我が儘に君の心の儘に
博雅はもう六日、源の屋敷へ帰っていなかった。
その間居たのは、土御門大路にある安倍晴明の屋敷。
六日の間、ただの一歩も晴明の屋敷から出ていない。
身に危険が迫っていたのではない。
病に伏していたのでもない。
晴明の張った結界の中に避難しているわけでもなく、
物忌みをしているわけでもなかった。
―ただ晴明の屋敷に居た。
言うまでもなく、それまで晴明の屋敷で暮らしていたのは晴明ただ一人である。
幾度となく通っては来るが、当然博雅は晴明の屋敷で「暮らして」いたわけではない。
しかしこの六日間。
博雅は確かに晴明の屋敷で「暮らして」いた。
―六日前、晴明が言ったたった一言。
「―帰るな。博雅」
ここから全てが。
―始まった。
弥生も半ば過ぎのある夕暮れ前。
翌日の参内の支度もあるからと、博雅が帰宅のために晴明の屋敷の濡れ縁から腰を上げ
かけた時だった。
「―え、いや。帰るなと言われてもな…」
春先の陽が沈み始めようとする程の時刻に、橙色になりかけた太陽を白い狩衣に溶かし込んだ
晴明が言った一言に、博雅が言った。
―明日の参内は勅令だった。ゆかぬ訳にはいかない。
「だめだ、帰るな。ここにいろ。ひろまさ」
もう一度言って、晴明はじっと目前の博雅を見つめた。
「―」
独特の、青みがかった濃茶色の瞳に見つめられた博雅が言葉を無くして動きを止める。
吸い込まれるような青色と、徐々に色味を変える夕陽の色が奇妙に混ざって、晴明の
妖艶を濃くする。
「―…」
晴明の瞳を真面に見た博雅は、上げかけた腰をすとん、とその場に落としていた。
再び自分の隣に座した博雅に、晴明はふ、と微笑った。
「…」
そのままするりと身動くと、あぐらをかいた博雅の足の上へ、ぽこりと収まるように座り込んだ。
「―お、ぃ。どうした。晴明」
「―」
何の前触れもない晴明の動きに、少し慌てた博雅が声を上げたが、けれど晴明は何も言わず。
座りを落ち着けるように、博雅の足の上でもぞ、と小さく身動いた。
「……」
あっけないほど自分にぴたりと収まる晴明をあぐらに乗せ、博雅は首の後ろを掻いた。
何やらさっぱり分からない。
―分からないのに、たまらなくぞくりとする。
片手でそっと、後ろから晴明の腰を抱き寄せてみた。
「ずっと一緒にいなくては駄目だぞ、ひろまさ」
抱き寄せられて、博雅のあぐらの足の上に座り込んでいる晴明が言った。
「うん?」
聞き返しながら、博雅は至近の晴明を覗き込む。
「―」
本当にすぐ近くで、黒い瞳と青みがかった濃茶色の瞳がぶつかった、
―次の時。
「―このままもう、離れてはならぬ」
言った晴明は半身振り返ると博雅の首に両腕を絡めた。
極近で響く晴明の艶声に、晴明を抱く博雅の腕に少し、力が籠もった。
けれど、
「うむ―。帰りたくないのは山々なんだがな―」
そう言って困ったように晴明を見る。
―明日は早いし、参内せぬわけにはゆかぬのだよ。
そう、博雅が続けようとした時。
首に絡めていた腕に力を込めた晴明が、博雅をさらに引き寄せた。
唇同士が触れそうなほど近くまで寄った晴明が、低く、息だけで言葉を放つ。
「このおれを置いてゆくというのか。―そんなことをしてみろ。
酷いぞ、ひろまさ」
艶と妖と濡と―どこかで確かに残酷と哀が混じったその一言が、博雅を動けなくした。
見えない何かに縛られた博雅のあごに唇を寄せた晴明が、静かに、ゆっくりと言う。
「参内なぞやめてずっとおれといろ。ひろまさ」
「―」
耳と皮膚から直接響く晴明の声に、博雅の意識が薄くさえなる。
「おれをほうって参内なぞしたら―許さぬ…」
言いながら晴明は、博雅のあごに、唇で噛みついた。
「―…」
緩く、ふわりとした感触に瞬間、博雅の中の何かが音を立てて切れた。
晴明の腰にまわしていない、空いていたもう片方の手を晴明の頬に添えるとそのまま
引き寄せてあっという間に唇を塞ぐ。
「…ん、ぅ―」
鳴くように小さな晴明の声を聞いた博雅は、それからしばらく唇を離せなくなった。
それでお互いがお互いに呑み込まれても尚やめられないのだろうなと、ぼんやりと
考えながら。
「―っ」
余りに夢中になって空気が足りなくなりかけた博雅が、ようやく晴明の唇を放した。
小さな音を立てながら離れた唇の間で、晴明が笑う。
「こんなのでは許さぬよ。おれから離れるな、ひろまさ」
言った晴明が、博雅の首に絡めていた腕に再度、力を込める。
ぐっと引き寄せて、晴明から口付けた。
―溶けるほどに。
「―」
熱病のように熱い晴明を抱いて、博雅にもその熱がうつる。
晴明の唇を受けながら、唇と唇の間に生まれたほんのわずかな隙間から博雅が言う。
「離さぬよ―晴明。離すものか…」
頭の芯が溶ける思いで、博雅が言う。
掻き抱き、引き寄せて、薄紙すら入る間もないほど、それからふたつの身体が吸い付いた。
「…言ったな、博雅」
継ぐ息の間に、晴明の艶声がじわりと響く。
その日から数えてもう六日になる。
―離れるな。
と言う晴明の言葉に、
―離さぬ。
…そう言った博雅は、まさにぴたりと添うように晴明と共に居た。
と言うより厳密には、晴明が博雅に添っていた。
物を食べる時も、
酒を飲む時も、
湯浴みをする時も、
―床に就く時も。
何があろうと、何をするにも、晴明は博雅の側に付いた。
例えば湯殿にゆく時も、寝所にゆく時も、大抵ふたりは寄り添って隣を歩く。
手を繋いでいる時さえある。
そうでなければいやだと、そうでなければ許さぬと、
―青みがかった濃茶色の瞳が。
―指に絡まる指が。
―時折、少し高い位置にある博雅の肩口に押しつけられる白頬が。
身体の全てで示した晴明がいつも博雅の側にいる。
何もかもが違うのに、いつもと変わらぬ均衡が保たれるその距離感に、博雅は不思議な浮遊感を覚えた。
ずっと手を繋いで歩く。
ずっと、隙間無く寄り添って歩く。
それは今、生まれて初めてする行いだった。
晴明以外ともしたことはない。
けれどどちらが歩幅を合わせると言うこともないのに、互いに側を歩いていてもどちらの拍も全く狂うと言うことがない。
―初めて触れる楽器なのに、肉体が奏で方を知っている。
そんな風だった。
言い表しようのない高揚感は、きっと晴明とでなければ味わえないものだろうと思った。
それでも博雅は何となく、いつも側にいる晴明を思いあまり動かず、陽のあるうちは
ほとんど濡れ縁にいて庭を眺めていた。
そうしている間、晴明はいつも博雅のあぐらをかいた足の上に、ちょん、と座っている。
それまでと同じように、特に何を話すというわけでもなく、ただ、春の陽に柔らかく照らされている
晴明の庭をのんびりとふたりで眺めているだけである。
博雅の足の上に座している晴明は、ぽかぽかとした春の陽気に白い頬をさらし、博雅の足の上に座して、
何も言わずに庭を眺めている。
すぐ背後にある博雅の肩に頭を預けてぼんやりとしている時もあれば、無言のまま、博雅の手を取って
指を絡ませている時もある。
とにかく、博雅の側にあればそれで良いらしかった。
そんな時の陽は、傾きを忘れたかのようにゆっくりと流れてゆく。
―博雅は博雅で、参内を諦めた時点で完全に晴明に全てを預けていた。
自分の屋敷へ帰らなくなって何日目かは失念したが、一度屋敷へ帰ると言った時、晴明は一言。
「―ゆくな。ひろまさ」
そう言って博雅の腕を握ってしばらく離そうとしなかった。
それからというもの、博雅はただのんびりと、そんな晴明と何日かを過ごしていた。
ふたりは晴明の屋敷でふわふわと共に―暮らしていたのだった。
「通う」
と言う行いは何も珍しいことではなかったが、ふたりだけで
「暮らす」
と言う行為は新鮮で、博雅の心には途方もなく艶めいたことのように感じた。
命が共にあるような気がした。
殊に博雅が晴明の屋敷に暮らすようになってからは、ふたりは本当にぴたりと添って
いたので、丸々一日、絶対に互いの姿を見ているのだ。
別段何をするというわけではなく、ただふたりでのんびりと庭を見て、ただのんびりと
風呂に入り、ぽつりぽつりと日々の事柄や陽気の話をして、
共に笑い、互いに触れ、相手の体温を感ずる。
ただそれだけを、延々続くような気さえするほど、ただそれだけを。
六日間、博雅と晴明はそんな時間の過ぎゆく様を過ごしていた。
―離れるな。
という、晴明のたったひとつの求めに、博雅は素直に応えた。
けれど博雅は、ただ離れるなと言われたからここにいたのではない。
心の奥底にある思いの嵩(かさ)は同じくらい、溢れんばかりで。
―六日目の夜が更ける。
弥生下旬のはじめ。
春とは言え、夜半にはまだ地からしんと冷たさが忍び寄る。
「…ん」
博雅のすぐ隣に眠っている晴明は、小さく身動くとさらに博雅の方へ身体を寄せた。
そうしている今も、博雅の片腕を枕にし、もう片方の腕に抱かれている晴明は、充分に
博雅の側にいる。
けれどそれでも足りないと言うように、晴明は無意識に博雅のぬくもりを求めて身体を
寄せる。
―不思議だった。
何をするにも晴明が近くにいる。
どこへ行こうと、晴明は近くにいる。
そういったことに一切煩わしさを感じない自分の心の内を、博雅は不思議に思った。
返って今の自分にはそれが自然で、心地がよいとさえ思う。
「…晴明」
呼んで響くその名の音の並びさえ心地よい。
自分の腕の中で静かに眠る晴明を見ながら、夢のようだと、博雅は思う。
晴明の幸せを願い。
晴明が健やかに在ることを願う。
晴明に心穏やかに過ごして欲しいと願う。
人にない力があろうと。
力有るがゆえに失ったであろうものも。
何もかも含めたすべての晴明を見ていたい。
そうあれたら良いと、切に願う。
―その全てが今、形となって自分の手の中にあった。
夢のようだと、博雅は思う。
―そしてこの時博雅の澄んだ心は、ひとつのことを感じ、
その感覚ははっきりとした確信に変わる。
「―これは夢なんだな…晴明…」
言った博雅が笑う。
「―…」
言った博雅が泣いた。
どうしてなのかは分からない。
けれど、博雅には分かっている。
この、極限まで高められた幸せのかたちは、泡より儚い夢なのだと。
泣いて笑いながら、博雅はそっと晴明を抱き寄せる。
「離れられないのはおれも同じだ―」
眠る晴明にそっと口付けて、博雅もまた目を閉じた。
眠ってしまえば朝が来る。
朝が来れば夢から醒めてしまう。
けれど、
眠らずとも朝は来る。
だから今は。
「おやすみ。晴明」
幸せの時を、共に眠る。
幸せを腕に抱き、共に遠浅の眠りの海に―落ちて漂う。
「…ぅ…」
白い朝のまぶしさに、小さく声をもらした博雅が目を開けた。
「起きたか、博雅」
「晴明」
起き抜けに響いた晴明の声に、博雅が少し驚いた様子で晴明を呼んだ。
呼ばれた晴明は小さく笑うと、自分の身を抱く博雅の腕から片腕を引っ張り出して
博雅の目尻の辺りに触れた。
「泣いたのか、博雅?」
博雅の頬に残る乾いた涙の跡を細指で辿りながら、晴明が言う。
晴明の静かな言葉に、博雅はそっと晴明を引き寄せると頬に口付けた。
「すごく長い夢を見たよ」
晴明の頬に唇で触れたまま、博雅が言った。
近くで響いた博雅の声に、晴明がふと瞬いてつぶやく。
「―夢…?」
「うん」
晴明の小さな声に、博雅がうなずいた。
晴明は博雅にされるがまま、静かに口を開く。
「―どんな夢を見たのだ」
晴明の問いに、博雅は一刻思い出すように息を止めると、そのすぐ後に
低く、柔らかな声で言った。
「底抜けに哀しくて、比べるものなど無いほど幸せな夢だった―」
そう言った博雅が、晴明の唇を探しあてて口付けた。
優しい感触に目を閉じながら、晴明は博雅をそっと抱き返す。
「夢などではない。あれは―。真実(ほんとう)のことだ」
わずかに離れた唇の間から、晴明が言った。
「真実のこと?」
聞き返した博雅に、晴明がうなずく。
「ああ。おまえが夢だと思うたことのすべては、ほんとうにあったことだ」
「―」
静かに響く晴明の声に、博雅は黙って晴明を見返した。
見られた晴明は、それまで博雅と向き合っていた体を返して博雅の腕を枕に仰向けに寝転がる。
「七日前、おまえがここへやって来た時。おまえに憑こうとしている女がいた」
「憑こうとしている女―?」
浅く眉を寄せた博雅が晴明を見る。
「ああ、本気でな。本気でおまえに取り憑こうとしておった」
「―」
「取り殺そうかと、そんな勢いだった」
「―」
眉の間に寄せたしわを深くしながら、博雅が黙る。
そんな博雅を目の端に見た晴明が浅く笑った。
「別に、おまえは怨まれていたわけではない。人違いだ」
「人違い?」
「ああ。その女が憑きたかった男と、おまえが同じ名前だったのだ」
「…」
「その男も、おまえと同じ『ひろまさ』という名だったのだ」
「―おれと同じ、名前…」
つぶやいた博雅に晴明がうなずく。
話をしている間、晴明は天井を見つめたまま、博雅を見ない。
「それに、その女は怨めしさから『ひろまさ』を取り殺そうとしていたのではない」
「…」
「共に在りたかった。それだけだ」
「―共に…」
「そうしたらどういうわけかな」
言って、晴明が小さく声を上げて笑った。
「その女。おれに憑いた」
言って、もう一度晴明が笑った。
「あとは今日まで丸七日。おれはその女に憑かれたままになっていたのさ」
そう言って、晴明は博雅を見た。
「今はもうおれだがな」
真っ直ぐに注がれた晴明の視線を、博雅もまた真っ直ぐに見返した。
「どうして今日になって晴明は晴明に戻ることが出来たのだ?」
静かに聞かれた晴明は、博雅の真っ黒の瞳を見たまま口を開く。
「あの日はちょうど彼岸の入りだった」
穏やかに、晴明が言う。
「彼岸の間だけ、その女はあの世からこちらへやって来ることが出来ていたのだ。
彼岸の明けには、向こうの世界へ帰らねばならぬ」
「―もし、帰らなかったら?」
ふと気付いた博雅が聞く。
―もし、晴明に、その女が憑いたままになってしまったら―?
そんな博雅を横目に見た晴明がゆっくりと言う。
「帰らねば、どこにも属さぬ哀れな霊(すだま)となって、永劫さまよい続けることになる」
「…」
晴明の言葉を聞いて黙ってしまった博雅に、晴明が淡く笑って首を振る。
「そんなことはおれがさせぬよ」
「―うむ」
晴明の言葉に、博雅が小さくうなずく。
見慣れた晴明の屋敷の天井を、ふたりは並んでぼんやりとながめた。
空も雲も見えなかったが、それでもふたりは朝が進む少しの間、無言で天井をながめたままでいた。
「―しかしどうしてそこまで思うていた『ひろまさ』とおれを人違いなどしたのだろう?」
ふいに首を傾げながらそう言った博雅に、晴明が言う。
「『ひろまさ』を見つけられなかったからさ」
「見つけられなかった?」
「ああ」
「どういうことだ」
聞き返した博雅の方は見ず、晴明は静かに瞬きをした。
静かに息を継いで、言葉を紡ぐ。
「その女が探していた『ひろまさ』はおそらくもう死んでおる」
「―」
「女の方が先に死んだのだろうな。彼岸にこちらへ帰ってきた女の霊は、『ひろまさ』が
死んだことを知らなかったのだ」
晴明の静かなままの声に、博雅が視線を動かして晴明を見る。
「けれどあの世で一緒になる、とか言うであろう?」
「―」
博雅の言葉に、晴明は小さく笑った。
「死はそれほど人に優しくはない」
「―…」
「この世で離れれば、それがすなわち全ての別れだ」
「…」
黙ってしまった博雅に静かな笑みを向けたまま、晴明が言う。
「そこでたまたま見つけたのが、同じ『ひろまさ』という呪を持つおまえだったのだろう」
「うむ―」
「自分の『ひろまさ』を見つけることができなかった女は、『ひろまさ』になお焦がれた。
焦がれて、おまえに憑こうとしたのだろうさ」
「そういうことであったか―」
納得したように一度頷いた博雅を見ながら、晴明が言う。
「彼岸の間、願ったとおりずっと『ひろまさ』と共に在ったのだ。願いが成就した女は、
これからは心穏やかに輪廻を巡る」
それまで博雅を見ることのなかった晴明が、視線を動かしてじっと博雅を見た。
穏やかな青みがかった濃茶色の瞳が、真っ黒の瞳を静かに捉える。
「参内―勅令だったのに。悪いことをしたな」
「―」
小さく聞こえた晴明の言葉に、博雅はふと、優しく笑った。
それが、博雅の晴明の言葉だった。
「良いのだ。もし晴明がその女のかたを引き受けねば、都のどこかでややこしいことが
起こっていたのだろう?」
博雅の言葉に、晴明がうん、とうなずく。
「おそらく『ひろまさ』を探し続けてあの世へ戻れなくなるか―別の人間を取り殺していたやも知れぬ」
涼しく、波のない晴明の言葉を、博雅はどこか哀しくなりながら聞いていた。
―路頭に迷いそうになった魂を救えたのは、あの時晴明だけだったのだ。
凪いだ晴明の言葉が、博雅に沁みこんでゆく。
水のような晴明は、けれどただ水ではない。
波立つ水面を持たない晴明は、例えば水でもただ器に入っているのではない。
極薄の透明膜に覆われた、こぼれることのない、けれど柔軟で、形を定めない水。
―こぼれても良いのに。
受け止めることもできるのに。
「もっと我が儘でもいいのに…」
「うん?」
小さくつぶやいた博雅の言葉を、晴明が聞き返す。
何も言わず小さく首を振って、博雅は晴明を深く抱いた。
「その女のかたに感謝せねばならぬ。―おれは、全部嬉しかったから」
「…」
深く抱きすくめて、嗅ぐように晴明の首筋に鼻先をうずめた博雅が言った。
博雅の静かな言葉に、晴明の瞳の青の色が深く、深くなる。
「―おれは確かに幸せだったんだ」
「―…ひろ」
耳の側で響く博雅の声に、晴明の瞳の青がふわりと揺れた。
「どれだけ求められても、求められた分だけ応えてやりたいのだよ。おまえには」
「―うん…」
小さく返事をした晴明は、それから何も言わずに博雅に寄り添っていた。
―夢を見るのは夜だけでいい。
「朝だよ、博雅―」
「朝だな、晴明―」
―悪夢も美夢も、見て酔うのは夜だけでいい。
「起きるか、博雅」
「うん?」
「七日も帰っておらぬのだ。おまえの屋敷の人間がやきもきしている姿が目に浮かぶ」
「…」
ほのかに笑みを含んだ晴明が言う。
晴明の言葉を聞いた博雅は少しの間晴明を見つめると、そっと言った。
「おまえはどうしたいのだ、晴明」
「―…」
博雅に聞かれた晴明はほんの一瞬、息を止める。
「おまえはどうしたい?」
もう一度聞かれた晴明は博雅を見つめたまま、かすかに微笑って、―目を伏せた。
「―帰るなよ…博雅」
鈴音色の声が、博雅の耳に静かに届く。
言われた博雅は晴明を抱いたまま、一言。
「―おう」
返事をして、その後は黙って晴明の側にいた。
夢だったと確信できうる澄んだ心を持った博雅を。
何もかも分かって、己の何もかもを見えざるものと博雅に預けた晴明を。
共に生きる間だけ、共に全力で、想う。
優しく優しい博雅の声が、春の朝にとける。
―今日はおまえといるよ。晴明。
―現世(うつしよ)は時に、夢よりも。