どくせんよく〜独占浴〜

 

「…ぅあー…」

博雅の口から漏れた声に、晴明が笑った。
「…絶対に言うてしまうな」
目前で笑われた博雅は、そう言ってまた小さく唸った。
「…ぅ…ん」
向かいで気持ちよさそうに目をつむった博雅を見ながら、晴明は湯斛(ゆぶね) から半身乗り出すと、
隣に据えてある湯沸かしから湯桶にくみ出した湯を足す。

「熱いか?」
「いや…このくらいで」
「ん」

博雅の声を聞くと、晴明は持っていた湯桶を脇へ置き、半身乗り出していたために冷えかかった身体を湯斛に沈めた。
博雅のすぐ隣であごまで湯に浸かると、ふう、と息をつく。

―博雅とそうなってから、晴明は自分の屋敷の風呂殿を、湯殿に作り替えていた。
半分以上悪戯、十割道楽である。
元々晴明の屋敷にあった浴室はどこの屋敷にもある蒸気浴用の風呂殿だったのだが、
それをあっという間に湯斛のある湯殿に作り替えた。
檜を組んだ四角い箱状の湯斛を据え、横に湯沸かしの釜を造った。
浴室自体、とても大きいものだ。

たとえば殿上人である博雅の屋敷にあるのなら、合点もゆく。
しかし一介の陰陽師が持つ湯殿としては湯斛も場違いな大きさである。

…大の男二人が、丁度おさまることの出来る大きさ。

それが、晴明が新しく設えた自分の屋敷の湯殿。
晴明が自分と、博雅のために造った湯殿であった。


―晴明がこの湯殿を屋敷に設えたのにはわけがある。

 

…博雅が傷を受けてから少し経った頃のある日のことであった。

「傷跡の具合はどうだ、博雅」
「おう、もうほとんど痛まぬ。たまにつれる程度だ」
「そうか」

みぞおちの辺りに手を触れながら言う博雅に、晴明がうなずいた。
いつものように晴明の屋敷の濡れ縁でのんびりと酒を酌み交わしながら、ふたりは庭を眺めて時を過ごしていた。
庭にある吾亦紅(われもこう)や女郎花(おみなえし)などの秋の草も、もうだいぶ枯れかけている。
11月半ばの空気は、晴明の庭に乾いた音と冷たい空気を運んで来ていた。

「ああ、そう言えば」

杯を傾けながら、博雅が言った。

「うん?」
晴明もまた杯を傾けると、斜めに博雅を見る。
見られた博雅は、空いた晴明の杯に酒を注ぎながら口を開いた。

「兼家どのに言われたよ。湯治にでも行って来たらどうか、とな」

博雅が傷を負ったことは都人のほとんどが知らないままであった。 それでも検非違使の上層の一握りは知っていたし、
都でも有力所である藤原兼家などの公家は、話の筋は知っていた。
しかし噂話が仕事のような兼家も、邪の強い妖が絡んだ話ゆえ、他言するようなことは無かった。
そのような話をおもしろ半分に流布して、何かのはずみで自分が祟られてはたまったものではない。

「湯治?」

博雅に注がれた酒を含みながら晴明が言う。 晴明の言葉に、うん、とうなずいて博雅は口を開く。

「鞍馬に湯が湧いておろう?それが効くらしい」
言いながら、博雅が苦笑した。

「?」
話している言葉に合わない博雅の笑みに、晴明は不思議そうに博雅を見る。
すると晴明の瞳の雰囲気に気づいた博雅が首の後を小さく掻いた。

「いや―。兼家どのの言うことだからな…まったく」

歯切れの悪い博雅の言葉に、晴明はああ、とうなずく。 にやり、と笑った。
博雅の方へすこしだけ身を乗り出すと、

「兼家どののことだ。おおかた、『女を誘うて鞍馬辺りでじっくり養生してきてはいかがか、
博雅どの』とでも言うて、おまえをつついたのだろう?」

兼家の言葉の抑揚を真似て言った。
それを見た博雅が殊更に目を丸くする。

「いや、似ているなあ…。それに、その通りだよ晴明。どこかで見ていたのかと思うほどだ」

感心する博雅に、晴明は片方の唇の端を持ち上げて笑う。

「兼家どのならそうなるだろうさ」
言いながら晴明はもう片方の唇の端も持ち上げた。

「行ってきたらどうだ、博雅」
艶やかな笑みは、必ず博雅の中心をつかみ取る。

「行ってきたらどうだって、晴明―」
目前の笑みに見惚れたまま口を開く博雅に、晴明はその表情のまま続ける。

「言葉のままさ。鞍馬の湯がおまえの傷に良いなら、行ってきたらよい」
「おれひとりでか」

重ねるように言って、博雅が晴明を見る。
博雅の言葉に、晴明は先ほどとは違う笑みを浮かべて首を振る。

「兼家どのの言うとおり、どなたか姫をお誘い申し上げたらよいではないか」
晴明が言うと、博雅は困ったように眉を下げる。
「出来るわけがないであろう?」
「なぜだ?」
博雅の言葉に、晴明は形の良い眉を上げて言う。

「おまえが誘うて、来ぬ姫があるか?」
「…おれが誘うて、来る姫があるか?」
「いるさ」
「おらぬよ」
「―だとしたら、宮中は見る目のない女ばかりと言うことになるな」
「む?なんだって?」
「姫君どのは、いったい毎日どこを見ているのやら―」

言って晴明は軽く息を抜くと、わざとらしく首を振った。

「―」
「…」

そのあとふたりは、小さく吹き出すようにして同時に笑った。
そうしてじゃれていることも楽しかった。

ひとしきり笑った後、ふと表情を変えた博雅が口を開く。

「だけどな、晴明」
「うん」
博雅の静かな声に、晴明はじっと博雅を見る。

「例えばおれが湯治へゆくとして、誘うとしたら、それはどこの姫でもないのだ」
そう言って、博雅は向かいに座して自分を見ている晴明を見返した。

「―」
晴明は何も言わず、ただ博雅を捉え続けている。
表情は、無いわけはなかったが、とても不可思議なものだった。
待っているわけではなく、拒んでいるわけでもない。
ただ、そこにはほんの少しの躊躇と困惑が見える。
そんな晴明に、博雅が言葉を贈る。

「誘うとしたら、おまえしかおらぬ」
「―」

博雅の言葉に、晴明はわずかに瞳を動かすと小さく笑った。 博雅を見たまま、小首を傾げて静かに言う。

「おれはゆけぬ」

それは拒否ではなく、宣言に近かった。
つぶやくように言った晴明に、博雅が瞳で聞く。

―なぜ?

博雅の問いに、晴明はまた、小さく笑うと口を開く。

「ここに居を構えている限り、おれは私欲を理由に都を出るわけにはゆかぬのだ」
「どういうことだ」
博雅の言葉に、晴明は空になったままの自分と博雅の杯に酒を注ぐ。 ひとくち含んで、庭を見た。

「おれは都の生き人柱だから」
「む?」
晴明の不思議な言葉に、博雅は思わず聞き返す。

「おれのこの屋敷は、内裏から見て鬼門の方角にある。都を出れば同じ方角に叡 山があるが、
そこで食い止めきれなかったり、 それより内側で出でた妖はおれの方で面倒をみることになって
おるのだ。だから―」
「うん」
いったん言葉を切った晴明に、博雅は小さくうなずく。 庭から博雅に視線を移して、晴明が笑った。
儚い笑みが、宙に浮く。

「おまえとはゆけぬ」

「うん」
また、博雅がうなずいた。

「―そう、哀しそうな顔をするな、博雅」

博雅の表情を見た晴明が言う。
「ちがうよ」
博雅が短く言った。

「哀しいのはおれではない」

そう言って、薄い笑みをまとう晴明を見つめた。
「おれではない―」
言って博雅は、手にあった杯をさっとあおる。 手酌で注いで、またあおった。
晴明の屋敷で飲む酒が、こんなに苦いことは、今まで無かった。

「―うん」
博雅の表情と、その酒の飲み方を見ながら、晴明は小さくうなずく。
秋の冷たい夜風が、ゆっくりと濡れ縁を通り過ぎて行った。

再び空いてしまった博雅の杯に、晴明はゆっくりと酒を注いでやる。 自分の杯にも
ゆっくりと注ぎなおすと、つとめてゆったりと持ち上げる。
「―」
紅の唇に杯を運びながら、晴明がふわりと口を開いた。

「姫を誘わぬでも、おれを伴わぬでも、鞍馬へは行って来い。博雅」

ふわ―、と漂うような晴明の言葉に、博雅が晴明を見る。
見られた晴明は残った酒を飲み干すと、そのまま続けた。
「傷跡がつれると言うていたであろう?そのままにしておくと、皮膚の下の筋が 元通 りになるのが遅れるやも知れぬ」
「―」
「鞍馬の湯が傷や神経の痛みに良いのなら、それを使わぬ手はないであろう?」
「―」

博雅は黙って聞いている。 紡ぎ出される晴明の言葉は、とても滑らかで凪いでいた。
感と実と、どちらを取った言葉かを考えた時。
晴明の言葉のほとんどはその後ろ側を取るものとなる。

そんな晴明に、感を取って欲しいと思うことが、博雅には何度もある。
事実、今がそうだ。

晴明が、晴明自身のことを考えてくれたら良いのに。

「おれはゆかぬ」

静かで強い、博雅の声が晴明に届く。
「ん?」
博雅の言葉に滲む真剣の色に、晴明が眉を上げた。

「ひとりでなら、おれはゆかぬ」

駄々をこねているわけではなく、それは博雅の意志の溢れた言葉だった。
博雅の言葉を聞いた晴明が、わずかに息を止める。

「なぜだ、博雅」
問われた博雅は、真面に晴明をとらえて口を開く。

「ひとりで浸かる鞍馬の湯より、ここでおまえと酒を飲んでいるほうが、傷には
何倍も良いような気がするからだ」
「―…」

止まる息と、動かない瞳を博雅にさらしたまま、晴明は穴の開くほど博雅を見た。
博雅の言葉は、博雅自身のための言葉ではない。

―それは、晴明のための言葉。


「―困ったな」
ほんのりと眉を寄せた晴明が、ふわりと優美に微笑んで言った。
「なにがだ、晴明」
聞き返す博雅に、晴明は笑みを浮かべたまま首を振る。

「おれはおまえに湯に浸かってほしいのだ。なのにそうはっきりと行かないと言われてはな」
晴明の言葉に、博雅はうなずいて言う。
「ゆかぬよ。おれは」
博雅には特に晴明を困らせるつもりは無いのだが、博雅の発する言葉は、どうも
晴明を無意識に困らせているらしい。
博雅が何か言うたび、晴明は笑って首を振る。

「―でも、湯に浸かりたくないわけではないのであろう?博雅」
淡い苦笑に乗って運ばれる晴明の言葉に、博雅はうん、とうなずく。

「おまえを都へ置いて、ひとりでのこのこ湯治。と言うのがいやなだけだ」

わずかに口を尖らせてはっきりと言い切った博雅に、晴明は弾かれたように笑った。
「ん?」
前触れなく笑い出した晴明を、博雅は不思議そうに眺めた。 それでも晴明の笑いが止むことはない。
息が苦しくなるほど笑って、その笑いの端から「困ったな」と小さく言うと、晴明はまた笑う。

「―…ん?」
自分の何が晴明を笑わせ、同時に困らせているのか見当も付かない博雅は、それでも愉快で笑う
晴明を前に心穏やかになる。

「では、どうしようか」
笑い疲れるほど笑った晴明が、笑いをおさめて博雅を見る。
「どうしようって?」
聞き返した博雅に、晴明はふむ、と唸って杯を膳に置く。 立て膝に肘をのせると、その手でほおづえをついた。
艶を含んだ瞳で斜めに博雅を見る。

「おれは博雅に、傷に良いとされる鞍馬の湯に浸かってほしいのだが。博雅はひとりではゆかぬ と言う」
「うん」
博雅はうなずく。

「けれどおれはおまえとゆくことは出来ぬ」
「うむ」
また、博雅はうなずく。

「では、どうしようか」
先ほどと同じ言葉を発して、晴明が博雅の真っ黒の瞳を見る。 言葉と格好は思案を装っていたが、
晴明の中ではもう、どうするか決まっているようだった。

「どうしようというのだ」
目の前で楽しそうにしている晴明を見て、博雅が聞く。 聞かれた晴明はその表情にさらに楽しみの
色を浮かべて、博雅を見た。

「鬼門に出湯(いでゆ)を」
「ん?」
晴明の言葉に、博雅は首を傾げる。

「湯治はしたいがおれを残して鞍馬へゆくのがいやだと言うなら、ここへ鞍馬の湯を呼んだら良いだけのことだ」
「へ?」

なお楽しそうに言葉を発する晴明に、博雅はさらに首を傾げる。

「おれとしてもその方が面白そうだからな」

最後の一言を遊び心たっぷりに言うと、晴明は手を打って式神を呼び寄せ、書き物の道具を持って来させた。

「さて―どうするかな―?」

つぶやきながら晴明は、口元に笑みを浮かべて筆を取ると、紙に何やらの図らしきものを描き始めた。
集中して描き物を始めてしまった晴明の隣に座して、博雅はひとり、それでも穏やかな表情を浮かべ
ながら杯を傾ける。
ふたりの夜が、ゆっくりと更けて行った。



―それから数日後。

「まさ、か」

数日ぶりに晴明の屋敷を訪れた博雅がそれを見た時の最初の一言である。
間抜けなほどに驚いた顔を臆面もなく晴明にさらして、博雅は背後にいた晴明に向き直る。

「ここで湯治をしろ」

そう言って博雅が通されたのは、晴明の屋敷の浴室だった。 晴明の屋敷の浴室へは、何度も来ていた博雅であったが、
それは今まで何の変哲もない風呂殿だったのだ。蒸気で浴室を暖めて、その湯気で汗をかく―。
どこの屋敷にもある、普通の蒸気浴用の浴室。

それが、

「湯殿ではないか!?」
「ああ。造らせた」

博雅の小さな叫び声に、晴明は平然と答える。
今、その浴室を見れば、それは蒸気浴用の風呂殿ではない。 大きな木製の湯斛に湯が張ってあり、ほこほこと
湯気を上げている。
ほんの数日の間に、晴明の屋敷の浴室は、入浴できる湯殿に姿を変えていたので ある。

「…っ、つ、造らせたって…」
表情に驚きを貼り付けた博雅が、所在なく首の後を掻いて晴明を見る。
くるくると表情を変える博雅を楽しそうに見ながら、晴明が口を開いた。

「おまえが鞍馬へ行きたくないと頑なに言うのでな。ここへ湯を呼んだ」
「…!」

晴明の言葉にさらに驚いた博雅が口を開きかける。
すると晴明はそれより早く、言葉を付け足した。

「…というのは半分は本当だが、半分は冗談だ」
そう言って晴明は被っていた烏帽子を取ると、博雅の頭に手を伸ばして、博雅の烏帽子も取ってしまう。

「ん?なんだ、どうした晴明」
晴明の不思議な行動に、博雅が慌てて聞く。

「―湯治」

晴明は短くそう言う。次いで博雅に抱きつくように博雅の腰に手を回すと、博雅の着ている直衣の帯を解き、
下の単衣の帯もするすると解き始める。

「湯治って、今、これから?」

慌てたままの博雅の言葉に構わず、晴明は解いた博雅の帯を片手で引っ張ってはずしながら、
自分の狩衣を留めている帯も空いているもう片方の手で器用に解き始めていた。

「湯殿を造ったもう半分の本当のところを教えてやる」
博雅の衣を脱がせてしまいながら、晴明が言う。
時折肌に触れる晴明の指と、艶を含んだ晴明の声が博雅を包み込む。

「おれもおまえと風呂に入りたかった」
「―!」

言われた博雅は一瞬晴明を凝視し、次の瞬間、強く掻き抱いていた。

「…おい、ひろ―」
晴明は狩衣を脱ぎかけて帯を何本か握ったまま、博雅は晴明に脱がされて上半身裸で、着けているのは袴だけ。
お互いひどく間の抜けた格好で、ふたりはくっついていた。

「―晴明」
晴明の首筋に唇を寄せて、博雅が名を呼ぶ。
「…うん」
呼ばれた晴明はゆっくりと目を閉じて博雅の腰に両腕を回す。 博雅の肩に頬をあずけて寄り沿うと、そのままの
体勢で言う。

「おれと入りたくない?博雅」
「!」

晴明の言葉に、博雅はがばりと身体を引き剥がすと、晴明を至近から見て言った。

「入りたい」

博雅の動きと言葉の早さに、晴明は小さく笑うとうなずいた。
「ならば続きは風呂へ入ってからだ」
言って晴明は博雅にほんの一瞬口づけると博雅から身体を離す。
脱ぎかけていた衣をさらりと脱いで、湯殿へ消えて行った。
「―」
無駄なものの一切削がれた、白い晴明の後ろ姿を眺めながら、袴一枚でその場に 残された博雅は首の後ろを掻いた。

「こらえきれるか―?」

博雅の苦しいつぶやきは、湯殿から漏れてくる淡甘い湯気に霞入る―。



―それからは酒以外にも。
博雅が晴明の屋敷を訪れる楽しみが、ひとつ増えた。

 

 

 

 

 

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