<私が私でいられる時>・16

 

 

冬。

夜。

誰もいない道。

冷たい風が吹き抜けていく。

静かな、静かな、薄闇の世界。

今にも雪が舞い降りてきそうな……。

いいえ。

それは、きっと、もっと、もっと、張り詰めていて、

空気の端っこを指で弾いたくらいの振動で、

全てが氷の結晶になってしまいそうな、夜。

私は、そんな空気の中を一人で歩いていた。

──私?

私は、誰?

今の私は、誰?

 

龍ヶ崎彩?

石岡綾子?

 

わからない。

自分が誰なのか、わからなくなってしまった。

──鏡の中の自分を見て。

お姉さまの下着をつけ、お気に入りの服を着た私は、

自分でもびっくりするほどにお姉さまにそっくりだった。

ただ、髪の長さだけが違った。

黒く長い私の髪は、それまで、私の自慢で、

罪深い私は、自分のそれが映えるように、

同じく長く伸ばしていたお姉さまの髪を無理やり切らせたことさえあったのだ。

 

でも、ついさっきのこと。

私は、その髪を自分の手で切っていた。

長すぎるから。

お姉さまの髪は、私より短い。

セミロングを、少し伸ばした、ロングにさしかかるくらいの長さ。

ハサミを手にした私は、ためらいもせずに、

昔、自分の命とも思っていたものを切り離した。

だって、それは、長すぎるから。

私の理想の女の子には、それは長すぎるから。

じょぎ。

じょぎ。

じょぎ。

乾燥した音を立てて、切り落とされた黒髪は、私の要らない部分。

私の罪。

いやな、私。

鏡を見た。

髪を切ることで、ますますお姉さまに近づいた私は、

それだけ理想の女の子に近づいた。

優しい、いい子。

ママが望んだ、一番いい私。

今、石岡綾子お姉さまの姿を取って、具現化している、

私がなるべき、私。

 

罪を切り落として軽くなった頭の中が静かに熱を持っている。

それは、冬の夜のこの空気でさえ、冷やすことが出来ない。

私は、<マジ狩る少女ピクル>の衣装の上に羽織ったコートのポケットをまさぐった。

冷たい鋼が指先に触れる。

大きなハサミ。

私の罪を切り落とした、ハサミ。

そして、私は、もっと別のものを切り落とさないと──理想の私になれない。

 

 

お兄さまの家は、一度来たことがある。

高級住宅街の長い坂の中ほどにある、品のいいお家だ。

見覚えのある門と玄関の前に立つ。

あのとき、傲慢さの罪をたっぷりと身にまとっていた頃の私は、

この場所で初対面のお兄さまを誘惑したのだ。

お姉さまが好意を持っている相手と知った上で。

私は、頬がかっと赤くなるのを自覚した。

色々なことが思い出される。

 

お姉さまを「綾ちゃん」と呼んだお兄さまに、

自分が、自分だけがアヤチャンと呼ばれるべきだ、と言ったこと。

お姉さまが、お兄さまと付き合う事を気に喰わない、と言ったこと。

あまつさえ、かわりに自分とデートしないかと持ちかけて、

その次の日、見事に振られたこと。

そして、その日の待ちぼうけのカフェで隠し撮りされた私は、

自分を──龍ヶ崎彩の醜さをはじめて知ったのだ。

 

深呼吸を一つ。

大丈夫。

大丈夫。

今の私は、昔の私じゃない。

だって、一歩一歩、近づいているから。

「お姉さま」に。

そして、それはもうすぐ──この家の中だ。

 

門には鍵がかかっている。

だけど、格子越しに手を伸ばせば鍵が外れるタイプの作りだ。

私は、ゆっくりと門を開け、中に入った。

 

「……」

玄関の前で立ち止まる。

鍵が閉まっている。

門と違って、来訪者を完全に閉ざす扉の前で、

私は、呼び鈴を押すべきだろうかと考えた。

──躊躇。

なぜその行為をためらったのか、わからない。

その代わりに、私は、二、三歩下がってお兄さまの家を見上げた。

(お兄さまの部屋はどこ?)

自分の視線が、お姉さまが今居るはずの場所を探していることに気がつき、

私は、次にすることを、そのお部屋を外から探すことに決めた。

……お兄さまのお部屋は、2階。

ベランダのあるお部屋。

それは、お姉さまとの会話の中で聞いていた。

玄関側には、ベランダはなかった。

裏側?

そう言えば、お姉さまは、そのベランダから、

街を見渡すことが出来る、と言っていたっけ。

それなら、お兄さまのお部屋は、裏側──段差のある側だ。

私は、お家の裏側に向かった。

「……」

あった。

細長い、ベランダ。

横から見ると、高さはそう感じない。

じゃあ、あの部屋が……。

そう思ったとき、モーターの音がして、ベランダの雨戸が開いていった。

(あ……)

下から上がって行く、自動雨戸のシャッター。

その先にはガラス戸があって、カーテンがほんの少し開けられていて、

そこに、――綾子お姉さまがいた。

 

(綺麗……)

月光は、崖のあるほうから、大きく開けた空から照っている。

惜しみなく降り注いでいる。

──この夜の主役のために。

今日、この夜、なぜこのつきがこんなに美しかったのか、

私はようやくわかった。

お姉さまがここにいるからだ。

綾子お姉さまが、ここでこうして月をお兄さまの部屋の中に

差し込ませようとカーテンを開けることを知っていたから、

月は、こんなに綺麗に夜空に浮かぼうと思ったのだ。

月光を従える、夜の女王。

ガラス越しに見える美しい影は、白と黒のゴスロリを纏っていた。

黒は、ハシビロコウの羽のように艶やかで、

白は、蚕が吐く一番綺麗な絹糸だけで織ったように汚れがない。

完璧な、美しさ。

夜は、その黒をたたえるために暗く、

月光は、その白をたたえるために明るく生まれたのだ。

(――)

お姉さまは、月を見上げてにっこりと微笑み、

部屋の中を振り向いて、何か言った。

そして、そのままカーテンを僅かに開けたまま部屋の中に戻っていった。

「……」

私はその姿を呆けたように見送り、――そして思った。

「あそこに、行かなくちゃ」

あの、この月光を捧げられた女(ひと)のもとに。

私にも、あの魔法をかけてもらうために。

でも、どうやって?

ふらふらとした私の目に、二つ並んだ物置が目に入った。

 

物置の一つは、私の胸くらいの高さまでしかなく、

一つは、もっと背が高い。

崖側に落ちないように詰まれている腰の高さのブロック塀から、

小さいほうの物置に乗って、そこから背の高いほうに乗って、そこから──。

ジャンプに必要なのは、度胸と、腕の力。

いつもの私ならとても無理だ。

でも、今の私には、なんとしてでもそこに近づきたいという硬い石が宿っていた。

(♪ ぴ、ぴ、ピラルクー、ぴっくるんるん)

唇の中で、メロディが踊っている。

背の高い物置の上にまでは、びっくりするほどに簡単に登れた。

音さえ立てない。

静かな夜は、静かなままだ。

当たり前かもしれない。

だって、それは綾子お姉さまに捧げられた夜で、

私は、それを壊すつもりはないのだから。

上手く登れたのは、<マジ狩る少女ピクル>の衣装のおかげだろうか。

魔法と腕力と野性ですべてを解決する白亜紀からやってきた少女にとって、

こんなことは息を吸うよりも簡単なことだ。

だから、私の唇から今にも漏れそうなのは、

荒い呼吸音よりも、軽やかなメロディにほうがふさわしい。

ほら。

だから、地上二メートル半の高さで、

一メートル先のベランダに飛び移るなんてことも、簡単。

恐怖を感じるより前に、私はその場所に飛び移った。

そのままの柵状の手すりを越えてベランダの中に静かに降り立つ。

今なら、なんでもできそうな気がする。

あの女(ひと)に近づけそうな気がする。

あの女(ひと)になれそうな気がする。

そう思いながら、私はガラス戸を覗き込み、そして凍りついた。

部屋の中では、お兄さまとお姉さまが交わっていた。

 

 

絡み合うような、キス。

お互いをまさぐる指先。

胸を、お腹を、太腿を、お尻を、お互いの性器さえも相手にゆだねて。

お兄さまとお姉さまは、交わっていた。

セックス。

二人がそういう間柄だというのは知っている。

交わった証拠のコンドームさえ、私は目撃している。

でも。

目の前に広がる男女の恥態は、あまりにも生々しくて──神秘的だった。

セックス──人間の、一番獣に近い欲望。

快感のために、理性まで失って交わる欲情。

罪深い、肉欲。

この間までの私が、吐き気を催すまで嫌っていた、男女の交わり。

そうだ、パパと、お義母さんは、こんなことをしていた。

そして、私は、それがいやでいやで堪らなかった。

──だけど。

今、私の目の前で行われているそれは、

同じもののはずなのに、全然違ったもののように思えた。

たぶん、お姉さまたちのセックスのほうが、

パパたちのそれよりも、ずっとずっといやらしい。

いやらしく、あからさまで、破廉恥だ。

パパとお義母さんは、乱れているけど、こんなになるまで、

上気した顔で互いをまさぐっていなかった。

こんなに深く、相手の性器をむさぼっていなかった、

そんなところまで、お互いに自分を開ききっていなかった。

絡み合う相手に、自分の全てを捧げようとしていなかった。

交わりながら、新治お兄さまと綾子お姉さまは、ささやきを交わしている。

ガラス越しには、聞こえない。

聞こえないけど、私には、二人が何をささやきあっているのか、わかっていた。

 

お互いを誉めそやす。

お互いに感謝する。

お互いを、愛でる。

新治お兄さまは、綾子お姉さまを。

綾子お姉さまは、新治お兄さまを。

自分の全てを使って愛そうとしていた。

「これが……」

異性と交わる、ということなのだろうか。

わたしは、ごくり、と自分が唾を飲み込んだのを自覚した。

熱い。

見ているだけで、身体が火照るような。

目は、ガラス越しの二人の交わりに吸い寄せられ、

耳には、聞こえるはずのないささやきと息遣いを聞き取り、

私は、ベランダで、一人立ち尽くしていた。

熱い。

背筋がゾクゾクしているのに、

身体は震えるくらいなのに、

身体の芯は、沸騰しそうなくらいに熱かった。

私は、はじめて、「本当のセックス」を見ているんだ。

──そう感じた瞬間、私は思わずしゃがみこんでいた。

(うそ、何……これ……)

ずきん、という痛みさえ感じる。

私は自分の下腹に手を伸ばした。

溶けてしまいそうに、熱い。

その中心は──。

「〜〜〜っ!!」

私は泣きそうになった。

その部分、私の女性器は、ぬるぬるとした熱い粘液で濡れていた。

 

(嘘、何、何なの?)

混乱した頭は、自分の身体の働きを理解していない。

それが、オナニーのときに溢れてくるものだと気がついたのは、

何分後のことだろう。

思い当たった瞬間、私は、頬が火を噴くくらいに真っ赤になった。

欲情。

尊敬する人たちの激しい交わりを見て、私は欲情していた。

(なんて……こと……)

それは、自分が信仰する女神に劣情を抱くような、罪深いこと。

今、さっき、罪を切り落としてきたはずなのに。

私は、もっと深い罪の中に飛び込んでいた。

だめ。

こんなの。

だめ、絶対だめ。

そう、思いながら──私は、自分の指が衣装の中に滑り込んで行くのを止められなかった。

男の人と交わったことなんて、ない。

でも、自慰は、したことある。

お姉さまの魅力を知ってからは、お姉さまを想って一晩に何度もオナニーをした。

洗濯物の中から、お姉さまの下着を盗んできたときなどは、もっともっと。

──そういえば、今、私が穿いているのは、お姉さまの下着。

お姉さまが穿いて脱いだ、洗濯前の。

お姉さまの匂いがたっぷりと染みこんだ──。

(あ、ううっ……)

思い出したとたんに、欲望は止められなくなった。

私はしゃがみこんだまま、ショーツの中に右手の指先を差し入れた。

静かな夜の中、月光の下で、はしたなくも私はオナニーを始めた。

せめて、声がもれないように、たくし上げたスカートの端を加えて、

喘ぎ声をかみ殺したことだけが、わずかに淑女らしく、

残りは、全てが発情期の牝猫のように、

私は浅ましく欲望を貪った。

 

 

「〜〜〜っ!!」

涙まで流して、私は絶頂に達した。

今までの人生の中で、味わったことのない快感。

達した瞬間、本当にこのまま死んでしまうかと思った。

そして、死んでしまってもいい、と思った。

ううん。

死んでしまったほうがいい、だ。

なぜって。

私はわかってしまったから。

人生最高のオナニーの中で、知ってしまったから。

 

(私ハ、アノ女(ヒト)ニ、ナレナイ)

 

部屋の中と、ベランダ。

愛する男(ひと)とのセックスと、それを見てのオナニー。

石岡綾子と、龍ヶ崎彩。

それは、全然違うものだった。

 

(最初カラ、分カッテイタコト)

 

そう。

そんなことは、わかっていた。

知っていたはずだった。

似ているといっても、とてもよく似ているといっても、

そして似よう、近づこうと思って努力しても、

結局、私は、あの女(ひと)そのものでは、ない。

それが、オナニーをしながら、思い知らされた。

もし、新治お兄さまに抱かれたとしても、

きっと私は、綾子お姉さまほど、お兄さまを悦ばせられない。

そして、同時に私も綾子お姉さまほど悦べない。

冷えて行く体が、頭の中までゆっくりと冷静にさせてくれる。

お姉さまが、あんなに激しく悶え、あんなに淫らに振舞い、そしてあんなに悦べるのは、

──新治お兄様を、誰よりも深く愛しているから。

そして、お兄さまも、誰よりもお姉さまのことを愛しているから。

あの女(ひと)には、あの男(ひと)がそんなにも必要で、

あの男(ひと)には、あの女(ひと)がそんなにも必要だから。

私がどれだけ形を真似ようとも、それは、形だけ。

どんなに似せても、人形が人間になれないように、龍ヶ崎彩は、石岡綾子になれない。

──たとえ、殺して、なり代わろうとしても。

今、ここで神様が、龍ヶ崎彩と石岡綾子を入れ替えたとしても、

石岡新治は、必ずそれに気がつく。

だって、二人の間の絆は、神様にだって裂けないもの。

綾子お姉さまが石岡綾子であるためには、石岡新治が絶対に必要で、

新治お兄さまが石岡新治であるためには、石岡綾子が絶対に必要。

必要なもの。

なくてはならないもの。

一番大事なもの。

そして、私は──。

私が一番必要なものは、新治お兄さまではなかった。

綾子お姉さまになることでもなかった。

 

……くすっ。

涙が伝って、乾き始めた私の頬に、小さな笑みが浮かんだ。

「ふふふっ……」

私は、透明な雫が珠を作っている右手の指先を口元に運んだ。

罪深い私の雫を舐める。

生々しい、女の匂い。

苦い、恋に恋したような、はじめての激情の残滓。

紛れもない、私。

捨てたくても捨てれない、いいえ、捨ててはならない、捨てたくない私の大切な一部。

久しぶりに、本当に久しぶりに、私は「本当の自分」が全部帰ってきたことを舌先で感じ取っていた。

なあんだ。

簡単なことだったんだ。

私が、私でいられるために、一番必要なのは──。

うん。

そうだ。

そうしなきゃ。

それをしなきゃ。

でもその前に──私は、ガラス戸を開けた。

 

 

*  *  *  *  *

 

 

「――だ、誰だ?」

新治君が、人影に声をかけた。

「私です。お兄さま、そして、お姉さま」

「……彩?!」

「……妹さん?」

先ほどから、部屋の中を覗いていただろう、その人物は、

ゆっくりとガラス戸を開けて入ってきた。

月光の中で、<マジ狩る少女ぴくる>の装束に身を包んだ、彩が。

「な、何、どうしてここに──」

私は、突然現れた妹に、呆然とした。

新治君も同じ思いだったろう。

思わず顔を見合わせて、――二人とも裸のことを思い出して、

慌てて拭くと毛布を手繰り寄せた。

「……お姉さまに、謝ろうと思って……」

「え……?」

わたわたと慌てふためいて下着を着ける私たちを、

彩は優しく笑いながら見詰めていた。

その表情は──見覚えがあった。

 

「ごめんさい。色々と──お兄さまにも」

ぺこりと頭を下げる、妹。

いつの日だったか、分かり合おうと歩み寄ろうとしていたときの、瞳。

あの時は、不幸な事故が重なって、結局喧嘩になってひどく傷つけあったけど、

今日は──。

「彩……」

「妹さん……」

「――私、ピアノ弾く。これから。今すぐに、家に帰って」

「彩……」

唐突な言葉は、だけど、私には意味が通じた。

新治君にも。

「彩……取り戻したのね」

私のことばも、意味がつながらない。

彩と、新治君以外の人間には。

だけど、二人には通じる。

「ええ。私は、私。――龍ヶ崎彩!」

天才少女と呼ばれたピアノ演奏者は、微笑んだ。

「だから、これから、ピアノを弾きにお家に帰るわ。

だって、随分レッスンを怠けちゃったもの。

パパに、いっぱい教えてもらわなきゃ!」

「そうね、そうだね……」

「ありがとう、お姉さま、お兄さま。──私、やっと自分に戻れた」

「うん、うんっ……」

私は、いつの間にか、ベッドから抜け出し、綾を抱きしめていた。

私が私でいられるためには、新治君が必要だ。

この娘が、この娘でいるために必要なのは──やっぱりピアノ。

それは私も、いいえ、彩を知る人間全てが知っている。

だけど、それは自分で気付かないといけない。

私が、私が私でいるために一番大切なものを見つけ出したように。

そして、今、私の素敵な妹は、それをもう一度思い出した。

 

「うふふ……」

私の腕の中で、彩がくすくすと笑う。

上品な、ちょっぴりこまっしゃくれた、昔の彩の笑い方。

でも、あの頃の悪意や嫌味がなくなって、もっともっと魅力的な笑い。

「――お姉さま、二つだけ、お願いがあるんだけど」

「何? なんでも聞いてあげるわよ!」

私は、即答した。

戻ってきた「家族」、今では大切な「妹」のお願いを聞かない「姉」はいない。

「ん。一つ目は、――そこのゴスロリ、貸してちょうだい。

なんだか、この服で来たのが急に恥ずかしくなっちゃった。これよりはまだそっちのほうがマシだし。

お姉さまは、制服で来たんでしょ?」

彩は、<マジ狩るピクル>のコスプレ服をひらひらさせながら言った。

なんでそんな服を着ているのか、そもそもなんでここに来たのか。

――まあ、彩が自分を取り戻したことに比べればどうでもいいことだ。

「うん」

頷いた私に、彩はにっこりと微笑んだ。

昨日までとはまったくちがう、微笑み。

何があったのかわからないけど、この娘(こ)は、急に大人になった。

女って、そんなものかも知れない。

大切なものを見つけると、あっというまにレディになってしまうのだ。

 

「もう一つは?」

私も微笑みながら聞いた。

「ん。お姉さまとお兄さま……早く結婚してしまいなさいよ」

「えっ……!?」

「式のときは、私がウエディングマーチを弾いてあげるから」

予想外の、だけど、ものすごく心地よいお願いに一瞬戸惑っている間に、

彩はさっさとゴスロリに着替えて、ぺこりとひとつお辞儀をすると、部屋から出て行きかけ、

「ああ、いけない。靴はこっちでしたわ」

言いながら戻ってきて、それをベランダから取ってくると、

もう一回私たちにお辞儀をして、今度こそ出て行った。

「……何……今の……」

「さあ……」

新治君は、キツネにつままれたような表情になっている。

彩が、失意から自分を──ピアノの天才少女の自分を取り戻したことはわかっている。

だけど、なぜ、どうやってとか、どうしてここに来たのか、とか、

今のやり取りとかは、分からないのだろう。

姉の私も、わからない。

わかるのは、彩が素敵なお願いをして行って、そして──。

「ん……それはともかく――」

「ともかく……?」

「あ、いや、その、ね」

「うふふ……」

新治君は真っ赤になった。

何を言おうとしたのかは、声で聞かなくなくても伝わっている。

でも。

私の一番素敵な男(ひと)は、いつかその言葉を言ってくれるだろう。

自分の中の、私たちの中の、必要なものを一個一個積み上げて、

不必要なものを一個一個取り除いて。

自分と、私が全てに納得できるようになったときに。

だから、彩の二つ目のお願いも、きっと私はかなえることができる。

私は、私だから。

新治君が大好きな、石岡綾子だから。

「んー。じゃあ、その話は後でゆっくり聞かせてっ!」

「えっ、えっ、いや、あのっ……!」

「今は、そうね。さっきの続き、しようよ!」

「あ……うん」

「彩が持ってきてくれたから、今度は<マジ狩るピクル>ごっこだねっ!」

「……え、あ……うんっ!」

私は、新治君に抱きつきながら、実感した。

 

──私が、私でいることを。

 

 

 

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