした。

―と、葉双はなくなっているものの、ふくさの上に何やら別のものが乗っているらしい。

小さなそれは、博雅の手にちょん、とぶつかった。

「?」

不思議に思いながら、手探りでそれをつまみ上げ、目の前に曝す。

「―晴明」

一目見た博雅は、瞬間優しく笑った。

葉双を受け取る代わりに、猫は自分の瞳の色と同じ、小さな月色の珠を、博雅に置いていったのだった。

博雅の手に包まれた月色の珠は、角度を変えて光にかざすと銀を帯びた青色にも見え、また角度を変えれば透きとおる風のように色を薄めた。博雅の体温で暖められた小さな珠は、幻のように淡い桃色になる。

博雅が珠を見るように。

珠も博雅を見ていた。

「ありがとう―、晴明」

言って博雅は、静かに月色の珠に唇を寄せる。

そして、博雅の元へ猫が訪れてから数日後―、

従三位、源 博雅朝臣の死の知らせが、宮中に届いた。

享年六十二歳。静かな最期だった。

 若葉の潤いが混じったような、あおい香りのするさわやかな風の中で、晴明と博雅は差し向かって座していた。

 いつもと同じに、晴明の屋敷の濡れ縁で、初夏の風と陽の光を頬に受けている。

 晴明は、その手に酒のなみなみと入った盃を持っていた。

 柱の一本に背を預け、片立て膝をして無造作に座る。

 一方、差し向かって静かに座る博雅は、何も手にしてはいなかった。博雅のために用意された盃は、博雅の目前の膳の上に静かに乗っているばかりである。

 緩やかに、風が通り過ぎる。

潤いのある暖かな風は、晴明にはぶつかり、博雅を透過した。

晴明の白髪は風に吹かれて微かに揺らめき、静かに座している博雅は、風そのもののようにまるで変わらず、そこにある。

僅かに皺の刻まれた、それでも白くて細いその指で盃を静かに傾けると、晴明は盃に自分を映した。

白髪の交じる灰色の髪と、皺の刻まれた目尻をゆっくりと眺める。

今度は、盃を反対に傾けた。

目前には博雅が静かに座してこちらを見ていた。

けれど揺れる酒面には、見慣れた庭と、濡れ縁が広がるばかりである。

―目前にいる博雅は、映らない。

―…映せない…。

また、ゆったりとした風が濡れ縁を通る。

風は、晴明にぶつかり、博雅を通り過ぎた。

相応に老いた晴明の前で博雅は、輝く表情と、精悍な肉体を誇っている。

何十年も前の、晴明と出会った頃の博雅がそこにいた。

ふたりは一言も言葉を交わさず、けれどこれまで幾度も、飽くことなく繰り返してきたように、瞳を交わして時を過ごした。

どんな速度で過ぎているのか分からないくらい、緩やかで濃い時間が、そこにあった。

「晴明様―そろそろご出立いたしませぬと、博雅様の葬礼の儀に間に合いませぬ―」

淡い紫色の唐衣をまとった美しい女が、廊下から声をかける。

「分かったよ、 莉 ( り ) 紫 ( し ) 。いま行く」

「はい―」

莉紫と呼ばれた女は、短く返事をしてもと来た道を消えてゆく。

「さて―」

ひとつ息をつくと、晴明は静かに、若い博雅に向き直る。

晴明の皺の刻まれた表情の中に、変わることなく光を放つ、青みがかった濃茶色の瞳があった。

その瞳で、真っ直ぐに若い博雅を見る。

博雅は、なにも言わずに、ただ優しく晴明を見た。

…時が止まればよいと願うのは、ひどく愚かなことだと思う。

出来ることを願い、それに向かって生きていくことを、希望という。

出来ないことを望み、それに 縋 ( すが ) り、不可能を確認することを、絶望という。

時を戻したいと願うのは、それは、希望だろうか?

―そこに絶望しかないとは、思いたくない。

「おまえの葬式へ行って来る」

今の己の内側と同じくらいの深黒を持った 束帯 ( そくたい ) に身を包んでいた晴明は、そう言って若い博雅に微笑んだ。

剥がれて落ちたら、きっと二度と持てなくなるだろうと思われるほど、薄く、感情の際にある微笑み。

そんな無彩の微笑みを浮かべたまま、博雅の額に手を伸ばすと短く呪を唱える。

そんな晴明と、晴明のすることをじっと見ていた博雅は、最期にふと、晴明に笑った。

表情が動いたわけでは無かった。

唇も、瞳の色合いも、博雅の全ては何も変わらなかったけれど。

それでも博雅は、晴明に、―笑った。

晴明の唱えた呪によって、博雅は、姿を薄めてゆく。

透明な水に、色の付いた水が溶け込んでゆくように―。霧が、風に吹かれて滅してゆくように―。

晴明を静かにみつめたまま。

笑った博雅は、姿を―……消した。

もう二度と呼ばない。

もう、未来永劫、呼ばない。

もう、自分が生きている限り、逢わない。

たとえ、この心が、壊れてしまっても。

思い切って握った晴明の拳から、血が滲む。

低い嗚咽と共に、涙が一筋、目尻の皺にじわりと滲んだ。

今まで博雅が座っていた場所には、紫のふくさに乗せられた葉双があった。

博雅が鬼からもらった葉双は、主人を失ってもその漆黒の艶を衰えさせることはなかった。

偉丈夫の趣をたたえるその笛を、晴明は静かに手に取る。

愛おしむようになでると、吹き口に唇をあてる。指を構えて、静かに息を吹き込んだ。

瞬間音が、滑り出す。

晴明の音がする。 

博雅の音では―、なかった。

晴明は静かに葉双を唇から離すと、小さく笑う。

「おまえの音を聴くことも、もうかなわぬ」

掠れた声でそう言うと、晴明は静かに葉双を懐へ入れて、すっと立ちあがる。

袍 ( ほう ) と 表 ( うえの ) 袴 ( はかま ) がすれる音が、微かに聞こえる。

屋敷の出入り口へ向かい、濡れ縁を後にしようとした晴明は、ふと濡れ縁を振り仰ぐ。

誰もいなくなる濡れ縁に、ふたり分の酒の用意がある。

出先から帰ったとしても、ふたり分の酒の用意をすることは、もう無い。

これから自分は、それを意識に刷り込むための儀式に赴く。

葬式など、死んだ者のためにするのではない。

残された者が、それでも生きてゆく覚悟を決めるために、するものなのだから。

「―」

不意に晴明の口元に鮮やかな微笑みが舞い戻った。

痛いほどに美しい、博雅が幾度も心奪われた、誰にも真似のできない、晴明の微笑み。

何十年、変わることなく博雅が座った濡れ縁の一角に視線を下ろし、美しい曲線を描いた唇の端を、僅かに上げる。

挑みかかるような強さを持った晴明の微笑みは、蜘蛛の糸のように美しく、けれど例えようもなく脆弱だった。

「おれをこの先、どれだけ放っておくつもりだ、…博雅―」

微笑みの端からこぼれ落ちた断末魔を引きずって、晴明は濡れ縁を後にした。

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