■「SAYURI」2005年/アメリカ

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製作/ スティーブン・スピルバーグ
監督/ロブ・マーシャル
音楽/ジョン・ウィリアムズ
原作/ アーサー・ゴールデン
キャスト/
チャン・ツィィー/ミシェル・ヨー/渡辺 兼/コン・リー/役所 広司/桃井 かおり/工藤 夕貴/舞の海

【ストーリー】

漁村の家から貧しさゆえに千代(後のさゆり)と佐津の姉妹は置屋に売られてしまう。

佐津はそこから女郎屋へ、千代そのまま置屋で暮らすことになり、二人は別れ別れになってしまう。

泣き暮らす千代に希望の光を与えたのは、偶然、めがね橋で出会った優雅な紳士。

会長と呼ばれるその男性は泣いている千代にハンカチを貸してくれ、カキ氷をおごってくれた。

「次に会うときは、私に笑顔を見せてくれ」彼はこういい残し、彼女のもとを立ち去る。

「芸者になればまたあの方に会える」つらい日々を送っていた千代の幼心に彼は希望の灯をつけたのだ。

それからの彼女は芸を磨き、やがて「花街一のゲイシャ」と知らぬものはいないほどの美貌の女に変貌を遂げる。

すべては「あの方にもう一度会うため」だ。

【コメント】

ハリウッドからの純愛ストーリーです。久しぶりにいい映画に出会えました!!!

チャン・ツィィー目当てで観にいったのだけど、感動!!!

台詞はほとんど英語。日本語は少しだけ「おねえさん」「豆葉」「おかぼ」「おかあさん」「水揚げ」

ぐらいです。音楽が素晴らしいです!ヴァイオリンを用いて、中国的な要素でジョン・ウィリアムズ(ハリポタの主題歌とちょっと被ってる!?)が

作ってるんですけど・・体の底から酔わしてくれるぐらい切ないメロディなんです。

この映画は「芸者」と「娼婦」の違いがはっきりと描かれています。

娼婦は「体を売る」芸者は「芸を売る」私は、はじめゲイシャと娼婦って「体を売る」のが商売なんでしょ?

って思っていました。芸者のほうがワンランク上なんです。娼婦は体を磨くけど、芸者はひたすら芸を極める、磨くんです。

だから、娼婦のように体は売らない。これが原則なんです。

「本物のゲイシャは流し目一つで男心を掴む事が出来るのよ」

豆葉ねえさんがさゆりにいった台詞で一番印象に残ったやつです。

チャン・ツィィーが舞台で舞を舞うシーンが沢山ありますが・・息を呑むぐらい美しいんです。

彼女は北京の舞踊学校の出身なのですが・・さすが、真っ白な紙吹雪の舞う中、蝶のように飛んで撥ねて・・一寸の乱れもない優雅な舞いでございました。

とくに幾つもの扇を手首をのぞかせて操るシーンは圧巻!

あと渡辺 兼の英語には舌を巻くほど。

日本語なまりのない、なめらかな英語でした。ノンネイティヴなのにネイティヴか?と思うほど綺麗な発音でございました。

ミシェル・ヨーは「007」の時の現代的でカッコイイ女的な雰囲気とはまた違う、優雅で情の深い豆葉ねえさんを演じていました。

さゆりが豆葉ねえさんを見上げるときの表情がすっごく可愛いんですよ!!

それを「何?」って見下ろす豆葉ねえさんの大人っぽい表情も艶やかでうっとりするぐらい。

前文に純愛と明記しましたが、足長おじさん的な会長と、さゆりの純愛は涙が出るほど・・綺麗vv

会長は偶然、座敷で再会したさゆりを「あの時の子だな」と思い出し、それ以来、清楚で美しい彼女をずっと忘れられなくなるんですね。

「芸者は決められた人生を生きなければならないの」

「それは嫌!私は自分で(束縛されない)人生を自由に生きたいの!」

豆葉ねえさんとさゆりの意見が食い違うところです。

さゆりは芸者になっても、自分の可能性をあらゆる方向伸ばそうと飛び立とうとしますが、

豆葉は芸者の定めに忠実に生きようとします。

「芸者は妻でもなく娼婦でもない」

最後にさゆりが回想録の中で呟くシーンです。

つまり、芸者は女としての幸せは望めないのだということ。

芸に生き、「いいパトロン」を見つけ、何不自由ない暮らしをすることが彼女達の最終地点なのです。

果たしてさゆりはゲイシャとして生きるのか?それとも女としての幸せを取るのか?

二者択一がせまられる中でヴァイオリンが悲しい音色を奏でながら、物語は幕を閉じます。

ゲイシャを知らない人もきっとー美しい純愛にはまる最高の作品だと思います!!



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